未来雲
あれは、夢だったのでしょうか。
あなたは空のように気分屋で、雲のように自由でした。
触れれば消えてしまいそうなほどに曖昧なあなたでしたが、僕は今でも鮮明に覚えているのです。
空を見るたび、あなたの存在が確かだったと思えるのです。
今でも、見守ってくれていますか。
流れゆく 霞の群れに 身を委ね
風の向くまま 明日は何処へ
青々とした草の匂いを纏った風が鼻腔を撫でる。乾き過ぎず、潤い過ぎず。暖か過ぎず、涼し過ぎず。心地よさだけを抽出したような薫風。
雨宮安曇は河川敷に横たわり、小さく伸びをした。教科書の詰まったスクールバッグが枕代わりになり、ちょうどよい高さが頭に馴染む。緑の絨毯は家にあるどの寝具よりも心地よく、このままうたた寝してしまいそうなほどであった。
土手を通りがかる人々が怪訝な顔を浮かべて一瞥しては通り過ぎていくことも、学ランが草に塗れることも、バッタが腹の上を我が物顔で跳ねていくことでさえも、この上ない至福の前では、全く気にするに値しない瑣末なことであった。
極上の癒しが微睡みの底へと誘う。うつら、うつらと。次第に瞬きの時間が延びていく。
学校から鳴り響く、遅刻の確定を告げる鐘さえも、今となっては子守唄でしかないのだった。
「君、学校行かないの?」
突然、視界が影に覆われた。眉を顰め、糸よりも細く目を開けて一瞥する。そこには、一人の少女が、宝玉をはめ込んだような瞳でこちらを見下ろしていた。
邪魔をしないで欲しい、と。心の中で吐き捨て、シャッターを下ろすように再び視界を遮断する。
ふわり、と。花のような甘い香りが風に踊り、気配が一層濃くなった。無視しようと。さらに強く瞼に力を込める。
「おーい、生きてる?」
柔らかい感触が頬に触れる。ボタンを押すように、何度も、何度も、離されては押し戻される。
「……何?」
むくり、と。苛立ちを胸の内に秘めて上体を起こす。こちらの根負けにより、勝負の軍配は少女に上がったのだった。
「あ、起きた」
少女は頭から背中にかけてを軽くはたいてくる。はらり、はらりと。学ランに付着していた草が舞い落ちる。
手が触れるたび、口付けのような温もりが全身を駆け巡る。
膝を抱え、じっと耐え凌いでいた。
「よし、オーケー。で、学校は?」
やっと終わったかと思えば、今度は先ほど無視したはずの返答に困る質問を再び投げかけてきた。
「……行かない」
ぶっきらぼうに答える。至福のひと時に土足で入り込んでくる存在に、それ以上の言葉は不要だと感じた。
そっか、と。小さく呟きながら、隣に腰を下ろす。それ以上深く追求してくることはなかった。
「私、南雲未来。君は?」
ゴロン、と。未来と名乗る少女は寝っ転がると、色素の薄いロングヘアが花開くように地面に広がった。
「……言わない」
尻と枕を引き摺り、少し離れたところに再び横たわって目を閉じる。
「ふーん。じゃあ、チビで」
ハリセンボンのように唇を尖らせ、腹いせのように命名する。小柄な体枢を一瞥したその目は、まるでイタズラを思いついた子供のようだった。
それでも、名乗る気になれなかった。あまりにも無遠慮なその姿勢は、警戒心を解くに値しなかった。
「チビ、ほら見て」
未来は腕から指先までをピンと手を伸ばし、空を見るよう促す。
ほら、ほら、と。見るまで言うつもりのようだったので、渋々目を開ける。
そこには、綿菓子のようにふわふわと漂う雲が、風に流されて形を変えていた。
「私、好きなんだよね。空見るの」
満足そうな笑みを浮かべて腕を下ろす。
「雲一つない快晴もいいけどさ、白と青のコントラストが好きなんだよね」
片膝を立て、もう片方の足を交差させながら続ける。
「いつ、どこを切り取ってもさ、二度と同じ空は見られないんだよ。そう考えるとは、なんだかこの一瞬一瞬を大切にしたいと思わない?」
「……別に」
恋する乙女のように恍惚とした光が瞳に宿っている。本当に空に恋でもしているようだった。
しかしそんなことを言われても、空の全ての瞬間に価値があるとは思えない。心のどこかで冷めた自分が嘲笑っていた。それでも、彼女の声にはなぜか耳を塞ぎきれない響きがあった。
「チビにはまだ早かったね」
嘲るように微笑まれたので、寝返りを打って体を背ける。素直に言うことを聞いて空を見ていた自分が途端にバカバカしく思えてきた。
「一つ、面白い話してあげる」
わざとらしくため息を吐き、無視しようと狸寝入りを続ける。耳が傾いているか、ちゃんと聞いているか、そんなことは彼女にとってはどうでもいいことのようだった。
彼女はこちらに構うことなく、独り言のように言葉を紡いだ。
「空はね、未来を描くキャンパスなんだよ」
また、くだらないこと言ってる。
否応なしに耳へと届くその言葉に毒を吐き捨てる。
「晴れの日には気分が上がったり、曇りの日には落ち込んだり。それだけじゃない。もっと繊細な未来を描いてる」
こちらの様子を伺うような視線を感じた。
相変わらず不貞寝を続けている。これ見よがしにわざとらしくため息を吐き、肩を上下させる。
「空が言ってる。学校、行った方がいいよ」
その瞬間、何かが弾けた。至福の時間に土足で入り浸り、興味のない、中身のない絵空事を吐き散らす。それだけでは飽き足らず、今度は学校へ行け、と。どこまで干渉してくれば気が済むのだ。
「君には、関係ないでしょ」
怒りに身を任せて体を起こし、その姿を焼き尽くすように睨みつける。
「ないね」
「じゃあどっかいって──」
「私の言葉が信用できない?」
勝ち誇った笑みを浮かべていた。その質問の答えは決まりきっている。
できる。
わけないだろう。
言動、行動、何をとっても信用に値することが一つもない。
「そっかぁ。じゃあさ、賭けしよっか。君の未来を完璧に言い当ててあげる。外れてたら、もう君とは関わらないことにする」
「絶対だからね」
後でもう一回と泣きついても知らないから。と、付け足す。
未来を言い当てるなんて、不可能に決まってる。あまりにぬるすぎる賭けだ。
「わかってるって」
そう言って、未来は空を凝視する。
「お、見えてきた。そうだなぁ。今日の晩ご飯は君の大好きな鶏の唐揚げ、と言ったところかな。ジューシーな鶏もも肉。噛むたびに肉汁が溢れて。君、ご飯おかわりしちゃうんじゃない?」
「ふーん」
そっけなく返すも、僕は勝ちを確信していた。
あいにく、今日のご飯は焼き魚だと母さんは言っていたからだ。
「じゃ、私はそろそろ行くね」
自分がどれだけ的外れなでたらめを言っているか。知る由もないのだろう。変わらぬ笑みを浮かべて立ち上がる。
スカートを揺らして踵を返すのを一瞬見やる。
彼女の惨めな姿を想像すると、心が躍った。
「よっ、チビ」
昨日と同じ場所で寝そべっていると、彼女は現れた。その声は、昨日と同じ揶揄うような響きを持っていた。
ひたすら、沈黙を貫く。
結果として、昨日の晩ご飯は唐揚げだった。鶏もも肉を解凍していたため、急遽変更したらしい。
それはそれは美味しかった。彼女の言った通りだった。普段はご飯一杯で満腹になるのに、おかわりだってした。
「どう? 信じる気になった?」
「少しね」
「じゃあ、学校に──」
「行かない」
未来の言葉を遮った。
関わり続けるか、関わるのをやめるか。そう言う趣旨の賭けだった。負けたからと言って、学校に行く理由にはならない。
「そっか。でも、君に会いたがってる人、いるんじゃない?」
僕は再びじっと口をつぐむ。いない。そう否定したかった。しかし、都合が悪くなると言葉が出なくなるのは、持って生まれた小さい時からの性質だ。
「空が言ってるよ。君のクラスの一番後ろの席に座ってる、少し大人しそうな子。その子、君がいなくて寂しがってる」
怖いくらいによく当たるので、思わず唇を噛んで視線を逸らす。未来は、胸の中で予想が確信に変わったように、自信満々に続けた。
「チビ、見て」
未来の指差す先には、青のキャンパスをチョークで引っ掻いたような、二筋の細い線。
「飛行機雲だよ。まるで、君と、君の大切な人の今を表しているみたじゃない?」
「一生平行線なところまで、そっくりだね」
冷笑混じりに言うと、未来は苦笑した。
「今はそうかもね。でも、雲は時間が経てば姿を変える。飛行機雲だって同じ。やがて一つの大きな雲になって空全体に広がる」
未来は隣に腕を頭の後ろで組んで横になった。
「その人、いつも約束の場所で君を信じて待ってるよ」
言い終えると、視線を傾ける。視線が交錯すると、ニッと歯を見せてイタズラっぽい笑みを浮かべた。その表情は、まるで心の中を見透かしているようだった。
よっと、と。未来は足を空に向け、勢いよく倒し、その流れのままスッと起き上がった。
「ま、どうするかは君次第だけどね」
顔の横で小さく手を振り、去っていく。
再び、一人になった。河川敷を吹き抜ける風が、未来の香りを運んでくる。さっきまで二本だった飛行機雲は、いつの間にか一本に繋がり、淡く空に溶け始めていた。まるで、未来の言葉をなぞるように。僕の心もまた、見えない何かに導かれているような気がした。
幼馴染の蒼太とは、物心ついた時からずっと一緒だった。朝は家の前で待ち合わせして、他愛もない話をしながら通学路を歩き、放課後には秘密基地を作っては冒険ごっこに明け暮れた。テストの点数が悪くて落ち込んでいると、蒼太はいつも肩を叩き、「大丈夫だよ。次頑張ればいいじゃん」と笑ってくれた。
そんな蒼太との間に、初めて距離が出来始めたきっかけは、些細なことだった。
テストのたびに、成績が下がり始めたこと。
母さんはいつも、答案用紙を見ては「どうして蒼太くんはできるのに、あなたはできないの」と、責め立てた。
その言葉を聞くたび、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、言いようのない不快感に襲われた。母さんの言葉の裏に隠された「蒼太は優秀で、あなたはそうじゃない」という響きが心を深く傷つけた。
最初は、ただ母さんに反発したかっただけだった。でも、次第にその矛先は蒼太へと向かっていった。蒼太の笑顔が、優しさが、まるで、不甲斐なさを嘲笑っているかのように思えたのだ。
いつからか、蒼太を避けるようになった。朝は早く家を出て、放課後もすぐに帰るようになった。蒼太が話しかけてきても、「別に」とだけ答えて、すぐに背を向けた。
蒼太は最初は戸惑っていたけれど、次第に諦めたように、何も話しかけてこなくなった。そうして出来た、二人の間の見えない溝。その溝は、日を追うごとに深くなり、やがて大きな川のようになった。もう、顔を合わせることさえも苦痛だった。
学校へ行くことが、蒼太と顔を合わせることが、一番の苦痛になった。だから、学校から逃げるように、河川敷に隠れるようになった。
「その人、いつも約束の場所で君を信じて待ってるよ」
未来の言葉が頭の中で反響した。約束の場所──そこはいつだってあの公園だった。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。河川敷から家へ帰る道を逸れ、吸い寄せられるように公園へと向かう。
何度か来たことはあるけれど、もう何日も蒼太と顔を合わせていない。彼がそこにいる確証はなかった。もしかしたら、未来の言葉もただのデタラメだったのかもしれない。胸の奥に不安の塊を抱えながら、公園の入り口をくぐる。
以前と変わらない、静かな午後だった。錆びた滑り台、日焼けしたジャングルジム。そして、少し軋んだ音を立てて揺れるブランコ。そこに蒼太の姿はなかった。
一人でベンチに腰を下ろした。未来の言葉を信じて、少しでも期待してしまった自分がひどく馬鹿らしく思えた。どうして、たかが数回会っただけの不思議な女の子の言葉を信じてしまったのだろう。虚しさだけが心を支配していく。
その時だった。公園の入り口から、不安そうな表情で辺りを見渡す人影が一つ。
「蒼太!」
思わず叫び、駆け寄った。その声に、蒼太は驚いたように振り返る。
「蒼太、ごめん。いつも蒼太と比べられるのが嫌で、蒼太のこと避けてた。もう無視しない。だから、また前みたいに──」
言葉を最後まで言い切る前に、蒼太に強く抱きしめられた。その温かさに、張り詰めていた心が音を立てて崩れていくのを感じた。
「安曇君、待ってたよ」
彼の声は、震えていた。肩に顔を埋めた蒼太は、せきを切ったように涙を流している。
「心配してたんだ、安曇君。学校に来なくなってから、毎日、毎日、ここで待ってたんだ」
背中に回された蒼太の手に力がこもる。ただただ彼の温もりを感じていた。
「ごめんね、蒼太……」
それしか言えなかった。ただひたすらに、ごめん、ごめん、と繰り返した。
互いの体温を感じながら、しばらくの間、何も言わずに抱きしめ合った。言葉は何もいらなかった。ただ、この温もりが、二人の間にできた溝を、埋めていくようだった。
公園の空には、いつの間にか飛行機雲が一本、長く伸びていた。それは、二つの離れた軌跡が一つになった、僕たちだけの道標のようだった。
「あれ、チビ、学校は?」
未来は少し不満げな顔で言った。今日は河川敷にいないと思っていたのだろう。
「今日は土曜日だよ」
「あ、そっか」と、未来はハッとしたように手のひらを拳でポンと叩いた。普段は空ばかり見ている彼女だが、曜日や日付には疎いのかもしれない。
「週明けから、学校行くよ」
その言葉を聞くと、未来はにこりと微笑んだ。
今まで見てきた中で、一番キラキラとした笑顔だった。
「仲直り出来たんだね」
「まあね」
小さく頷く。未来と出会う前なら、照れくさくて何も答えられなかっただろう。でも、今は違う。素直な気持ちを言葉にするのが、少しも怖くなかった。
それから、二人の間に沈黙が流れた。心地よい風が吹き、河川敷の草を揺らす音が聞こえる。この時間が、永遠に続けばいいのに。そう願った時、未来が突然、立ち上がった。
「あれ、もう行くの?」
僕も思わず立ち上がった。
「チビ、見て」
未来の指す先に広がるのは、雲ひとつない快晴。本当に、どこを見渡しても一つとして雲が見当たらない、透き通った世界が無限大に続いている。
「私の役目は終わり。これからの未来は、君自身が描いていくの」
「どういうこと?」
「お別れってこと」
未来は小首を傾げて目を細める。
「もっと、一緒にいたいよ」
「嬉しいこと言ってくれるね。最初とは大違い」
未来は小さく笑う。こんな状況でも、どこか楽しそうだ。でも、瞳の奥にはどこか切なげな色が滲んでいるような気がした。
「雲は、一つの場所には留まらない。自由だから、雲なの」
未来は、僕に背を向けたまま、一歩、また一歩と歩き出す。その足取りは、いつものように軽やかで、迷いがなかった。
「未来、どこへ行くの?」
「さあね。風の向くまま。明日は何処へ──」
未来は、振り返ることなく、僕の目の前からゆっくりと姿を消していく。そして、彼女がいた場所には、何も残らなかった。ただ、一面の青空が、僕の心を包み込んでいた。それは、まるで、未来が僕にくれた、新しい未来のキャンバスのようだった。
一人、河川敷に立ち尽くしていた。寂しさはあったが、後悔はなかった。未来がくれた言葉、そして、蒼太と再会できた喜び。全てが、勇気を与えてくれた。
週明けから学校へ行く。新しい未来を、僕自身の手で描くために。もう未来の姿はない。けれど、空を見るたびに、彼女を思い出すだろう。
そして、彼女が教えてくれた自由な心と、自分を信じる強さを、決して忘れない。
きっと、夢でもなければ、嘘でもないのでしょう。
あなたがくれた温もりは、確かにこの手の中に現実として残っています。
空が描く未来は、時に嵐を運び、時に孤独を連れてくることでしょう。
それでも、不思議ともう何も怖くはないのです。
空を見上げるたび、あなたが、雲のように自由なあなたが、見守ってくれていると信じられるから。