古畑ほのか(2)
それから一週間。
朝、目を覚ました瞬間──嫌な感触が背中に広がっていた。
「……また……」
二回目だった。
寝間着がじっとりと濡れていて、布団にも明らかに丸い染みができていた。
私はゆっくりと身体を起こして、深く息を吐いた。
「ほのか?」
廊下から母の声がした。
「……うん、起きてる」
できるだけ平静を装って返す。
すぐにシーツを外し、この前と同じように洗濯カゴに押し込んだ。
風呂場で下着を洗っていると、母が入ってきた。
「また……?」
私の手元を見て、母は小さく眉をひそめた。
「……うん、でも、ちょっとだけ。多分……」
「最近、タブレットばかりやってるからじゃない? 寝る前まで集中してると、脳がうまく切り替わらないって聞いたことある」
「……そうかも」
母はそれ以上、追及しなかった。
そして私は、それ以上、何も言えなかった。
⸻
投稿した3部作は、いまもじわじわと広がっていた。
フォロワーも増えて、DMでイラストの依頼も来るようになった。
でも──。
「次はオリジナルで」
「あなた自身の物語が見たいです!」
そんなコメントが増えてきた。
それは、自分で自分に課した『枷』でもあった。
──次は、自分の力だけで。
しかし、それがどれほど難しいことか、私はすぐに思い知らされた。
『マンガ』は、もう100年以上の歴史を持つ日本の文化だ。
数えきれないほどの作品が描かれ、愛され、そして消えていった。
何を描いても、どこかで見たような展開になってしまう。
登場人物の台詞も、構図も、空気感も──どこかが、借り物みたいに感じられた。
「……私、何も生み出せてない」
タブレットの前で頭を抱える。
気がつけば、4日間も何も描いていなかった。
⸻
そして、翌週。
三回目。
まただった。
朝、目覚めたとき、下半身が濡れていた。
でも、今回はちょっと違った。
母は、怒らなかった。
むしろ、少しだけ優しかった。
「昨日は、あまり描いてなかったもんね。たまには、身体を休めるのも大事よ」
そう言って、洗濯を代わってくれた。
だけど、私は気づいていた。
(……タブレットをいじってない日でも、起こるようになってきた)
⸻
その日。
私は、学校の2限目の途中で、急な尿意に襲われた。
「せ、先生……トイレ、行ってもいいですか……」
前の晩から、あまり水分も取っていない。
なのに、突然の波のような感覚が、腰のあたりから一気に広がってきた。
教師はチラッと時計を見てから、うなずいた。
「急げよ」
私は教室を飛び出した。廊下を走って、トイレの個室のドアノブを握った──その瞬間。
「……っ……!」
力が抜けた。
もれた。明らかに、止められなかった。
ドアの向こうにはトイレがある。あと数秒、早ければ。
私は、そこで立ち尽くしたまま、小刻みに震えながら、スカートの中に広がっていく感覚を受け止めるしかなかった。
足元に小さな水たまりができていく。
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戻れるはずがなかった。
私は保健室に向かった。誰にも見られずに着替えられる場所。それしか思いつかなかった。
「……どうしたの、1年の古畑さんよね?」
保健室の先生は、落ち着いた声で私を迎えた。
泣きそうになったけれど、こらえた。
先生は制服の替えを貸してくれながら、そっと口を開いた。
「最近、似た症状の子を聞いたがあるの。突然、排尿感が鈍くなって……集中力が異常に高くなる子」
私は顔を上げた。
「……それって……あの、“おむつの病気”って言われてるやつ、ですか?」
先生は一瞬だけ目を伏せて、小さくため息をついた。
「……正式には、そんな病名じゃないの。でも、こっちじゃまだそうやって言う人も多いわね。本当は、排尿機能の障害と引き換えに、認知力や芸術的な才能が伸びる、そういう症状の進行性疾患なの」
私は黙ったまま、制服のスカートを握りしめた。
でも、さっきのトイレでの出来事が、頭の中で何度も再生されて──
「──それ、私かもしれない」
口から出た言葉は、自分のものじゃないみたいだった。
⸻
ユリアシンドローム。
ここ10年ほどで確認された、謎の進行性疾患。
排尿機能が徐々に失われる代わりに、集中力・記憶力・芸術的感性・運動能力などが異常なまでに高まるという。
「……まだ、詳しくは分からないけど。診断、受けてみる?」
先生はそう言った。
私は、うなずいた。
そのとき、私の脳内では、別の何かが回転を始めていた。
──これだ。
──まだ誰も描いてない。
──私の“オリジナル”は、ここにある。
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教室には戻らず、「体調が悪い」と言って早退した。
家に帰るなり、パジャマに着替え、タブレットを開いた。
検索窓に『ユリアシンドローム』と入力する。
出てきたのは、ある一人の名前だった。
橋本風乃
──日本で初めて公表されたユリアシンドローム患者。
明王義塾高等学校2年生時にフィアデルフィア・コンテスト最優秀賞を受賞。
一躍世界的ピアニストに。そして『ミス・ユリアシンドローム』と呼ばれる存在。
「この人を……描こう」
そう思った。
名前は少し変える。年齢も、経歴も変える。でも『彼女のような誰か』を描く。
私が受け取った『次の世界』の姿を、今のうちに。
私の『最初のオリジナル』が、ようやく形を持ち始めた気がした。
⸻
数日後、東京都文京区──明王義塾学園 高等部
「あはは、コレわたしじゃん!」
甲高い声が事務室内に響く。タブレットPCにはとあるマンガが表示されている。
「似てるわよ。実はさ、良く調べてて、あなたのお姉ちゃんや私も登場しているの」
応対するのは、事務長のマリである。
「ゆりあさんは?」
「もちろんでてるわ。『ゆりあ』じゃなくて『マリア』になってるけど」
それを聞いて、また、彼女、橋本風乃は笑う。
「あはは、『神を作った』って点で一緒だ!」




