水底の夜明け
第3章 沈黙の水界アトラシア
1 水底の夜明け
世界が反転する瞬間は、いつだって静かだった。
リオは目を開けた。
だが視界に映ったのは空でも大地でもなく――深い藍だった。
「……水、なのか?」
声を出したつもりだった。しかし、音は出ない。
喉を震わせても、空気は振動せず、言葉は泡の形にすらならなかった。
――ここでは、音が存在しない。
胸がざわついた。
まるで世界そのものが耳を塞いでいるようだった。
カイの姿を探そうと身を起こすと、身体がゆったりと浮いた。
重力が異様に軽い。まるで水と空気の境界が曖昧なのだ。
「カイ……?」
呼んだ感触はあるのに、声が世界に届かない。
しかし次の瞬間、どこからか微かな気配が返ってきた。
――リオ……? そこにいるのか?
聞こえたような気がした。
耳で聞いたのではなく、心に触れた。
(……テレパシー?)
違う。もっと原始的で、もっと深い何か。
水底で響く記憶の声のようだった。
リオがゆっくりと前に進むと、暗い水の層の向こうから人影が漂ってきた。
白銀の髪が水の中でゆらめき、青い目がかすかな光を宿している。
カイだった。
「無事か……?」
声にはならない。しかし、カイはうなずいた。
――ここ……どこだ……?
――水だらけだが……息は……できてる……?
(水……だけど、溺れない。どういう仕組みだ?)
リオが手を伸ばすと、指先に触れた水がひどく冷たかった。
その冷たさが骨まで染み込むようで、背筋が震えた。
――ここはアトラシア。
――風の世界が終わり、次に生まれるはずだった水の世界だ。
その声は、アルマではなかった。
もっと古く、もっと遠い、世界そのものの響きのようだった。
(アトラシア……)
世界が揺らいだ。
暗い水の向こうから、光がゆっくりと漂ってきた。
――いや、光ではない。
巨大な目 だった。
水の中に浮かぶ、淡い金の光を宿した巨大な球体。
瞬きはせず、ただリオたちを見つめている。
(……何なんだ、あれは?)
カイも動きを止め、じっと目を細めた。
水の抵抗があるはずなのに、身体はすっと前へ進む。
古い記録の断片が脳裏をよぎった。
――最初の神は、水の眠りから目覚める。
リオは背筋が冷えるのを感じた。
「目」はゆっくりと回転しながら、周囲の水を揺らしている。
次の瞬間――世界そのものが震えた。
巨大な目を中心に、大量の記憶の粒が渦を巻き始めた。
古代文字、失われた声、祈りの残滓、断片的な映像……
それらが泡となって流れ、リオたちに向かって押し寄せる。
(来る……!)
カイがリオの腕を掴んだ瞬間、泡の奔流が二人を飲み込んだ。
――意識が、崩れる。
気づくとリオは、暗い影に囲まれていた。
身体は動くが、音はやはり存在しない。
「カイ!」
声は出ないが、強く心で叫んだ。
その瞬間、闇の奥からまた目が現れた。
さきほどよりも大きく、そして近い。
リオは反射的に後ずさった。
しかし逃げられない。
水の中で、空間そのものが歪んでいる。
目が、ゆっくりと開き――世界が割れた。
光が溢れ、記憶の断片が流れ込んでくる。
破壊された神殿、泣き叫ぶ子ども、沈む都市、祈りを捨てた民……
その全てが、リオの中へ注がれていく。
(これ……前の転生……?)
違う。
もっと古い。
最初の世界の記憶だ。
あまりの情報量に、思考が千切れそうだった。
目の奥が熱くなり、意識が薄れる。
そのとき――
どこかから、柔らかい光が差し込んだ。
淡い桃色の輝き。
リオの胸の奥で眠っていたアルマの欠片が、微かに震えていた。
――リオ。
風の世界で聞いたものと同じ、優しい声だった。
アルマではない。
しかし、どこか似ていた。
――怖がらなくていい。
――この記憶は、あなたが進むために必要なもの。
光がリオの身体を包み、記憶の奔流がゆっくりと和らいでいく。
(……いったい、誰なんだ?)
問いかけても、声は返ってこなかった。
しかし、胸の奥の温かさだけが残った。
気がつくと、再び水の中に戻っていた。
カイがすぐそばにいて、心配そうに覗き込んでいる。
――大丈夫か?
――さっき、意識が……。
(……ああ。なんとか)
リオが息を整えていると、視界の隅に巨大な影が動いた。
先ほどの目だ。
だが今度は、何かが違う。
目の周囲に、半透明の文様が浮かび上がっている。
それは古代文字のようでもあり、祈りの残滓のようでもある。
カイが小さく唸った。
――あれ……怒ってないか……?
確かに、先ほどまで静かだった水がざわめき始めた。
泡が立ち、底の見えない深みから低い振動が響く。
(やばい……)
世界の水が落ちる
次の瞬間。
天井が落ちてきた。
いや、水の海が逆流し、
巨大な渦となって二人を引きずり込もうとしていた。
カイがリオの腕を掴む。
しかし渦の力はあまりに強く、二人はあっという間に流される――
リオの胸の奥で、アルマの欠片が再び光った。
その瞬間。
水が割れた。
――いや、道が開いた。
水が柱のように左右へ押し分けられ、
中央に一本の空洞の道が生まれたのだ。
カイが目を見張る。
――おい……今の、リオが……?
(わからない……でも、行くしかない!)
二人はその道に飛び込んだ。
水面はすぐ閉じるように揺れたが、不思議と道は保たれている。
暗い水のトンネルを抜けた先――
そこに広がっていたのは、街だった。
沈んだ記録都市
水中なのに、建物は崩れていない。
ガラスのような外壁、植物のように揺れる光の蔦。
空を泳ぐ魚のような光の粒たち。
そして、街の中央には――
巨大な白い碑文が立っていた。
文字は読めない。
しかし、その形には見覚えがあった。
(エミュレータ……?
いや、もっと古い……これが神の原型か?)
カイが呟く。
――ここ……誰もいないのか……?
辺りは静寂に満ちている。
それなのに、どこかからか「見られている」感覚がある。
リオは碑文に近づき、手を触れた。
**
その瞬間、碑文が光った。
水の中に、透き通る声が響いた。
――ようこそ、記憶の継承者よ。
我らはずっと、あなたを待っていた。
リオは息を呑んだ。
その声は――
アルマによく似ていた。
しかし、もっと古く、もっと深く、もっと神話的だった。
碑文が割れ、中から白い影が浮上した。
――わたしは《エイナ》。
最初に記憶を紡いだ存在。
アルマを作った者の、一つ前の世代。
世界そのものが震えた。
ここから、
リオの始まりへの旅が動き出す。




