橋本風乃(5)
学校から帰宅した風乃は、まず自分の部屋に入り、バッグを乱暴に床に投げた。いつものように制服を脱ぎ捨て、ショーツをチェックするために、ベッドに座り込んだ。
「……嘘でしょ。」
ショーツの股の部分に、小さな染みができていた。
「なんで……。」
朝、ちゃんとトイレに行ったのに。休み時間もできるだけ行くようにしたのに。授業中に意識して膀胱を気にしていたのに。
「どうして、ちゃんとできないの……?」
焦りと不安で心臓がドクドクと鳴る。これで何回目だろう。最初は気のせいかと思った。でも、毎日少しずつ増えてきている。授業中、なんとなく違和感を感じたときにはもう遅くて、気づいたときにはショーツが湿っている。
「これじゃ……幼稚園児と一緒じゃん……。」
目の奥が熱くなる。でも、泣きたくなかった。悔しかった。こんなことで涙を流したら、余計に子どもみたいじゃないか。
「なんとかしなきゃ……。」
でも、どうすればいいのかわからなかった。
「風乃ー?帰ったの?」
リビングからママの声がする。
「う、うん!今行く!」
慌ててスカートを直し、ショーツの染みを隠すように足をすり合わせる。バレたくない。このまま、なんとか誤魔化さないと。
「風乃、また……?」
お風呂の前で着替えを持っていたママが、ショーツを見て心配そうに顔を曇らせる。
「……っ!」
風乃はギュッと拳を握りしめ、視線を逸らした。
「大丈夫?」
ママは優しく声をかける。だけど、その優しさが今は辛い。
「……べつに。」
絞り出すように答えた。
ママは少しだけため息をついて、静かに風乃の手を取った。
「このままだと、体に負担がかかっちゃうから、病院に行こうか。きちんと見てもらうのが一番だよ。」
「病院……?」
風乃は驚いた。でも、拒否する気力もなかった。
「……わかった。」
小さくうなずいた。
病院の診察室は、思っていたよりも静かだった。
「過活動膀胱ですね。」
医師の言葉に、風乃は小さく瞬きをする。
「膀胱の動きが過敏になっているせいで、尿意を感じる前に漏れてしまうことがあるんです。ストレスや不安も原因のひとつですね。」
説明を聞きながら、風乃は心のどこかでホッとしていた。理由がわかったことで、少し気が楽になった。
「お薬を使いながら膀胱訓練をして、少しずつ改善していきましょう。」
医師が優しく言いながら、処方箋を手渡す。
ママは風乃の手をそっと握り、「一緒に頑張ろうね」と微笑んだ。
その言葉に、風乃は小さくうなずいた。
夕方、風乃はリビングでテレビを見ながらぼんやりしていた。
病院で診断がついたとはいえ、不安が消えたわけではない。薬を飲んだからといって、すぐに治るわけじゃないし、明日からも失敗するかもしれない。
「風乃、少しお話しようか?」
ママの声に、風乃は顔を上げる。
「今日、病院でいろいろ話したけれど……これからどうしていくか、少し考えないといけないわね。」
ママは慎重に言葉を選びながら続ける。
「お薬を使い始めても、まだ昼間の不安は残るかもしれない。」
風乃は小さく「うん……」と答えた。
昼間の失敗が続いていて、それが学校でどうなってしまうのかが怖かった。
「それでね……風乃、学校でのことも心配よね。」
ママの言葉に、風乃はドキリとする。
「もし昼間も失敗が続いてしまったら……やっぱり、おむつを使うしかないかもしれない。」
「えっ……?」
風乃は驚いて、ママを見た。
「そんなの嫌だよ。」
反射的に言葉が出た。
「もちろん、風乃が嫌な気持ちなのはわかる。でも、学校での失敗を避けるためには、それが一番の方法かもしれない。」
ママは優しく、でも真剣な目で風乃を見つめる。
「無理せず、少しずつ慣れていけばいいんじゃないかな?」
風乃はしばらく黙り込んだ。
たしかに、学校で失敗するのは嫌だった。想像するだけで、冷や汗が出そうになる。
「でも……みんなには知られたくない。」
小さな声で、風乃は言った。
「大丈夫、風乃。誰にも気づかれないように、工夫するから。」
ママは優しく微笑む。
「おむつは、一時的なサポート。しっかり治療を続ければ、きっと改善していくからね。」
風乃はゆっくりと息を吸った。
まだ、抵抗はある。でも――。
「……わかった。少しだけなら。」
そう、小さな声で答えた。




