23話
昨晩から温度がぐっと冷え込んだ。夕照橋のたもとから眺めると、川面がうすくこおっているのがわかる。
川に浮かんで流されていく薄い氷から、冷え冷えとした空気がここまで伝わってきた。
橋を渡り、裏門へ回るともうすでに開いていた。
その中に入ってから直ぐのところに、すでに正式な部員となったカヌー部の艇庫がある。部員となるに当たってぼくは多少洗礼を受けた。春先のこごえるような川に〝沈〟したのもその一つで、未だにぼくは〝沈〟している。それから艇庫の前で道を左に折れると、そこに機械科の作業場があった。
そこを通る。
作業場の大型シャッターはまだ開いていて、シャッターのなかから内を覗くと、誰もいなかった。
工場内はがらんとしている。そこの壁に据えつけられてある時計をガラス越しに見ると、針は八時と二十分を指していた。すこしだけ歩くスピード早め、それからきっかり二十五分にぼくは機械科の教室に着いた。
クラスの半数ほどの人間は、すでに教室に集まって来ていた。
そしてそれから二、三分も経つと、残りの人間が十人ぐらい、大勢の束になって、まだ明かりをつけていない、うす暗い教室のなかになだれ込んで来る。が、それでもまだ空いた席が目立つ。
三十分きっかりにぼくたちの担任が元サッカー部だった雑賀を伴って、教室に入ってきた。担任には、教室に入る時間をストップウォッチで測っているという噂がある。
――「いいから、早く席に着け」
井口先生はそう乱暴に言うと、教室の電気をつけた。
それからようやく出席を取り始める段になって、北原と宮の二人が遅れて、それも慌てたようすで、中に入ってきた。
――「いいから早く席に着け」
繰り返し言いながら、先生は二人を席がある方へ、迷惑そうに、迷惑そうに、押しやった。
――「分かってる、分かってるって」
北原は大声で叫んだ。
二人をなんとか処理すると、井口先生はまた出席を取りはじめた。
☆
一時間目の授業は機械科の作業実習だった。汚れた、青い作業着に、それから皆は着がえ始めた。しかしなぜかなかなかこの教室から離れようとはしない。教室の床や机には、コンビニで買った飲食物がでんと置かれている。ここでもリプトン500mlの紙パックが人気だった。
――「ねえ、昨日は何で来なかったの?」
すると宮が北原に言った。
――「忙しかったんだよ、なあ」つづけて更に、「なあ」
なあ、と呼びかけられた井口先生は、二人にとっとと教室から出るように言った。この冷たい反応に、北原が喜んで食ってかかった。
――「所で、どうしたのよ、その髪は?」
――「俺のことはいい! はよいけ!」
北原は担任の頭をさっと指さした。すぐに杵山が反応した。担任はいち早く帽子をかぶったが、それが余程いけなかった。
――「アートネイチャー?」
――「違う!」
――「ハゲ!」
――「お前も、あと何年かしたら、こうなるんだからな」
――「俺らは心配ない」
――「ハゲるからな」
――「うっせ!」
北原の後ろから宮が、「北っちゃんなら、な」と、口を挟む。
――「止せよ!」
――「ストレス多いべ?」
――「ヤバい」
――「もういいから別れろよ」
担任の井口が、「恋の悩みか?」、親身になって言う。
――「うっせえ、ハゲ!」
――「何?」
――「何でもないっスよ、もうホント何でもないから、早く出てって! いいから出てって!」北原が怒鳴るように言って、井口を追い立てた。
――「んじゃあ、もう満足か? 直ぐに着替えて作業所に来いよ」
――「合点!」北原は言った。彼は頓智がかった言い回しが好きなのだ。
――「遅刻したら減点だからな」
――「知ってる」
――「知ってんなら、遅刻すんなよなあ……」井口が呆れた口調で言った。「もっとさ、早く来いよな」
それから、僕らは作業場に向かった。
☆
数分した作業場には、早くも数名のクラスメイト達が集まってわいわいと騒いでいた。棚に飾られている鉄製のアメリカザリガニを見て、何やら言い合っているようだ。昔の生徒が課題の際、溶接をして作ったものだ。
皆は青い、スマートな、それでいて安っぽいS高の作業服に着替え、溶接実習のあるものは学生靴を履いている。
上履きを履いてきてしまえば、丸一時間突っ立って周囲が溶接をするのを眺めていることになるので、皆、上履きを履き替えるのを滅多なことでは忘れない。ぼくはよく履き替え忘れた。担任の井口先生が実習の度に行う、今日にまつわる説明も、ぼくはたびたび聞き漏らす。隣にいる誰かに聞くわけにもいかないので、何とか周りを見て、それと同じように行おうとするが、上手くいかないことが多かった。
みな適当にちらばって、井口が来るのを待ち構えていた。
北原と宮が遅れてやって来た。
そしてその後につづくように、井口先生が作業場の入り口からでん、と入ってきた。
入口は広いシャッター式の門だった。一同の気がパッと井口の方に移ると、少々慌てた先生が「何だ、何だ?」とでも言いたげに、辺りをうかがう様子を見せた。
それから前もって言われていた通り、ぼくたちは、旋盤作業、溶接、エンジンの組み立てと分解、小型自動車制作、の四班にクラスの人数はそれぞれ分かれた。ぼくの加わっている旋盤の作業を行う者は、二×四ずつに並んだ旋盤台の前にさわがしく並ぶと、山田先生から、念入りに作業上の説明を受けた。
取り分け、危険な行為や、着ている衣服が旋盤台に絡まってしまった時の対処法などを入念にぼくたちは聞かされた。この事故により、手を失う場合も多いそう。
それからすでに加工を施してある鉄材が、それぞれにいきわたると、ぼくはその鉄材を手に自分の台に向かった。この材料をつかって小さな秤を作る予定。鉄材を旋盤台の口に挟み、ハンドルを閉めて、加工中に鉄がずれないよう、口をしっかりと閉じる。
それから旋盤の機械を作動させると、鉄に少しずつ鏨を近づけて行って、それから、細かい微調整をくりかえしながら削っていった。
コンマ何々の世界、「何だか長さが違うな」と削っては思え、削っては思えてくるから不思議である。ぼくたちは皆、隣の秤をチラチラとのぞき見ては、それをまねていた。竹原の秤が一番うまかった。
――「上手いなー」
と、竹原の秤を横からのぞき込み、雑賀が言った。
雑賀は自分の旋盤台に戻ると、再び回転のレバーを引いた。すると向こう側、溶接作業所の方から、乱暴な、何かに面白がっているような声がひびいてきた。それに加わりてえな、とぼくは思った。が、今はどうにも手を離せなかった。クラスメイトが三人、ふざけている。
――「オイ!」
雑賀が言うと、
――「誰か見てるぞ」
その内の一人が言った。
* * *
目を保護するために棚の一番上にあった壊れたサングラスを雑賀はかけた。こんな物でも効果はあるだろうか。
――「似合わない、似合わない」
と、もう一人(横山だ、出席番号34番)が言って、笑った。
――「あっまただ! やべー!」
そんな二人の後ろからさらに一人(丘だ、出席番号4番)が言った。溶接に失敗したらしく、武骨なはさみを使って失敗した鉄片を取り上げると、それをそばにあった鉄でできたの水桶に丘は放り込んだ。
鉄片は「ジュ!」という小気味のいい音を立てて、黒くにごったその水底に沈んだ。
――「これでももう三度目だ」
――「ほら、もう一度もう一度!」
――「疲れたッ!」
と、遂にへばって丘が言った。すると丘の代わりに横山が、桶の中から少し冷えた鉄片を取り出すと、丘の溶接台の上に置いてやった。
――「よし」と、そう言うと、丘はふたたび小さな鉄片を台の上に置き、慎重にL字型に組み合わせてから、ガスで溶接を始めて行った。
丘の横で、また横山が何やら言った。そして溶接痕が少しずれたかと思うと、丘の癇癪がそこで爆発した。「ほっといてくれ! ほっといてくれ!」




