橋本風乃(3)
ピピピッ ピピピッ
手首に巻いたスマートウォッチのアラーム音が、静かな朝の空気を破った。
風乃はぼんやりと目を開ける。まぶたが重い。ゆっくりと腕を持ち上げ、アラームを止めた。その瞬間――違和感があった。
(……なんか、変な感じがする)
寝返りを打とうとしたとき、シーツがしっとりと肌に張り付くのを感じた。
「……え?」
心臓が跳ねる。
慌てて布団をめくると、そこには広がる濡れたシミ。
「……嘘でしょ」
たった4日前のことが、頭をよぎる。もうしないと思ったのに。二度とこんな思いはしたくないと思ったのに。
なのに、またやってしまった。
風乃はゴクリと唾を飲み込み、恐る恐る寝間着を触る。案の定、下着までぐっしょりと濡れていた。
(どうしよう……またバレる……)
焦りながら布団を片付けようとしたそのとき、扉がゆっくり開く音がした。
「風ちゃん、起きた? 朝ごは――……」
一瞬で空気が変わる。
ママの視線が布団に落ちたのが分かった。
「……風ちゃん、また、おねしょしたの?」
もう誤魔化せなかった。
風乃はギュッと拳を握りしめ、唇を噛む。
「……うん」
情けなくて、恥ずかしくて、悔しくて。4日前、泣きそうになりながら「もうしない」って思ったのに。
ママは少しだけため息をついて、それから優しく言った。
「風乃、布団が濡れるのは仕方ないけど、毎回洗うのは大変だから……そろそろオムツを使おうか」
「……は?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……オムツって、あのお姉ちゃんが使ってるやつ?」
「そうよ」
ママは迷いなく頷く。風乃の顔が熱くなる。
「や、やだよ!! そんなの履けるわけないじゃん!!」
オムツなんて、小さい子がするもの。赤ちゃんがするもの。お姉ちゃんは特別だから、仕方なく使ってるだけで。
「でも、このままだとまた布団が濡れちゃうわ。花ちゃんに隠し続けるのも限界だし。風乃も、朝起きてこんな気持ちになるの、嫌じゃない?」
「……っ」
確かに嫌だった。
「お姉ちゃんはずっとオムツだし、風乃も今はそれが一番安心かもしれないわ」
そう言いながら、ママが差し出したのは、見慣れた幼児向けオムツ。いつも姉が履いているやつ。
風乃はそれをじっと見つめた。
(……履いたら、おねしょが治らなくなる気がする)
そんな不安があった。でも、布団を濡らすことを考えたら、もう選択肢はなかった。
「……わかった」
震える手でオムツを受け取った。想像していたよりもずっと薄くて、夜用ナプキンみたいだった。
「お姉ちゃんみたいに、これで安心して寝られるわよ」
ママの言葉に、風乃は何も言えなかった。
◆
オムツを履いて寝るようになってから、少しだけ安心して眠れるようになった。
最初は違和感がすごかったけど、起きた時に布団が濡れてないのは確かに気持ちが楽だった。
(……これで、おねしょしなくなればいいんだけど)
でも、そんな願いはすぐに打ち砕かれる。
ピピピッ ピピピッ
朝のアラームが鳴る。
風乃は目を覚ます。ぼんやりとした頭で、手首のスマートウォッチを止めようと腕を動かす。その瞬間、異変に気づいた。
「……また?」
オムツを履いていたはずなのに、中はぐっしょり。布団こそ濡れていなかったものの、しっかりとおねしょをしていた。
「なんで……こんなに増えてるの……?」
一度ならず、二度ならず、三度目、四度目。いつの間にか、風乃のおねしょはほぼ毎晩になっていた。
脱衣場のカレンダーに目をやる。
(×××……)
そこには、姉の花乃が毎日つけている「おねしょの記録」の隣に、風乃の×印も増え始めていた。最初はぽつんと一つだったのに、今ではほぼ毎日。
「……お姉ちゃんみたいになっちゃった」
そんなことを考えた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられる。
(やだ……)
風乃は震える手で、今日の日付にも×印をつけた。
(やだ、やだ、やだ……)
おねしょなんて、たまたまのはずだったのに。10日前、もうしないと思ったのに。今は、まるで「おねしょするのが当たり前」みたいになってる。
「……どうして、こんなに増えちゃったんだろう」
風乃はカレンダーを見つめながら、小さく息を呑んだ。
このまま、本当にお姉ちゃんみたいになってしまうのかもしれない――そんな不安が、頭から離れなかった




