~ 2023年版 育児適正テスト ~ 《 育美の場合 》
※この作品は、出生意欲を低下させ、少子化を助長する可能性があります。くれぐれもご注意下さい。
窓から心地好い陽が差す、穏やかな車内。
腕時計の針が指すのは11時。通勤ラッシュを抜け、席にも人の心にもゆとりのある時間帯だ。
普段であれば仕事に追われ、額に汗を浮かべている頃だが、交渉の末何とか有休取得に成功。交際記念日の今日、どうしても二人でこれを出しに行きたかったのだ。
チラリと鞄を覗けば、クリアファイルに光る婚姻届。隣には今日から夫となる、愛しい彼氏。これ以上の幸せはないだろう。
彼の肩に頭を凭れ手を繋げば、ゴトンゴトンと軋む車輪の音さえ、自分達を祝福してくれている様に思える。
今日のこの目映さは、一生涯忘れないだろう……明るい未来を信じ恍惚感に浸っていた時、停車したホームから、抱っこひもで赤ちゃんを連れた女性が乗車して来た。
ちょこんとはみ出した小さな足は、思わず触れたくなる程可愛い。
彼と自分の血を分けた小さな赤ちゃん。いつか……と想像するだけで胸がときめく。彼も同じことを考えていたのか、自然と見つめ合い微笑んでいた。
そんな中、次のホームで、小学校低学年位の男の子を連れた母親が乗車して来た。足を踏み入れ、少しキョロキョロすると、子供は突然大きな声で喚き出した。
……どうやら座りたかった席に、既に他の乗客がおり、それが気に入らないらしい。その乗客は我が儘な子供を睨み付け、絶対に退いてやるかとばかりに瞼を固く閉じた。
母親が優しい声音で宥めるも、喚き声はヒートアップしていく。とうとう床に転がって、泣きながら足をジタバタさせ始めた。大勢の乗客が迷惑を被っているにも関わらず、ひたすら優しく諭しながら乗り続ける神経が信じられない。
彼は眉間に皺を寄せ、私に耳打ちする。
「あんなに大きいのに……躾がなってないな。もっと強く叱ればいいのに」
その意見に、私も同意した。
「ほんと。私だったら、他の乗客に迷惑をかける前に降りるけど」
自分はあんな親にはなりたくない。公共機関では大人しくお行儀良く、そんな風にきちんと躾ける親になろう。心からそう思っていた。
◇
「……確かに受理致しました。ご結婚おめでとうございます」
不備なく受理され安堵すると共に、夫婦になったことへの感動が押し寄せる。
一体今日だけでもう何度目だろう。潤んだ瞳を交わしていると、窓口の女性がにこやかに一通の封筒を差し出してきた。
「こちらは今年度から、夫婦になられた方々にお配りしている育児適正テストです。虐待や育児放棄の抑制に繋がりますので、どうぞお試し下さい」
育児適正テスト……何それ、面白そう。
役所が思っていたより空いていた為、レストランの予約時間まで、丁度暇をもて余すところだった。
私達は隅のソファーに座ると、封筒から一冊の薄い冊子を取り出し覗き込んだ。
『 ~ 2023年度版 育児適正テスト ~
☆はじめに
この度はご結婚誠におめでとうございます。我が国では少子化が進む一方、育児ノイローゼによる自殺、虐待、育児放棄などが増加の一途を辿っております。痛ましい事件を増やさない為にも、是非こちらのテストで、ご自身の適正度を予めご確認下さい。』
大丈夫大丈夫! 小さい子供は大好きだし、ノイローゼだの虐待だのあり得ないから。
鞄からペンを取り出すと、ふふっとゲーム感覚で次のページを開いた。
① 食べ物をよく噛まずに飲み込める。
これは◯! 熱いラーメンとか、噛まずにどんどんいけるもん。
俺は✕。むせる。
② トイレが遠い。(我慢出来るか)
あ~これはちょっと✕かな。前に我慢して、一度膀胱炎になったから。
俺も✕。一時間に一回出す。
③ 騒音に耐えられる。
え~音によるかな。これって子供の泣き声ってこと?
さっきの電車みたいな、ギャーギャー甲高いのは絶対無理だけど……赤ちゃんなら可愛いよね。うーん、△。
俺は✕。耳が死ぬ。
④ 眠りかけたところを、何度叩き起こされても平気。(睡魔に耐えられる)
これは✕……低血圧だし、眠れないのも起きなきゃいけないのも辛すぎる。
俺も✕。目開かん。
⑤ 具合が悪くても、休まず人の世話が出来る。
いやいや基本✕でしょ。具合悪いの程度にもよるけど。熱とか吐きそうとかだったら絶対無理。
俺も✕。微熱でもしんどい。
⑥ 入浴後、着替えずに裸でいられる。(真冬でも)
✕に決まってるじゃん!寒いでしょ、風邪引くでしょ、暖まった意味ないじゃん。
俺も✕。罰ゲームかよ。
⑦ 急かさずに待つことが出来る。
これは✕。せっかちだから、待つの苦手なんだよね。行列とか。
俺も✕。ペース合わないとイライラする。
⑧ 公共機関では、人様の迷惑にならない様、常に気を張っていられる。
あ~はいはい、これは◯。それが親の責任ですから。
俺も◯。当然だろ。
⑨ 同時に複数の作業がこなせる。
これも◯。仕事で電話対応しながら書類作成してるもん。楽勝!
俺も◯。優秀。
⑩ 一日中時間に縛られても苦にならない。
これは✕……てか一日中って、24時間? だとしたら息がつまりそう。
俺も✕。囚人かよ。
⑪ 暑い日も寒い日も、外に立っていられる。
✕でしょ。暑いのも寒いのも苦手。
俺も✕。せめて座らん?
⑫ 汚物や吐瀉物の処理が苦ではない。
✕✕✕! もう臭いから無理! でも子供のなら処理しなきゃね。……出来るのかな。
✕✕✕✕✕! 俺、潔癖症。
⑬ 予定が思うように進まなくてもイライラしない。
これは✕! 私計画通り進まないとイライラするんだよね。旅行とかもさ。
俺は◯。その辺適当。
⑭ 『子供の為』『親なんだから』という重圧にとことん耐えられる。
◯でしょ。いや、それを承知で産むんじゃないの? 仕事のプレッシャーに比べたら大したことないし。
俺も◯。耐えられないなら産むな。
⑮ 年に何回かの、容赦ない評価を笑顔で受け止められる。
◯。⑭と同じ。
俺も。
⑯ 他人の評価を、自分の評価として有り難く受け止められる。
えーこれは悩む。他人の評価が何で自分の評価になるの。メンタル弱いし、△で。
俺は◯。クレーム対応慣れてる。
⑰ (女性限定)たまたま出産可能な性であると言うだけで、男性よりも多くの責任を求められる。
私だけ答えるってことだよね。えーこれも悩む。なんか腑に落ちないけど、それが母親ってものなのかな。△。
育児は母親がメインだろ。育美~そこは◯にしなきゃ。
⑱ 最低十年は、自分の人権などないものと割り切ることが出来る。
✕でしょ。てか何で育児と人権が関係するのか意味不明。子供産んだら親の人権なくなるの? あり得ないし。
俺も✕。憲法知らんのか。
⑲ 子供の心身に大きな個性があった場合は、仕事や夢など自分の人生を全て捨て、子供に寄り添うことが出来る。
これは……そういうことだよね。うわあ、どうだろう。辛いな。✕って答えたらいけない気もするし。
俺は絶対✕。自分の人生は自分のものだろ。
⑳ 子供が生まれつきのサイコパスであっても、万一犯罪を犯した場合は、自分の責任として償える。
これも重たい……生まれつきってそんなのどうしようもないじゃん。ああ、これ⑯と繋がるのかな。
俺と育美の子供がサイコパスな訳ないだろ。⑲と⑳はレアケースだから、もう答えなくていいよ。
私はふうとため息を吐き、ペンを置く。
……何だか最後の数問で、どっと疲れた気がする。
「あ、これ、◯を数えなきゃいけないのか。えーと……私は20問中、5個。思ってたより少なっ!」
「俺は6個。やった!育美より多い!」
これは二人とも適正なしだなと、諦めながら捲った最後のページには、こう締め括られていた。
『 ☆おわりに
お疲れさまでした。いかがでしたでしょうか?
このテストは、◯の数で適性度を判断するものではありません。何故なら、実際に産み育ててみなければ、適性度を測ることは不可能だからです。
◯が多くても理想とのギャップに苦しむ方、✕が多くても子供への愛情で乗り越えられる方と、様々です。
では何故このようなテストを試して頂いたのか。それは新しく夫婦となられたお二人に、育児の現実と真剣に向き合って頂く為です。
子供はご自分の分身ではありません。
また、お二人の愛の結晶でもありません。
あなたとパートナーの遺伝子が半分ずつ合わさった、“新しい人間” です。見知らぬ他人と認識して頂いても良いでしょう。
容姿、性格、能力、その全てが未知である故に、覚悟が必要なのです。躾でどうにかなるという甘い考えは、一切捨てて下さい。
お二人は本日、他人でありながら、夫婦という形で勇気ある一歩を踏み出されました。
どうかよくお考えになり、素晴らしいご家庭を築いて下さい。
……最後に。
「元気な赤ちゃんを産んで戻って来ます」
戻って来られる保障はどこにもありません。その意味はもう、お分かりですね。』
「何だこれ」と笑いながら冊子をしまう彼に対し、私はさっきまでの輝きを失っていた。
高級イタリアンのランチもほとんど味がせず、砂を噛んでいるみたいだ。その後、新居の家具や雑貨などを見て回ったが、漠然とした不安がつきまとい、心から楽しめないでいた。
帰りの電車で疲れが出た私は、行きと同じように彼の肩に凭れる。あんなに広く、頼りがいがあると感じたその肩は、今は狭く心もとない。
停車したホームで、見覚えのある親子が乗車して来た。あれはさっきの……帰りも同じなんて、すごい偶然。
ぼんやりと考えていたら、子供が私の席を指差し、何かを言い始めた。ああ……この角の席に座りたいの?
私は立ち上がり、「どうぞ」と席を勧めた。帰宅ラッシュで他に空いている席はないが、あの声で泣かれるよりずっとマシ。
子供は私の座っていた座席に、後ろ向きでぴょんと飛び乗る。予想通りお礼など言われないが、もう躾をどうこう咎める気はしない。何かを呟き続けながら、幸せそうな顔で窓の景色を眺める姿に、微笑ましさすら感じる。
白髪がちらほらと混じった母親は、額に汗の玉を浮かべながら、ありがとうございますと、子供の分まで何度も私に頭を下げた。
──その姿に、私の心は決まった。
作者は◯が二つしかありませんでした。
お読み頂き、ありがとうございました。