広井夏樹(3)
おとといのおもらし、昨日の未遂。どちらも思い出したくない失敗だった。今日も失敗したらどうしよう。そう考えると、布団から出るのが怖かった。
でも、学校に行かないわけにはいかない。
登校すると、舞先生に呼び止められ、保健室へ向かうことになった。
「夏樹ちゃん、おはよう」
「……おはようございます」
静かな保健室で、二人きり。舞先生は少し言いにくそうに口を開いた。
「昨日、お腹が痛かったって聞いたんだけど……今日の体調はどう?」
「……大丈夫です」
そう答えながらも、不安が胸の奥に残っている。昨日のことを思い出すだけで、冷や汗が出そうだった。
「無理にとは言わないけど……もし心配なら、おむつをしてみるのも、ひとつの方法かもしれないよ」
「……っ」
「嫌だったら、無理にとは言わない。でも、教室で困るよりは安心できるんじゃないかな」
昨日のことを思い出す。あの時、間に合わなかったらどうなっていただろう? 由香ちゃんに見られていたら? それを考えたら、足が震えた。
「……わかりました」
私は小さく頷いた。
2時間目が終わったあと、由香ちゃんに「職員室にプリントを持って行って」と頼まれた。少し嫌な予感はしたけど、断る理由もなかったので受け取る。由香ちゃんは「よろしくね」とニッコリ笑った。特に深く考えず職員室に向かったけれど、戻ってくるとすぐに3時間目のチャイムが鳴った。
あ、トイレに行くの忘れてた——。
授業中、嫌な感覚がじわじわと襲ってくる。気づいたときにはもう遅くて、体が震えた。なんとか耐えようと足を閉じるけれど、どうにもならなかった。
——ダメだ、出ちゃう……!
音を立てないように力を抜いた瞬間、じわっと温かいものが広がっていく感覚がした。止めようとしても、どうしようもなかった。
おむつの中におしっこをしてしまった、という現実が襲いかかる。顔が一気に熱くなり、心臓がバクバクと鳴った。誰にも気づかれていないはずなのに、周りの視線がすべて自分に向いているような気がした。
——どうしよう。こんなの、絶対バレたくない。
じっとしているしかなかった。恥ずかしさで顔を上げることすらできず、ひたすら机の上のノートを見つめ続けた。
授業が終わると、舞先生がそっと声をかけてきた。
「夏樹ちゃん、ちょっと顔色悪いね。今日は保健室で休もうか」
私は何も言わずに頷いた。
保健室に着くと、先生は一度教室に戻り、私はひとりになった。
おむつを替えようと思い、スカートをめくったその瞬間、スマートウォッチが震えた。
「教室が汚れてないけど、オムツにしたの?」
由香ちゃんからのメッセージだった。
心臓が止まりそうになる。どうして? なんでわかるの?
恐る恐る顔を上げると、鏡に映る自分の顔が真っ青になっていた。
震える指でスマートウォッチの画面を閉じた。その時、保健室の扉が開いた。
「夏樹ちゃん、今日はこのまま帰ろうか」
舞先生は、何も聞かずにそう言ってくれた。
車で送ってもらい、アパートの前で車が止まる。
その時、舞先生が何気なく言った。
「すずめ温泉って、知ってる?」
「知ってますよ。ママの職場です」
「そうなんだ……」
舞先生の表情が曇る。
「昨日、営業自粛を発表したって聞いたんだけど……」
「えっ……?」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
でも、舞先生の次の言葉で全身が凍りつく。
「でも変ね。営業してないのに、春香さん、家にいないの?」
「……っ!」
頭の中で、何かが弾けた。
ママが仕事を休んでいることにすら気づかなかった。でも、休んでいるのではなく、仕事がなくなったとしたら?
そんなことを考えた途端、息が苦しくなった。
——私のせいで、ママの仕事がなくなる?
焦る気持ちを抑えながら、私は急いでPCを開いた。
昨日、ママが早く帰ってきてほしくて、メールの添付データを書き換えた。でも、それが原因で温泉が営業できなくなったんじゃ……?
震える指でキーボードを叩く。手順自体は昨日と同じ。検査機関のサーバーに入って・・・
夢中になって画面を見つめる。焦りで頭が真っ白になり、周囲の音が消えたように感じる。
その時、ふと違和感を覚えた。下半身が温かい。
「……え?」
動揺して足を開くと、そこには……。
「あっ……」
そこでようやく、自分が何をしたのか気づいた。
PCに夢中になるあまり、トイレに行くことすら忘れ、おむつの中にまた……。
後ろで舞先生が何かを考えている気配がした。でも、そんなことを気にしている余裕はなかった。
市役所
「……たった一日で、何が変わったんだ?」
宏の上司は、困惑した表情で資料をめくった。
「昨日、お前が持ってきたデータでは、基準値を大幅に超えていたはずだ。それなのに、今日は基準値以下? こんなことがあり得るのか?」
「こちらをご覧ください。先月の結果です」
宏は淡々と答えながら、上司に書類を渡す。
「これも基準値を超えているな」
「ええ、でも先月に異常はありませんでした。」
「おかしいだろ?」
「そう思ってよく見た結果、先月と今月で単位が変わっています」
「栄養ドリンクであるやつだな!」
「タウリン何ml配合!実際には1gですみたいな」
2人して乾いた笑いがおこる。
そして、上司は核心に迫る。
「完全にウチのミスだな」
「ええ、これが調査機関の標記ミスなら、我々は被害者ヅラでいれたのですが・・・とりあえず先方に伺って謝罪と訂正は行いました」
「あとは補償か?」
「そうなりますね」
宏は書類を片付けながら、時計をちらりと見た。
もうすぐ夜10時。
「……完全に帰るのが遅くなりますね」
静かな市役所のオフィスには、二人の疲れたため息だけが響いていた。




