5話
その日、ぼくは合宿所の平屋建てに朝早く、六時ごろにやって来ると、合宿所の引き戸をガラッと開けて、なかにいた皆を驚かせた。部活のメンバーは勢いよく慌てて、ぼくのいる玄関に目をやり、《先生》ではなく、ぼくの姿を見つけた。
どうやら《先生》と勘違いしたようで、「驚かせんなよ」、とそれからサトウ先輩が言った。
――「ごはんでしたか?」
――「うん、今、食ってるところだ」
サトウ先輩は少し怒っているようにも見える。
正直、その家は散らかっていた。分厚い漫画の雑誌が縦にがぱっと割かれ、そこら辺の床に投げ捨ててあった。割いた片っぽを誰かが読み、残りの片っぽを誰かに貸して読んでもらっていたのだろう。
それともこれは二人が金を出しあって買ったものかもしれない。
昨日、ぼくはその場に居合わせなかったので知らなかったが、西と幸平がケンカをしたらしい、西は目の上に軽いけがを負っていた。
幸平はカヌーの経験が長く。ぼくたち一年ボウズの〈まとめ役〉のような立場にいつの間にかなっていた。
幸平はひとに何かを強く言い出すことが苦手だった。根っこが優しいのだ。
皆は朝食に昨日ホテルから貰って来たばかりのパック詰めの弁当を、缶詰めの肉と一緒に食べていた。
ホテルのバイキングで出た余り物を、ぼくたちS高のカヌー部員はお総菜を詰めるパックに入れてもらって、調理場の裏口からただでもらって来る。
その弁当をもらって来る役は交代制だったが、あまり気分のいいものでもないなと思っていた。正直、誰もしたがらない。
けれど、その弁当こそ、この合宿所でのカヌー部の昼食、および夕食だった。二日ほど前にカヌー部の栄養を心配したぼくの母が、沖縄から送られてきたランチョンミート、つまり肉の缶詰めを差し入れたので、今日は厚切りにされたランチョンミートが、何切れか、白い皿の上でおどっている。
食事が終わると、机の上のものをザッと片付けた。
食器洗いは当番制だが、自宅通いでそれにあまり当ったことがなかった。思えば、中学のキャンプも僕は「てんかん」があるという理由で、他の生徒とは別に、担任の先生の横で寝たのだ。
☆
「てんかん」というのは体が勝手に動くこと、つまり「けいれん」を時どきおこす脳の病気だ。てんかんの薬を処方したり、問題のある部分を手術で切り取ったり、レーザー光線で頭の中の問題のある部分を焼いたりして普通は直す。
ただぼくのてんかんはそれほど重い症状ではなく、けいれんの発作も稀にしか起こらなかった。けいれんの発作が起きるのは、眠るときか目覚めるときかのどっちかだ。
ぼくはそれから、一番に合宿所を出た。合宿所の庭先にある、鉄パイプで作られたカヌー棚から、シーカヤックを引き抜くと、遊泳場の隣にある「貸しカヌー置き場」のテントまで、ぼくはそれを運んだ。
シーカヤックは八艇あった。一人乗りが五艇で、二人乗りが三艇。
一人乗りは一度に二艇もっていき、二人乗りは一艇ずつ運んだ。どれも同じ、オーストラリアで作られたものだった。
三浦半島をめぐるように走っているこの道路は国道134号と言って、江の島まで続く、なかなか有名な道路だ。このあたりの国道134号線はとにかく車どおりが多い。
ぼくたちは車のいない隙を見て、えっちらおっちら、シーカヤックを運ぶのだ。看板は五枚もあった。テントの四本のポールに計一枚ずつ、一本のポールにだけ二枚、看板をぼくはくくり付け、それが風除けになるように置いた。
それらの作業を一通り終えると、西がパイプ椅子をもって来た。西はテントの中の砂浜の上にパイプ椅子を置いて、どかっと座った。パイプ椅子は海の家から、仕事の度に借りてくる。関節の部分がばかになっていて、座り心地がとても悪い。ケガが気になるのか、西は何べんも指で触れては、傷の具合を見ていた。
それから、ぼくたちは靴をサンダルにはき替えた。ぼくの白いナイキのシューズは、潮風でとても痛んでいた。これももう捨て時かもしれない、とぼくは思った。




