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オムツと私たち  作者: 062


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橋本風乃(8)

「それじゃあ、実技試験に移るけど後の説明は任せたよ、花乃ちゃん。わたしたちは退出するね。ああ、それと彼女は試験監督のアルバイトにすぎない。後で調べればわかるけど、受験生の中に彼女の妹がいるが、彼女は採点には関わらないので当校としては問題ないと判断している」


明らかに私と姉に対する配慮に、私の理事長への好感度が上がっていく。言うべき事は言ったと、退出していく理事長と校長。そして、壇上には姉だけが残された。


「1人づつ、実技試験会場に呼びに来ます。それまでここの教室で待機してください。それから、先程の理事長から許可はいただいてるので話すと、試験官は2名と1台。講師をお願いしてる帝京藝大の助教の春川先生とニューヨークシティフィルのピアニスト、米田氏。さらにAIです。この3人に100点満点で採点していただき、合計を3で割った得点が実技の点数となります。これからトップ5人が合格です」


家で聞くのとは全く違う。冷たい感じすらする姉の声に、少し緊張感が高まる。


順調に進み。ついに私の番になった。


「15番の方」


と言われ、姉の後に続く、廊下の奥にある教室に一緒に入った。


教室の中にグランドピアノが1台。カメラとマイクが複数台稼働していて、人間の審査員はリモートであるとわかる。つまり教室には自分1人だけで演奏する事になるのだ。


右手を鍵盤に乗せながら、小さく息を吐く。ちゃんと弾けばいい。間違えなければ、それでいい。


――課題曲。ヴァインベルク《追憶》


最初の和音が空気を震わせた瞬間、頭の中に浮かんだのは、

……あの朝のシーツの感触だった。

濡れて、冷たくて、最悪で、でも何より、自分が自分じゃなくなったみたいで。


それでも練習は、やめなかった。

誰にも見せられない格好のままで、夜中にヘッドホンをつけて練習して、何回も、泣いた。


それを、音に乗せてやるんだ。

私はこんなもんじゃないって、証明するんだ。

メロディーをつなぐ指先に、わずかに震えが走ったけど、止まらなかった。

曲の最後、音が空気に消えるときには、なんでかわかんないけど、少しだけ心が静かになってた。


自由曲。藤原沙羅《静かな川辺にて》

私がこの曲を選んだのは、ほんとは音がきれいだからじゃない。

誰にも言わなかったけど、この曲、ちょっとだけ「許してくれる音」がする。


最初の和音。

水面みたいな静かな音が、そっと心に降りてくる。ママに「ごめん」って言えなかった。お姉ちゃんに強く当たった自分も、ほんとはわかってる。


でも、それも私だ。

強がって、意地張って、でもほんとは、ただ、怖かっただけ。


ペダルに体重をかけながら、音をのばしていく。言えなかった「ごめん」も、「助けて」も、この音が代わりに伝えてくれるなら……それでいいって、少しだけ思った。


最後の音を離すとき、私は初めて、「今の自分をそのまま出せた」って思えた。

評価なんてどうでもいいとは言わない。

でも、ここまで来た自分だけは、今日だけは、少しだけ誇ってやってもいい——

そんな気がした。


そうして実技試験が終わり。


「お疲れ様。多分おむつがヤバイでしょ?交換しようか。ついて来て」


言われるまま、姉の後を歩く。腕のスマートウォッチが鍵を兼ねていて、ドアの上にあるセンサーにかざすとロックが解除されるようだ。3カ所それを使ってドアを開けた。そして4カ所目はなんだかマンションの部屋の入り口みたいだった。


「ここは私の個室なの。外に出てるからおむつを交換して。おむつはそこのゴミ箱に入れておいて」


机の上にノートパソコン。部屋の隅に冷蔵庫と電子レンジ。その横のワゴンにおむつとおしり拭きなんかが乗っている。子供用のそれをみて、本当にここが姉の個室だと思った。高校生で幼児用のおむつが入るのは、姉とあの理事長ぐらいだろう。姉を待たせている、手早く交換を済ませる。


「ありがとう、お待たせ」


短く告げると、


「それじゃ、理事長との面接だね。がんばって」


さっきの姉の個室からすぐの場所に理事長室があった。


「失礼します」


そう告げて入室する。中には先程の理事長ともう1人の女子生徒がいた。この子も小さい。この学校は身長制限でもあるのだろうか?


「座ってください」


と私に着席を促す。


「単刀直入に言うと、合格です。おめでとう。これが今日のリザルト」


そう言って、後ろに控える女子生徒からタブレットを受け取り、私に見せてくれる。作文、実技どちらも2位。総合で1位だった。


「さっきお姉さんの部屋を見たよね?あれと同じ様な部屋を用意する。だから、あなたの下着のことはバレる事はないよ?」


ヒュっと息が出た。この人はサラリと私の秘密を言った。なぜ?ひょっとして姉が?


「花乃ちゃんではないよ。我々が君をおむつが必要な身体にしたんだ」


何を言っているのかわからない。なおも説明は続く。


「ヘッドホンのノイズキャンセラーは知っている?あれと同じ原理だ。尿意を感じる神経信号を逆位相の信号を送信して相殺する。すると尿意を感じなくなる。そのまま限界まで我慢させれば、勝手に溢れておもらしする。さらにその時の括約筋を緩める信号をコピーすればいつでも好きな時におもらしやおねしょさせる事が可能になるんだ」


頭が混乱してうまく話せない。でも、そんなこと。


「それが可能だったとして、そんな装置を私はつけてません!」


ありえない。絶対にそんなもの、つけてるわけがない。

でも、頭の中に浮かぶのは——着けていた“それ”が当たり前だった日常。

混乱と怒りが喉の奥までこみあげて、叫ぶように言っていた。


「してるよ。イーロン=マスクは500円玉ぐらいのサイズでそれを実現した。我々はスマートウォッチにそれを入れて販売した。パイナップルウォッチからスマートウォッチの覇権を奪ったそのウォッチ、『テンペスト』はインドのメーカーが作っている。そしてその会社は私のファンドが出資しているんだ」


私の感情などお構いなしに説明を続けた。


「『テンペスト』の開発だけで50億かかったよ。それからスマートウォッチに搭載するためにインドのメーカー買収。パイナップルウォッチからシェアを奪うための費用の方がかかったけどね。でもね。たった1人だけど、それを一切費用をかけずに行った人物がいるんだ」


怒りや拒絶といったこの人に向ける気持ちが消失していく。あるのはただの恐怖。


(その先は言わないで!)


そう思う。でも口にはできないし、しない。


「君が花乃ちゃんにやった事だよ。こんな大掛かりではなく、催眠という手法だったけどね。私は君、いや、橋本風乃さんに敬意を表するよ。必ず、あなたを世界レベルのピアニストにしてあげる」


私に拒否する気力なんてもう無かった。


数ヶ月後、世界のあちこちで同じ病気がニュースになった。


『ユリア=シンドローム』


排尿機能を失うその病気は、代わりに天才を生み出すらしい。

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