広井夏樹(1)
この学校には、たった七人しか生徒がいない。山奥の小さな学校で、全学年が同じ教室で学んでいる。
私――広井夏樹は五年生で、この学校では最年長。だけど、だからといって威張れるわけじゃない。むしろ、みんなが年下だからこそ、私はしっかりしなきゃいけないと思っていた。
でも、今日だけは、そんなふうに思えなかった。
膝の上で手を握りしめながら、私は時計をちらりと見る。まだ授業中。でも、お手洗いに行きたかった。
(あと十五分。我慢できる)
そう思っていたのに、時計の針が進むにつれて、どんどん不安になっていく。お腹の奥がじわじわと重くなり、動くたびに膀胱が押される感覚がする。
(あと十分。もうダメかもしれない)
でも、私は五年生。ここで手を挙げてトイレに行くなんて、情けない。
だって、先週も――やってしまった。
あの時の、みんなの笑い声を思い出す。
「夏樹ちゃん、また?」 「もしかして、トイレが遠いとダメな人?」
あんなふうに言われるくらいなら、もう二度と失敗なんかしたくない。私はぎゅっと足を閉じて耐えた。
あと五分……。
――無理だった。
「……っ!」
静かな教室に、小さな水音が響く。温かい液体が太ももを伝い、お気に入りのスカートの下から床にぽたぽたと滴る。私は固まった。
何が起こったのか、一瞬理解できなかった。でも、周りの視線が私に集中しているのがわかる。
「え、また?」
誰かが小さくつぶやく。その声を皮切りに、ざわざわと教室がざわめき出す。
「やば、二週連続じゃん」 「赤ちゃんみたい」
そして――由香ちゃんが、クスクスと笑った。
「夏樹ちゃん、おもらししちゃったの?」
私は何も言えなかった。ただ、震える手を膝に置いたまま、うつむくしかなかった。
「……由香ちゃん、夏樹ちゃんを保健室に連れて行ってくれる?」
担任の舞先生の声が聞こえる。私は驚いて顔を上げた。由香ちゃんが、にっこりと笑う。
「はーい! 夏樹ちゃん、行こっか?」
わざとらしく優しい声。私は悔しくてたまらなかった。でも、立ち上がるしかない。濡れたスカートが冷たく張りついて、気持ち悪い。
由香ちゃんは、私の手を引いた。まるで小さな子どもを世話するみたいに。
「大丈夫? ちゃんと歩ける?」
「……!」
私は歯を食いしばる。由香ちゃんは、無意識なんだと思う。私がこの学校で一番上だから、彼女はずっと「お姉さんらしくしなきゃ」と思っている。でも、それが叶わないから、こうやってマウントをとろうとする。彼女自身も、それに気づいていないんだろう。
私は手を振り払いたかった。でも、そんなことをしたら、もっと笑われる気がして、何もできなかった。
保健室で着替えることになったけれど、由香ちゃんはすぐに教室へ戻された。保健室の先生が「ここからは一人で大丈夫だから」と言ってくれたのが、唯一の救いだった。
手首のスマートウォッチをふと見た瞬間、画面が振動する。由香ちゃんからのメッセージだった。
「おむつに着替えたら?」
私は息をのんだ。こんなことを送ってくるなんて。
由香ちゃんは悪意があってやってるわけじゃない。たぶん、無意識なんだ。でも、それが余計に悔しかった。
私は何も返信せず、ただ手首の画面を消した。
保健室から戻った教室は、まだ私のことでざわついていた。席に座ると、小さな笑い声が聞こえる。
「五年生なのに、二回目はヤバいよね」 「来週もやったりして?」
「そこまでにしなさい」
優しいけれど、鋭い声が響いた。担任の舞先生だった。彼女は教壇の前に立ち、みんなを静かに見つめている。その表情には、どこか大人の余裕と、そして少しの怒りが滲んでいた。
「人の失敗を笑うのは、良くないことよ」
誰も何も言えなくなった。でも、私には先生の言葉が少しだけ救いだった。
それでも、今日のことは忘れられない。おもらししたこと、みんなに笑われたこと、由香ちゃんのメッセージ。そして――。
私は、このまま「最年長」なのに「情けない存在」になってしまうのかな。
その日の夜。
「どうしたんだい、舞。元気がないじゃないか?」
高野宏は恋人である舞に声かけた。仕事に行った時のスタイルのまま、部屋着に着替える事もしていない。リビングに寝そべってスマホを眺めていた。
「元気がないわけではないわ。ただ、気になる事があってね。ちょっと調べ事。」
彼女の声からそれが嘘ではないとわかる程に付き合いは長い。そしてそこから話せる事は話してくれる事もわかっている。だから、宏は床に座り話を聞く体勢をとった。
「今日ね、3時間目なんだけどさ、5年生の子がおもらししたの。これで2週連続。」
「なら、何か病気とか?」
宏は常識的に答えた。舞は鼻で笑う様に答えた。
「それは私も考えたし、調べた。でも、もう1つ気になる事があるのよ。彼女1度も使っていないの」
「何を?」
「消しゴム」
そうして舞が出したのは授業で使ったのか宿題なのかわからないがプリントだった。それも6枚もだ。確かにその形跡はない。一つ下の年齢の子と比べると明らかだった。
宏は息をのむ。舞はトドメのように言った。
「大阪での教育実習は覚えてる?」
宏にとって、忘れられるはずがなかった。
自分の夢を現実が叩き潰した出来事なのだ。
「ユリアシンドローム」
最終章突入です




