おわり 習作時代②
家に戻ると、それからまた小説書いた。で、そして書けない。ところで俺は、心の目、つまり本物のもの書きの目を持って世界を見ている人間なら、それは、われわれと同じではない――世界もまた、違った実相を見せている筈なんだ――と、何だか危なそうな考えを持ってものを綴っていた(だから書けなかったんだね)。むかーしの連中もおそらくそんな事を信じて、スピード、瞑想、ドラッグ、その他の色々の手法に挑んだわけなんだろうけど、あらら、俺も危険なやつだった!(*絶対に真似るな)
その頃はまだ父と母がいて、俺たち家族――川崎には妹がいた――が、三人で暮らしてた時だった。俺の部屋は二階にあり、いつもとても寒かった。俺は上に毛布をかぶりながら、机に向き合ってた。安物のボールペンで、駅前の文具店で買った原稿用紙に、文字を叩きつけたい。
俺がものを書く腕まえを上げたのは、「小品」という何のひねりもない題の短編を制作してからだった。大体で言うと、原稿二十枚ほどの作で、文字がぎっしりつまってる――けど、表紙には初心者マークを張らなくちゃならないようなものだった。見る目のある人には、とてもお見せできない代物だ。そしてそれを書くと、再び、スランプに陥った。そんな年だった。そうなんだ、相変わらず「作家修行」と称し、俺は仕事も探さずにかといって遊びもせず、文学に身を投じてた。十九のとき勤めていた、食品関係の仕事はすでに契約期間が切れて、一度こうして社会との関係が断たれると、俺は新しいつながりを探すのに無精だった。
☆
それから何日も雨だった。
スタンスミスの白に、あちこち泥よごれが目立った。この靴ももう履き替え時だ。
ただシューズを新調する金を、今、全く持ってない。
だから、ウイング久里浜の中にある「ABC‐マート」で、俺はきれいに陳列された商品の靴たちを、虚しく眺めるしかなかった。
店員がこちらを見る。「何か、お探しの靴でも?」
立ち去った。
懐が淋しいと世界まで淋しかった。狭かった。移動する金もないからだ。
仕方なく本棚の本をまとめて、ブック・オフに持っていった。芥川賞を取った作品も、そこいらの凡作と同じ安価で買い叩かれる。
その翌日、銀行で預金をすこし引き出した。財布に温かみが取り戻されると俺は駅前のすき屋でまず、ねぎの山盛りに乗ってる牛丼を食べた。太田に電話をかけた。
――「もしもし」
俺は言った。
――『誰?』
相手の声が返す。
――「俺、俺だよ」
――『カズ?』
――「うん」
――『そうだ、ヤベーぞ、ノブが死んだ』
ノブは、佐原のシュレッダー工場で働く知り合いだった。
それで俺の頭から、言いたかった事と空腹の二つが吹き飛んじゃったんだ。知り合いと呼ぶには、ノブは俺がよく知ってる――気の置けるやつだった。友人だった。ニュースは最悪だった、なぜならノブは爆死したんだから! シュレッダー工場の入り口の辺りにいつも置いてあった、ミサイルのような機械――あれが炸裂したっていうんだ。
そして俺は合点した。それ、この町の出来事じゃないかい。佐原ってこの町の一地区のことだ。まさかと思い、テレビを点けると、答えが映っていた。ちゃんと民放のお昼の情報番組が、この事件に対し、コメントを発してるとこだったんだ。
可哀想にノブ。俺は手を合わせ、やつの冥福を祈る。本当だろうか?
――「ppppp!」
と、そこへ再び携帯が鳴り、開いてみると登録制の日雇いからだった。そこに登録していたことも、すっかり俺は忘れていたんだ。日給は5000円、みなとみらい、内容はイベント会場の設営だった。俺はその5000円の中に、電車賃及びバスまでの交通費まで含まれている事を、ちょっとばかり不服にも感じた。しかしそういうものか、とも思い、諦めた。
☆
電車に乗る――そういや、あれから皆とはぜんぜん会わない。ふと、思い出した。それから横浜駅に着くと、地下鉄に乗り替えて、二駅――みなとみらいの現場は作業員で込み合っていた。彼らの中には、専門の業者のような人もいれば、俺と同じように、日雇いでこうした生活を渡り歩いて暮らしているような人も多かった。俺がまだ高校生だった頃、ある先生の元で、毎週、プールでの軽作業に駆り出されてた経験がここで役立った。作業中、誰かが言った――「仕事泥棒」――と。それを今は褒め言葉だったのだと受け取ってる、が、当時はムカついた。殴ってやろうかとさえ思ったんだ。
☆
浮浪者然とした男だった。一度の休憩を取り、夕食を飛ばし、二十時まで働き詰めだった。この数日後、この会場を使用するのがスーツを着込んだ企業のビジネスマン達だとは、信じられない程、荒れた男たちがプレゼン会場を作ってた。俺にももう罵倒の言葉が二十は飛んでる。
横をびゅんびゅんとフォークリフトや何やが通り過ぎてった。
体力さえあれば、これが一番手早く、稼げる仕事に相違なかった。頭もなくて良い。設営が終わるとその四日後、今度は解体の仕事が舞い込んできた。同じ会場での作業だった。ンで四日前に組み立てた、各ブースの骨組みを、今度はバラして隅にまとめた。そして二十時半頃、デカいトラックがやって来て、後は荷を積む作業に移った。俺は日雇いなので、一日の反省とか飲み会とかいったものとはまるっきり無縁だった。その後、横浜の本屋で本を一冊買った。
一日あけて俺は会社に給料を受け取りに向かった。
日雇いがどういうシステムで給金を受取るのかというと、まず俺たちは働いた後、そこのチーフに、労働していたことを示す証明書のようなものにサインを貰う。そのサイン入りの証明書を横浜の斡旋の会社まで持っていくと、そこの給金と引き換えにしてくれる。
☆
それから金持って、ぶらっと関内まで、日光と酸素を補給しに向かった。今日の大気はぽかぽか、スタジアムの前で、どっかの小劇団が東北の被災者支援の支援金を募る劇を上演するので、そのチラシを配っている所だった。
近くの横浜公園では、リクルートスーツを着込んだ今年の大卒の新社会人たちが、群れで固まってた。ベンチに腰を下ろしていたり、ぼんやり立っていたり、動き回っていたりで、佐世保バーガーなど頬張っているやつもいた。色んなやつがいる。
それから、横浜駅の下りホームにある喫茶店の二階席で、なんか書いた。ここでカフェモカでも一杯頼んで、一時間でも二時間でもねばって話を書くのが、この頃の習慣だった。
今日は、何だか、頭がぐるぐるぐるぐる回るようで、一体悪いものでも食べたのかな、と不安に駆られていた。そう言えば、今朝、持病のてんかんの薬を飲み忘れてた。これ、辛いよ。けっこうな量のんでる――フェノバルビタール、アーテン、タスモリン、レキシン、エクセグラン、リスぺドリン、バルネチール――等々、これだけ飲めと言われた初めは、殺す気かとも思った。ただどういう訳か、小説の作業って、薬を飲み忘れた日に限って捗る。
もし、俺がちゃんとした投薬治療を受けていなかったら、今頃、ドストエフスキーになっていたんじゃないかと偶に空想する。掛かりつけ医いわく、100人の内、必ず一人は抱えている病なんだそうだ。
☆
俺に、病気の症状が初めて見えだしたのが、小四の時だった。てんかんなんて、そう重く捉えることはないし、あんまり俺も気にしたことがない。ただ、俺は警備員の仕事に一度、就いた事があるけど(そんな事もあったんだよ)、仕事に就いたその後すぐ、カウンターで買った「YOKOHAMA」と英字のプリントされている絵ハガキを、鞄から取り出すと、俺は、シンプルに真っ白な手紙の表面に、名前か文か絵でも書こうかと思ったけど、それは止した。きれいなままこちらの物産に混ぜて、正月、沖縄の親戚に送ることにしようと決めた。まあ首にされたって話だ。
ハガキを仕舞うと、カフェモカに口をつけた。少し冷めてた。それからその翌日も俺はここへ来て、次はカフェラテを頼んだ。上にクリームがぷかぷか浮かんでいるようなやつで、そのクリームの上からチョコレートの糸がかかっている。昼メシを抜いていたので、それが昼食の代わりだったのだけれど、この頃の俺にはそんなお昼になることも、よくある話だった。上に乗っかっているクリームが見るからにカロリー高めで、これなら十分に昼食の代用になると考えたんだ。
その日は俺以外にも、ここで小説を書いている人がいた。セシル・カットの髪型がよく似合っている。
やっぱり女の子が文字を綴っている光景は、いつ見ても、絵になるものだった。ほらなんていうかあれだよ、ハリー・ポッターの女の子役の子が一回坊主頭にしてきたことがあったろ? そんな感じさ。
涼し気な髪型のその子を横目に見ながら、俺は鞄から、文庫本を取り出し読み始める。薄い――100~120ページそこらの――文庫は、川崎の書店で幾冊も買いあさった。
時々、横をチラ見すると原稿用紙にきれいな文字が整然と並んでいるらしいのが見えた。どうやったらそんなに汚くない書き方が出来るのか。俺なんか、原稿を落書き帳同然に使っては、一枚書いては五枚破くを繰り返してる。
翌日、またも引っ越しのバイトから連絡があり、返信のメールを打って向かった。戸塚だった。
作業服に着替えると、帽子をグイと目深に被った。
今度の客の家は、マンションの一階――子どもがいた。チーフが上手く、その子をあしらおうとするが、かえって泣かせちゃった。ワンワン泣いた。正直な所、昨日はあまり眠れなかった。夜の十二時まで小説を書いて深夜番組とパソコンの将棋ゲームなんかに夢中になって、ぜんぜん睡眠がなかった。人には、俺は仕事をしているから疲れているみたいに言っているが、これこそ、俺の実態なのだ。
☆
食器類を割れない様に専用のケースに詰めていく作業は、引っ越しを依頼した、客の関さんも一緒に手伝ってくれたが、やはり直ぐにほとんど自分と貫さんと鬼塚さんだけでひたすら行う。今日も貫さんは、仕事が速かった。
――「早く終わらせよう」と、貫さん。「こっちやるから」
――「任せた」
鬼塚さんが別の作業に移った。鬼塚さんは自分より、七つか八つ上に見えた。傷がつかないよう、柔らかい壁のようなものを、下と横にセットする。荷物が重たく、おれは荷を下に落としそうになった。そして実際に落としてしまった。
鬼塚さんがそれで本物の鬼のようになって怒った。「ふざけんなよ!」「てめえ!」といった言葉が、いくつも俺に向って飛んできた。ちょっとくじけそうになった。二人は高速で次々荷物を車に乗せて行く――段ボール箱を三つ重ね――それも自分には重かった。
俺は、荷を一つずつしか運べなかった。布団を地面に落としたところで、貫さんが、俺の頭の帽子ごと吹っ飛ばす勢いで俺を打った。それで意思が挫かれた。さっき手間賃としてお客さんからもらった1000円を鬼塚さんに渡した。鬼塚さんは俺からそれをひったくるように奪った。辞めた。作業着を脱いで、一言言い俺は帰った。
☆ ☆ ☆
その日から俺は働かなくなり、翌日、大地震が関東を襲い、十万人が亡くなった。俺はワンピースを観た。何時間も、何日も、ぶっ続けで。時々、自分のこれまで失ったものを数えるたび悲しくなった。
世間は自分なんか必要としていないように感じていたし、仕事もなかった。行き場もなく、図書館と自宅の往復、本をブックオフで買い漁り、読み耽る。
テレビも嫌いだった。ニュースはいつも自分のことを声を大にして訴えているから。報道、文芸誌、コミック、何を読んでも見ても自分の汚いところが突きつけられてきた。
救いはない。
それでも理性が人を信じようと叫ぶ、が、上はその態度が気に食わない。俺はどうしても悪人で、殺さなくちゃいけない。人を信じることも出来ない。
信じること、それが禁じられているからだ。連中は俺に悪徳を勧める。破滅しろ、と言ってくる。
信じる。
人を。
クソみたいな人生だが、そこは譲らなかった。人にはどれだけ最低に落ち込んでも、最低だからこそ、譲ってはいけない一線があるよ。ここが、そこだ。
だがね、俺がクソならあんた方は一体どうなる?
お付き合いくださりありがとうございました。
そしてお詫び申し上げます。
良い一日を。