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オムツと私たち  作者: 062


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古畑ほのか(2)

それから一週間。

朝、目を覚ました瞬間──嫌な感触が背中に広がっていた。


「……また……」


二回目だった。

寝間着がじっとりと濡れていて、布団にも明らかに丸い染みができていた。

私はゆっくりと身体を起こして、深く息を吐いた。


「ほのか?」


廊下から母の声がした。


「……うん、起きてる」


できるだけ平静を装って返す。


すぐにシーツを外し、この前と同じように洗濯カゴに押し込んだ。

風呂場で下着を洗っていると、母が入ってきた。


「また……?」


私の手元を見て、母は小さく眉をひそめた。


「……うん、でも、ちょっとだけ。多分……」

「最近、タブレットばかりやってるからじゃない? 寝る前まで集中してると、脳がうまく切り替わらないって聞いたことある」

「……そうかも」


母はそれ以上、追及しなかった。

そして私は、それ以上、何も言えなかった。



投稿した3部作は、いまもじわじわと広がっていた。

フォロワーも増えて、DMでイラストの依頼も来るようになった。


でも──。


「次はオリジナルで」

「あなた自身の物語が見たいです!」


そんなコメントが増えてきた。

それは、自分で自分に課した『枷』でもあった。


──次は、自分の力だけで。


しかし、それがどれほど難しいことか、私はすぐに思い知らされた。



『マンガ』は、もう100年以上の歴史を持つ日本の文化だ。

数えきれないほどの作品が描かれ、愛され、そして消えていった。


何を描いても、どこかで見たような展開になってしまう。

登場人物の台詞も、構図も、空気感も──どこかが、借り物みたいに感じられた。


「……私、何も生み出せてない」


タブレットの前で頭を抱える。

気がつけば、4日間も何も描いていなかった。



そして、翌週。


三回目。

まただった。


朝、目覚めたとき、下半身が濡れていた。

でも、今回はちょっと違った。


母は、怒らなかった。

むしろ、少しだけ優しかった。


「昨日は、あまり描いてなかったもんね。たまには、身体を休めるのも大事よ」


そう言って、洗濯を代わってくれた。

だけど、私は気づいていた。


(……タブレットをいじってない日でも、起こるようになってきた)



その日。

私は、学校の2限目の途中で、急な尿意に襲われた。


「せ、先生……トイレ、行ってもいいですか……」


前の晩から、あまり水分も取っていない。

なのに、突然の波のような感覚が、腰のあたりから一気に広がってきた。


教師はチラッと時計を見てから、うなずいた。


「急げよ」


私は教室を飛び出した。廊下を走って、トイレの個室のドアノブを握った──その瞬間。


「……っ……!」


力が抜けた。

もれた。明らかに、止められなかった。


ドアの向こうにはトイレがある。あと数秒、早ければ。

私は、そこで立ち尽くしたまま、小刻みに震えながら、スカートの中に広がっていく感覚を受け止めるしかなかった。

足元に小さな水たまりができていく。



戻れるはずがなかった。


私は保健室に向かった。誰にも見られずに着替えられる場所。それしか思いつかなかった。


「……どうしたの、1年の古畑さんよね?」


保健室の先生は、落ち着いた声で私を迎えた。

泣きそうになったけれど、こらえた。


先生は制服の替えを貸してくれながら、そっと口を開いた。


「最近、似た症状の子を聞いたがあるの。突然、排尿感が鈍くなって……集中力が異常に高くなる子」


私は顔を上げた。


「……それって……あの、“おむつの病気”って言われてるやつ、ですか?」


先生は一瞬だけ目を伏せて、小さくため息をついた。


「……正式には、そんな病名じゃないの。でも、こっちじゃまだそうやって言う人も多いわね。本当は、排尿機能の障害と引き換えに、認知力や芸術的な才能が伸びる、そういう症状の進行性疾患なの」


私は黙ったまま、制服のスカートを握りしめた。

でも、さっきのトイレでの出来事が、頭の中で何度も再生されて──


「──それ、私かもしれない」


口から出た言葉は、自分のものじゃないみたいだった。



ユリアシンドローム。

ここ10年ほどで確認された、謎の進行性疾患。


排尿機能が徐々に失われる代わりに、集中力・記憶力・芸術的感性・運動能力などが異常なまでに高まるという。


「……まだ、詳しくは分からないけど。診断、受けてみる?」


先生はそう言った。


私は、うなずいた。


そのとき、私の脳内では、別の何かが回転を始めていた。


──これだ。

──まだ誰も描いてない。

──私の“オリジナル”は、ここにある。



教室には戻らず、「体調が悪い」と言って早退した。


家に帰るなり、パジャマに着替え、タブレットを開いた。


検索窓に『ユリアシンドローム』と入力する。

出てきたのは、ある一人の名前だった。


橋本風乃はしもと・かざの

──日本で初めて公表されたユリアシンドローム患者。

明王義塾高等学校2年生時にフィアデルフィア・コンテスト最優秀賞を受賞。

一躍世界的ピアニストに。そして『ミス・ユリアシンドローム』と呼ばれる存在。


「この人を……描こう」


そう思った。


名前は少し変える。年齢も、経歴も変える。でも『彼女のような誰か』を描く。

私が受け取った『次の世界』の姿を、今のうちに。


私の『最初のオリジナル』が、ようやく形を持ち始めた気がした。



数日後、東京都文京区──明王義塾学園 高等部


「あはは、コレわたしじゃん!」


甲高い声が事務室内に響く。タブレットPCにはとあるマンガが表示されている。


「似てるわよ。実はさ、良く調べてて、あなたのお姉ちゃんや私も登場しているの」


応対するのは、事務長のマリである。


「ゆりあさんは?」


「もちろんでてるわ。『ゆりあ』じゃなくて『マリア』になってるけど」


それを聞いて、また、彼女、橋本風乃は笑う。


「あはは、『神を作った』って点で一緒だ!」


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