42話
日々は虚ろに過ぎて行く。
その日は母の運転する車に乗って、どこかに向かうところだった。
その頃はなにをする気も起きなかった。一年程前、病院行きとなり、そこを出たのが翌年の三月三十一日、それは北京オリンピックが過ぎたばかりの頃で、やっと病院を出たばかりの俺はまた受験を目指そうと思ったが、半年もいかない内に息が切れた。
俺は、放送大学というのに入ろうと思ったが、ところが、それの入学期間を一か月過ぎていた。
放大に入学するには翌年の三月まで待たなくてはいけない。
俺は、自分が放送大学で大学の単位をとって、また社会に返り咲く姿をイメージしていた。
私大や専門に入るには、資金が無かった。当時、家は妹の大学入試のことで手いっぱいだったからだ。
自分に割く金はなかった。高校を出、広い――ほぼどん詰まりだが――道に出ようとしていた所を、何かの強い力に引き止められてそのまま壁にぶち当たった感じだった。
それが「社会」という壁そのものだと、それから直ぐに俺は知った。
歩いて行ける距離は狭くなった。
住み慣れた町がいつしか鳥かごになっていた。
病院から家に帰って来て、俺は家で過ごすことが多かった。というのも、他に行き場もなかったからだ。デイケアに通うようにかかりつけの医師には勧められた。一度それで行ってみると、Kさんという人が自分と父の応対に出た。
デイケアでは利用者さんがダーツをやって遊んでいた。それは高校や部活の部屋などとはまた違った居心地の場所だった。俺はそれに馴染めなかった。
ちゃんと通うようになったのはそれから一年も経ってからだ。
☆
俺の家での生活には、母の友人が多く入り込んできた。俺はいい年をして家にいるのが――無為に過ごしているのが――堪らなく嫌だった。
仕事を探した。
黒のダウンにジーンズを穿き、ベリーショートの髪型で。色々と回ってみたが、世間知らずで、とにかく子どもだった。両親や教師と言った後ろ盾もすでに消えていた。放大に入っていることを明かすと感心されるが、それが採用につながったことは無かった。
両親には何十社も受けても採用が決まらない人がいると聞かされた。そして不景気だった。
新聞にはよく「二十社面接したが、採用が決まらない」などといった不吉な一欄が載っていた。日雇いあっせん業者の紹介で働くようになったのは、二〇一〇年の十二月からだ。
登録は簡単だった。エントリーシートのようなものを横浜で書いた後は、自分の番号に電話が入って来る。次々と。そうなると後はしたい仕事の案件に電話を入れ、会社の指示で動くだけだ。
仕事の待ち合わせ場所は横浜の地下鉄駅前、マンションの前、家から遠く離れた工場の倉庫のある駅前など。九時から五時まで働く。
休み時間は少ない。
帰りは徒歩とバス、電車を継いでいく。空に夕焼けが落ち始めるころ帰る。
それからしばらくは、仕事のある忙しい日々が続いた。引っ越しの仕事に「自分も加わりたい」と、電話をかけたのが間違いだった。僕は時間に遅れたばかりか、荷を何度も落とし、段ボール三箱をかかえながら走り回る作業に付いていけず、怒鳴られ、殴られ、かぶっていた引越し屋の帽子が飛んだ。
それから――俺は日雇いの電話に出るのが嫌になった。
また、ぼんやりして過ごす、輝かしいニートの日々が始まったのだ。