広井夏樹(2)
今日は学校を休んだ。
昨日のおもらしのことを考えるだけで、体がこわばる。教室中に響いた笑い声、由香ちゃんのニヤついた顔、そしてあのメッセージ……。
「……今日は仕方ないよね」
ママは小さく息をついて、私の頭を撫でた。
「一日だけ、だからね」
私はこくんと頷いた。それでも、少しだけ気が楽になった気がする。
リビングのソファに座り、タブレットを手に取る。薄いブランケットを膝にかけて、いつものように動画を流した。けれど、何も頭に入ってこない。ただ画面をぼんやり眺めるだけで、内容はまるで耳をすり抜けていくみたいだった。
ピピッ、と手首が震える。
スマートウォッチの通知に目をやると、そこには短いメッセージが表示されていた。
「またおもらし?」
由香ちゃんからだった。たった五文字なのに、胸がぎゅっと締め付けられる。指先が冷たくなって、息をするのも苦しくなる。
すぐに画面を消したけれど、一度浮かんだ嫌な感情はなかなか消えてくれなかった。
私はソファに背を預け、天井を見上げる。少し古びた天井の隅には、小さなヒビが入っているのが見えた。私とママが暮らすこのアパートは、新しいとは言えない。畳の部屋は少し色褪せているし、冬になると隙間風が冷たい。でも、私たちにとっては大切な場所だ。
タブレットの充電が減ってきた。コードを探そうとして、ふと視線がパソコンに止まる。パパの使っていたものだ。ママが時々仕事で使っているのを見たことはある。でも、私は一度も触ったことがなかった。
なんとなく、電源を入れてみる。
パソコンの画面がゆっくりと立ち上がり、見慣れないデスクトップが表示される。私はそっとマウスを動かしながら、何かを考えていた。
何をしようとしているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、こうして何かに手を動かしていないと、頭の中が嫌なことで埋め尽くされそうだった。少しでもそれを頭の片隅に追いやるためにモニターに表示された情報・データやテクニックを頭の中に詰め込んだ。
時間が経つのは早く、3時間程たっていた。玄関のドアが開く音がした。
「夏樹、ただいま」
ママの声だ。
「おかえり」
私はパソコンを閉じ、立ち上がる。
ママは上着を脱ぎながら、疲れたように肩を回していた。温泉での仲居の仕事は大変そうで、帰ってくるといつも肩や腰をさすっている。でも、どこかホッとしたような表情だった。
「今日は早かったね」「うん、今日はちょっと仕事が早く終わったの」
ママはそう言って、台所へ向かった。私はテーブルの椅子に座り、しばらくその背中を眺める。
コンロの火がつく音、包丁がまな板を叩くリズム、お味噌汁のいい匂いが部屋中に広がる。
こうやってママとご飯を食べるの、久しぶりかもしれない。最近は仕事が忙しくて、私が一人で食べることも多かった。
しばらくして、ご飯が並べられる。湯気の立つ味噌汁に、お漬物と焼き魚、炊きたての白いご飯。シンプルだけど、あたたかいご飯だった。
「いただきます!」
私は少し嬉しくなって、元気よく箸を取った。
ママと向かい合ってご飯を食べる。なんだか、昨日のことも少しだけ忘れられる気がした。
だけど――。
「……あれ?」
違和感があった。
下着が、湿っている。
一瞬で血の気が引いた。
嘘、気づかなかった……?
慌てて椅子から立ち上がると、ママが不思議そうにこちらを見た。
「どうしたの?」
「ちょっと……トイレ!」
私は駆け込むようにトイレのドアを開け、すぐに鍵をかけた。
ドキドキと心臓が速くなる。
下着を確認すると、ほんの少しだけ濡れていた。完全に漏らしたわけではない。でも、ショーツが湿っているのは間違いなかった。
――また、やってしまった。
息を深く吸い込んで、そっと吐く。大丈夫、まだ大丈夫。ママにはバレていない。
でも、どうしよう。このまま、また学校で失敗したら……?
そんなことを考えながら、私は震える手で服を整え、トイレを出た。
同時刻・市役所
宏は静かなオフィスの中、資料を整理していた。
上司が入ってくると、彼はすぐに立ち上がり、手元の書類を差し出す。
「こちらが、レジオネラ菌検査の結果です」
上司は資料を受け取り、目を通す。
「……これは、かなり深刻だな」
「はい。基準値を大幅に超えています。すでに施設側には連絡し、営業の自粛をするそうです」
「対象の温泉は?」
宏は静かに答えた。
「すずめ温泉です」
上司の表情がわずかに曇る。
「……地元でも評判の温泉だな」
「だからこそ、対応を誤れば大きな問題になります」
上司は深く息をつきながら、資料を閉じた。
「すぐに追加の調査を進めろ」
「承知しました」
宏は軽く頷き、席に戻る。
すずめ温泉――それがどんな場所か、彼は特に気にしていなかった。ただ、一つの施設が営業を自粛し、そこに関わる誰かが影響を受けることになる。それだけのことだった。




