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オムツと私たち  作者: 062


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古畑ほのか(3)

「ユリアシンドロームだと思われます」


はっきりと、そう医師は言った。


白い壁、無機質な椅子、薬品の匂い。

静かな診察室で、私は言葉を失っていた。


付き添っていた母が、小さく「あっ……」と声を漏らした。

その目から、ぽたりと涙がこぼれたのが、視界の端に見えた。


「治療法は……?」


母の声は震えていた。


「残念ながら、現時点では確立されていません。ただ、対症療法や生活補助で進行を抑えることはできます」


医師の声は落ち着いていたけれど、冷たいとも感じた。

まるで、もう何十人と同じ説明をしてきたような口調。


私は、黙ってうなずいた。


何も感じないわけじゃなかった。

でも──どこかで「やっぱり」と思っていた自分がいた。



その夜、父は珍しく深酒をした。


「……おい、これって、本当に……その……おむつ生活、になるのか?」


夕食の後、ビールを三本目に開けた父が、母に聞いた。


「おむつって……そんな言い方……」


「違うのか? だって、排尿できなくなるんだろ? だったら……」


「やめて。そういう言い方……」


母の声が低くなった。


私は二人の会話を聞きながら、部屋の壁越しにじっと黙っていた。

『これが現実』だと思った。



世間はゴールデンウィークに入っていた。


学校も休みになるこのタイミングで、私は母と一緒に東京へ向かった。


品川駅のホームに降りた瞬間、都会の空気に呑まれそうになる。


「ほのか、大丈夫?」


母が心配そうに声をかける。

私は、小さくうなずいてスマホを取り出し、ナビアプリを開いた。


「こっちだと思う」


目的地は、ある出版社だった。

週刊少年チャンプを発行する『数英社』──あの、ずっと読んできた雑誌の会社。


実は、私が描いたユリアシンドロームをテーマにしたオリジナル作品に、編集者から直接DMが来ていた。


『このテーマ、時代が追いついてませんが、必ず来ます。連載しませんか?』


──連載。


その言葉を何度も読み返した。



打ち合わせは驚くほどスムーズだった。


編集の人は私より少し年上くらいの女性で、終始にこやかに、でも具体的に話を進めてくれた。


「今、3話まで投稿されてるんですよね? あれ、どれも構成がいい。しかも『マリア』をヒロインの背景にした発想は新しいです」


「ありがとうございます……」


「ページ数が16Pでちょっと短めなので、これを倍の32Pにして、3ヶ月分まとめてネット媒体の『チャンプ・アップ』で連載しませんか? 更新は毎月1日と15日。2週1回で」


「32ページ……できます、がんばります」


母が横で小さくうなずいた。


その場で契約書が用意されていて、母と一緒に確認しながら、正式に契約を結んだ。

「単行本も十分可能です」と言われたときは、本当に夢みたいだった。


でも、私はその夢の中に、自分が現実から離れていく気配を感じていた。



現実は、いつも冷たい。


学校では、保健室登校を強いられるようになっていた。


理由は、「感染しないと決まったわけではないから」。


「ユリアシンドロームは感染性の病気の可能性があって、ほかの生徒や教職員にも影響が出ない保証はない」──そんな説明がされていたらしい。


──バカみたい。


私は、学校に行く意味を見失った。


不登校になった。

先生からも担任からも電話は来たけど、母がすべて代わりに応対してくれた。



そのぶん、私は描いた。


連載用の作画、32Pのネーム、カラー原稿。

一日中、タブレットの前で絵を描き続けた。


その間にも、症状は進んでいく。


昼間に何の前触れもなく『濡れている』ことが増えた。

描いているときは、尿意そのものを忘れる。


おねしょは毎晩だし、日中のトイレだって1回使うかどうか。


もう、普通じゃない。

でも──だからこそ、私は描ける。


「この痛みを、そのまま、描こう」



そんなある日。


部屋の外から、母の小さな声が聞こえた。


「……あなた……なにしてるの、勝手に……」


そのあとに、父の大きな声が続いた。


「ほのかはもう学校にも行ってないんだぞ? 今後のこと、ちゃんと考えないとダメだろうが!」


私はそっと部屋のドアに耳を寄せた。


「こんなことで、お金になるのか? 東京なんて行って、お前も一緒に……何考えてんだよ」


母の声は、弱くなっていた。


「……でも、ほのか、ちゃんとやってるの。こんな状況で……前を向いて……」


「おむつして描いてるのか? そんなのが正しいことなのかよ!」


その言葉に、私は歯を食いしばった。


(じゃあ……正しいって何……?)


手の中のペンが震える。



そして私は、決めた。


この病気が、私の一部になるなら──

この身体が、現実であるなら──


それごと、全部描いてやる。



同じ頃、東京。


「編集長、感謝します。連載を決めて下さって」


編集長と言われた男性はドギマギと笑った。ワインを注ぐのは佐藤ゆりあ。次期衆院選では与党から立候補するのではと噂される、明王義塾の理事長だった。同じテーブルで事務長、水田マリも微笑んでいる。


「今の時代、地方に住んでいても連載はできますからね。それにピクピクでのプレビュー数も好調ですし」


編集長も勝算がないわけでもなかった。しかし、それ以上に背中を押すこの2人がいれば心強い。何といっても経営が傾いた明王義塾を高校在学中に立て直した、『剛腕:佐藤ゆりあ』と『敏腕:水田マリ』コンビなのだ。


「さあ、仕上げの青田刈りと行きますか」


佐藤ゆりあは笑った。

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