ありふれた夜
「なんだか、実感がないね」
大きく伸びをしながら、サユリが言った。
「もう終わりなんだなあ」
横でエリコが、俯き加減で言った。
「なんか、このままずっと高校生でいるような気分だよ」
二人は、他の三年生と一緒に、ぞろぞろと、ちんたらと連なって体育館から出てきたところだった。
春森高校は、三日後が卒業式だった。
先程まで卒業予定生徒が全員集まり、予行練習を行っていた。練習といっても、全体の段取りを確認する程度の、ごく簡単なものである。
「サユリ、お気楽過ぎ。早く大人にならないと」
「そうだね。高校で、やり残したこともないし……」
「そうとも言えない……」
「そうなの? どうして?」
サユリは、丸い顔に大きな瞳で、じっとエリコを見つめた。
「これでも、あたし、女の子だから」
対照的に面長なエリコは、視線を避けるように俯き、呟いた。
「女の子? あたしもだけど。それが? どうしたの?」
サユリがきょとんとした顔で、言葉を続けた。
「そういうこと言わないでよ」
「ゴメン」
「まあ、いつかは、相談しようと思ってたんだけど。どうしようか、いろいろ考えちゃって。今日まで黙ってたんだ。でも、ぐずぐずしてると、もう卒業しちゃうし、そろそろ話してもいいかな。ねえ、相談にのってくれる?」
「相談? あ、そうか。なんとなく、分かった」
「ホント?」
「あたりまえじゃない。何年親友やってと思ってるの。中学のときからずっとよ」
サユリは嬉しそうに笑った。エリコといるときは、いつも笑って話していた。
「エリコ、おしゃれさんだもんね」
「へ?」
「卒業式は、どんな髪型でどんなメイクにしようか、それって、今から考えちゃうよねえ。あたしも悩んでるんだ。写真もいっぱい撮るし、そういうのって、ずっと残るし。式の前日に美容院行くのかな? でもね、いつもよりは、おしゃれにしたいと思うけど、あんまり、派手過ぎたり、いつもと違うってのも変よね。そのへんのバランスが、なんとも……」
「あのさあ……」
エリコは苦笑いを浮かべた。
「そういうことじゃないのよ」
「じゃあ、服装かあ。あれ? でも、卒業式って、制服よね」
「あたりまえじゃん。そういうことじゃないんだってば。だいたい、やり残した事、って言ってるのに、なんで髪型とか服装になっちゃうの」
「そうか。じゃあ、なに? なに?」
エリコは辺りを窺うと、サユリの手をとり、体育館から続く渡り廊下から外に出て、集団の流れから少し離れた。
「実は、その……、あたし、なんて、いうか、まあ、好きなひとが、いるってことで……」
「うん? よく聞こえない。そんな、小さい声で喋んないでよお」
すぐ傍を大勢の生徒が歩いている。その雑音で、聞き取ることができなかった。
「だから……好きな人がいるんだってば……」
「え~っ。エリコ、好きな人がいるのっ!」
サユリは驚いて、ものすごく大きな声を出した。近くを歩いていた生徒が、皆振り返った。
エリコは、顔から火が出そうになった。
「誰? 誰?」
周りの様子を気にすることもなく、サユリは目を輝かせて聞いた。
「今言えない」
「なんでぇ。教えて、教えて」
サユリの大声のおかげで、かなり注目を浴びていた。この状況で発表できるわけがない。
「うん、もちろん教えるよ。でも、あとでね」
とりあえず、その場を離れたかったエリコは、サユリには悪いが、唐突に一人で走り出した。
「ちょっと待ってよ。急にどうしたの? おトイレ?」
慌てたサユリは、後を追いかけた。
「え?」
早く逃げようと、結構全力で走っていたエリコだったが、突然に足を止めた。目の前ほんの数メートル先、廊下に何人もの生徒が歩いている中、見覚えのある後ろ姿が見えた。それは、後ろから追いかけて来ているはずのサユリだ。そんなはずはない。
じっと見つめているエリコに気付いたかのように、その娘はゆっくりと振り向いた。
「サユリ?」
やはりサユリか? いや、顔はそのままだが、少し痩せているようだし、サユリよりもずっと色が白い。それでも、驚くほどそっくりだ。
エリコと目が合うと、ほんの少しの間見つめ合っていたが、やがて微笑んだ。嬉しそうな笑顔は、もう、ほとんどサユリにしか見えない。
「サユリなの?」
一歩踏み出そうとしたとき、いきなり肩を掴まれた。
「うわっ」
「もう。エリコったら。急に走ったり、立ち止まったり。情緒不安定?」
そこには、普通にサユリが立っていた。
「え? いや……そこ……」
慌てて振り返ったが、あの娘はいなかった。目を離したのは、一瞬だけだったのに。
「そんなに、照れくさかったら、無理に教えてくれなくてもいいんだけどね……」
「あの、それはともかく……、この学校に、サユリのソックリさんがいるの知ってる?」
「へえ? ソックリさん? 知らないよ」
「今、そこにいたんだけど」
「ホント? 見たかったな」
サユリは、辺りをキョロキョロと見回したが、それらしい人はいなかった。
付き合いが広いとは言えないエリコだが、同じ学年の娘なら、ほぼ全員顔ぐらいは知っている。
下級生の娘か?
どうであるにせよ、サユリとよく似た娘がいるというだけのことで、不思議でも奇怪でもない。
しかし、エリコは妙な胸騒ぎを感じた。
皆と一緒に体育館から出てきたジュンコは、眩しそうに目を細めると、長い髪をかきあげた。
「なんだか、実感ないわね」
「うん」
隣を歩いていたリンカが、ぽつりと答えた。キレイな瞳をしていたが、ボーッとしていて、表情が冴えなかった。
揃ってストレートの黒髪を伸ばし、その胸元には、おそろいの銀のネックレスがあった。女子としては背の高い二人は、人の流れを無視するように、ゆったりと歩いていた。
「今も退屈だったけど、本番は、もっと長いぶん、もっと退屈なんだろーなー」
「そうね」
「なんか、このまま、すんなり式を迎えちゃうのも、面白くない。つまらん」
「そうかもね」
話をちゃんと聞いているのか、ボーッとしたまま答えるリンカだったが、いつものことなので、ジュンコは話を続けた。
「いっそのこと、めちゃくちゃにしてやりたいと思わない?」
「そうね……いや、それは、どうかな」
「リンカは嫌?」
「他人に迷惑かけるのは、良くないし」
「迷惑かなあ? 卒業式を楽しみにしてる人なんて、マジでいるの? 面倒なだけじゃん。卒業式がなくなったら、卒業できなくなる訳じゃないのに」
「でも、暴力はダメだよ。まあ、ジュンコが暴れまわって、体育館を破壊するとは思えないけど」
「あたしに、そんな体力ないわ。でも、力ずくじゃなくて、うまいこと式をぶっつぶしてやったら、面白いと思わない?」
ジュンコは涼しい顔で、不気味なことを言った。
「そんなに卒業式が嫌いなんだ。なにか怨みでもあるの?」
「怨むようなことは特別ないけど、嫌いだね。くだらないし、あほくさい。話したこともない校長から紙切れ一枚もらうのが、そんなにありがたいかしら」
「校長はともかく、卒業証書は記念になるんじゃない。ジュンコは、中学とか小学校の卒業証書、捨てちゃった?」
「いや、まあ、探せば、どっかに残ってるとは思うけど……いいじゃん、そんなもん、教室で普通に渡せば。ありがたく受け取りなさい、っていう上から目線が嫌でしょ」
「普通、先生ってのは上から目線だから。嫌かもしれないけど」
「嫌、ほんと大嫌い。先生なんて、消えればいいのに」
「そこまで言うかな」
リンカは、苦笑いを浮かべた。いつものことなので、大して驚きはしなかった。
昔からこうだった訳ではない。もともとゴシックやパンクは、ファッションとしてだけ好きだった。リンカは、まともにその影響を受け、同じような格好をするようになった。ところが、三年生になった頃から、パンクファッションに合わせるように、性格も荒んできた。不良デビューとしては随分遅いが、校内でも問題行動をすることが多くなった。いずれも大したことではなかったので、無事こうして卒業することができる訳だが。
リンカは、その原因が分からない。何が起きたのかも知らない。だが、詮索しようとは思わなかった。
「ホント、卒業式も消しさりたいわ」
「まあ、それもいいでしょ……」
結局は、あまり関心が無さそうなリンカだった。
「怖いこと言ってるなあ」
後ろから、アサトが声をかけた。髪がボサボサで、色の白い男子だった。
「なによ。聞いてたの?」
ジュンコは、冷たい目でアサトを見た。
「ゴメンゴメン。でも、ちょっと、同感だな。やっぱり、面白くないよね」
「へぇ~、アサトに共感されるとは。あんたは、真面目なだけかと思ってたけど」
「そんなことない。うん、なんていうか、今までは、真面目な振りしてただけだよ」
アサトは、ズボンのポケットに手を入れた。
「今まで、って、もう卒業じゃん。それに、そういう真面目な振りをしてるヒトのことを、世間では真面目なヒトというのよ」
冷たい調子で、ジュンコが言った。アサトは不服そうな顔をした。
「そう真面目真面目言うなって。僕のこと、知りもしないくせに」
「はあ? そりゃ、興味無いんだもの、知るわけないじゃない。あたしのことも、知ってもらおうと思わないし。て言うか、知らなくていいから」
「そういう寂しいこと言うなよ」
アサトは、何気なく、同意を求めるようにリンカを見た。
リンカは、二人の会話を聞きもせず、ぼおっと空を見ていた。
体育館から校舎に続く渡り廊下は、屋根だけの造りで壁がなく、空がよく見えた。
「なんか、雨降りそう」
一人で呟いた。見上げれば暗い雲が、遠くから広がっていた。
灰色の雲を眺めていると、吸い込まれそうな、奇妙な気分になってきた。軽い目まいを感じて、額に手を当てた。
何かが自分に呼びかけている。
実際の声は聞こえないが、心の中に、言葉ではない、直接意思のような何かが届いてくる。強引に頭の中に進入されたような、鳥肌が立つ程に嫌な気分になった。
知らない。あたしには関係ない。
自分でも意味が分からないのだが、心の中で、そんな言葉を何度も繰り返した。
「あれ?」
アサトが、廊下の外にある植え込みを指差した。まだほとんど葉のない枝の先に、小さな炎があった。
「え? どうしたのかしら?」
ジュンコも、少し驚いたように見つめたが、火はすぐに消えて、微かな煙だけが残った。
「なによ。誰か、タバコでも投げ捨てた?」
「まさか。先生はいないし、うちの高校には、校内で堂々とタバコ吸うような生徒はいないだろ。……火の玉かな?」
「火の玉って、オバケみたいな? だったら、すごいよ」
ジュンコは嬉しそうな顔をした。オカルティックなことは、あまり詳しくはないが、そこそこ興味があった。
もう一回現れるかも、と思い、スマホを握り締めて辺りを見回したが、全く火の気は無かった。
「いや、オバケと関係あるかどうか、分かんないよ。科学的に説明の出来る、何かかもしれない。それか、単なる誰かのイタズラかも」
「……どっちにしても、もう出てこないね。ちぇ、つまんない」
アサトとジュンコのやりとりを、リンカは黙って聞いていた。
あたしには関係ない。そう自分に言い聞かせていたが、どうしても嫌な予感が拭い去れなかった。
レイは、体育館から出ると、すぐに窮屈な詰襟のホックを外した。
「なんか、実感わかねえなあ」
男子としては背が低いほうで、黒い前髪を垂らし、ちょっとキツい眼差しをしていた。
「あと三日で卒業するなんて、モッサン、どうよ?」
「どうよ、って言われてもなあ」
「何にも変わらないよな?」
「レイは、まだ学生続けるんだろ。俺は違う。働くんだよ」
「何か変わるのか?」
「いや、まあ、俺自身は何も変わらないけど」
モッサンと呼ばれた男子が、淡々とした調子で言った。レイよりずっと大柄で、茶色の髪を無造作に伸ばし、いかつい雰囲気もあるが、ずっと眠たそうな目をしていた。
「そう。モッサンは変わらない。俺も変わらない。世の中、なんにも変わらない。だから、いつものように、さっさと帰って、バンドの練習でもすっか」
「バンドかあ……」
モッサンは、ちょっと顔をしかめた。
「なんだ? 嫌なのか?」
専門学校に入学が決まっているレイには、社会人になるモッサンのバンドへの気持ちは分からなかった。今までと同じ。レイは学校が終わって、モッサンは仕事が終わってから、バンドの練習を続ければいいと思っていた。
「嫌というか、ちょっと考えちまって。練習はそれなりに面白れーよ。それで、まあ、今までは満足してたんだけど、もう、卒業じゃん。学祭もねーし、ドラムが辞めやがってから、ライブの予定もねーし。どうすんだよ、って感じ」
「なんだよ。モッサン、続けないのか」
「分かんね」
「分かんねーか」
レイは歩きながら、少し考えた。途中、知らない生徒の肩にぶつかったが、睨まれても気に留めなかった。
「……高校生活最後に、なんか、ライブ、やってみるか」
「ライブ? どこで? どうやって?」
「分かんね」
「あ、そう。相変わらず、何にも考えないで、とりあえず言うだけだな」
「まあ、ちょっと待て。おおい、リサ」
少し前を歩いていた女子が、レイに呼ばれて振り向いた。唇がぷっくりとして、大人びた顔の女子だった。
「なあに?」
「リサは、まだバンド続ける気あるか?」
「どうしたのよ、急に」
「いや、ちょっと気になってさ。モッサンは、分からねえって言うし」
「うーん」
リサは少し首を傾げ、レイの顔を見て、モッサンの顔を見た。モッサンと同じで、リサも就職が決まっている。
「まあ、続けたい気は、あるかな」
それは正直な気持ちだった。正直な気持ちではあるが、実際出来るかどうか、出来る為の努力をするかは、また別の話だ。
「そりゃあ良かった。じゃあ、卒業記念に、なんかやろうぜ」
「なんかって、何よ」
「俺も、それ聞いた。まあ、なんだ。そこまで、考えてねぇみたいだよ」
「いいじゃん。とにかく、なんか、ぱあっとやろうぜ。バンドとして、三年間の集大成ってやつ」
レイは、モッサンとリサの肩を叩いた。
リサは苦笑いを浮かべたが、モッサンの表情は暗かった。
「なんだよ、そんな顔して。俺の言い方がムカついたか?」
「違うよ。そんなんじゃない。そりゃ、おまえの言ってることは、いっつもムカつくけど、もう慣れたよ」
「そうか。そりゃ、良かった。でも、なんか気になるのか?」
「嫌な予感がするんだ」
「ええ? どうしたの?」
リサが驚いて言った。過去にモッサンの口から、嫌な予感、などという言葉を聞いたことが無かった。
「どうも、悪い事が起きるような気がする。できれば、何もしないで、大人しくしていたほうがいい気がする」
「なんで? 勘?」
「おまえ、勘がいいのか? ぞんなの、全然知らなかったぞ」
「ああ。勘がいいとは思ってない。俺も初めてだが……、最近、嫌な夢を見るんだ」
「夢? どんな夢?」
「犬の夢だ」
「なんだ、犬っころかよ」
「……うちは、先祖代々この土地に住んでる。話せば長いが、いろいろ因縁があるんだ」
「大丈夫?」
モッサンの顔が見たこともないくらい真剣だったので、リサが心配そうな顔をした。
「……ゴメン。俺とした事が。つまらん迷信に惑わさちまった」
モッサンは、気を取り直したように笑った。
「今言ったことは忘れてくれ。気にするな」
今度は、モッサンがレイとリサの肩を叩いた。
この時期になると、もうほとんど授業はない。三年生全員の進路は決まったので、重要な連絡や報告やこれといって確認することもない。しかし、卒業生としての責任は果たさなくてはいけない。
この日は卒業式の予行演習を終えた後、三年生全員で校内の清掃を行っていた。
「面倒だ。まったく、面倒だ。もう、やんなっちゃう」
ずうっとブツブツ言いながら、ジュンコが、教室の後ろで棚の雑巾がけをしていた。めくったシャツの腕には、薔薇の上にCOOLと描かれたタトゥーが見えていた。実はニセモノだが。すぐ横ではリンカが、何も言わず黙々と、雑巾でロッカーを拭いていた。リンカは、ジュンコと同じ場所にニセモノのタトゥーをしていたが、薔薇ではなく天使だった。
「こんなの、ホントだったら、お金もらってもいいわよ。ねえ、リンカ」
「いやあ。でも、綺麗になるの、楽しいよ」
「そういうこと言うか」
まいった、という顔をすると、ジュンコは手を止めて溜め息をついた。
リンカも、そんなジュンコを注意する気はしなかった。今ほどささくれていない、まだ可愛い普通の女子だった頃から、ジュンコは掃除のような面倒な事は嫌いだった。
リンカは知っていたが、実は由緒ある家のお嬢様で、少々甘やかされて育ったのだ。
今だって、何一つ不自由することのない、豊かな生活を送っている。だが、いつだって不満の塊のような顔をしている。自分が恵まれているという事実は、なかなか本人には見えにくいものだ。
「あと少しじゃん。頑張って終わらせよう」
近くにいたアサトが、声をかけた。
ついでにリンカは知っていた。申し訳ないが、アサトの家はあまりお金持ちではなさそうだった。
言い方は悪いが、存在が地味な男だ。バカだったら面白味もあるが、適当に成績も良かったりする。トロい男だったら、それはそれで個性になるが、ほどほどに器用だったりする。
そんな目立たない彼が、目立つだけだったら学校で一番ともいえる、ゴシックでパンクのジュンコに惚れているのだ。
いや、惚れていると本人の口から聞いたことはない。リンカが知っている限り、告白らしきものもしていない。しかし、校内で暇さえあればジュンコにくっついている姿を見れば、間違いないだろう。
ジュンコは、全く関心が無いようだった。
「あら。アサトいたの?」
このときも、ジュンコは冷たい言葉を投げかけ、相手にするのも面倒そうだった。
でも、そう嫌がってもない、とリンカは思っている。もし本気で嫌いだったら、こんな態度では済まないはずだ。
「さっきから、ここにいるよぉ……」
そんなアサトの言葉を聞いているのかいないのか、ジュンコは雑巾をつまんで、ぐるぐる回していた。
「ところで、こんな本がころがってたんだけど、誰のかな?」
アサトは、文庫本より少し大きい程度の、小さな薄い本を持っていた。黒い表紙に、赤い文字でタイトルが浮き出ている、不気味な本だった。
「知らないけど……ちょっと見せて」
ジュンコは、すぐに興味を持った。『降霊方法伝授書』というタイトルで、著者も出版社も全く聞いたことのない名前だった。
手に取ると、大きさに合わず、妙にずっしりとした重さがあった。
「降霊って、どういうこと」
ジュンコは首を傾げた。
「そりゃ、あれだよ。霊を呼び出す、ってことじゃないか」
「へえ。霊ね。なんか、面白そう。どこにあったの?」
「いや、どこって、すぐそこの棚の上に置いてあったよ」
「変ねえ。ついさっきまで、何も無かったと思うんだけど」
「本当か?」
「そうよ。ずっと二人で掃除してたんだから。……まあ、あたしは、あんまりやってないけど」
「なんか、気持ち悪いなあ。誰か置いてったのか?」
「でも、そんな人はいなかったような気がするし。ねえ、リンカは、この本見覚えある?」
「ん?」
手を止めたリンカは、顔を上げて、その本を見た。一瞬、陽炎のように、本がゆらいで見えた。
気持悪いな、と思いつつ、手に取ろうとした。そのとき、突然真上にあった蛍光灯だけが消えた。
「うぇっ」
本には触れず見ていただけのアサトが、びっくりして声を上げた。曇り空で薄暗いせいか、急にこの片隅だけ暗くなった。
「あれれ?」
リンカは天井を見上げた。教室の中で、蛍光灯が消えているのは一箇所だけだった。
「消えちゃったね。どうしたのかな?」
のんびりとした様子で、リンカが言った。
「……古かったからかな」
アサトが答えた。ジュンコは、大きな目をいっそう大きくして蛍光灯を見つめた。
「忘れたの? 最後だからって言って、この前全部新品に取り替えたばっかりじゃん」
「そうだっけ。不良品かもな。安物なんだろ」
「そうかもしれないけど」
リンカは黙って、本を取ろうとした手を引っ込めた。ジュンコは、本に視線を戻した。
「なんか分かんないけど、ひょっとしたら、これやばいよ。本物かも」
「まさか。そんなはずない」
「なんで、アサトがそう言い切れるの?」
「いや、そんな凄い本が、そこらに転がってるわけないし」
「だから、あたしに拾われる為にここにあったのよ。きっと、偶然じゃなくて必然ってやつ。これから、面白くなりそう……」
ジュンコは一人呟くと、笑みを浮かべた。
レイとモッサンは、校舎の裏の掃除当番だった。
しかし、すぐに掃除に厭きた二人は、箒をもったまましゃがみこんだ。
「モッサン、もうすぐ働くんだよな。俺には信じられないよ」
「悪かったな」
「いや、信じられない、ってのは変な意味じゃなくて。なんつーのか、偉いというか」
「べつに。偉かねーよ。レイだって、少しはバイトぐらいしたことあんだろ? まあ、バイトと就職を一緒にしちゃいけないかもしれないけど、俺の中では、その続きみたいなものだ。ちょっとマジ度が強いけどな」
「でもよ。まだ学生でいたいとは思わないか?」
「べつに。俺としては、もう学校で学ぶことはないと思ってる」
「そうか。まだ学ぶことはあると思うけどな。この先、どうなるか分からないんだから、いろいろ知っておいたほうがいいだろ、自分の可能性ってやつを広げておかないと」
「へえ、それで、おまえ専門学校行くのか」
「そうだよ」
モッサンは、いつもの眠そうな目で、レイを見つめた。
「興味ねえからよく分からんけど、そういうことなら、もうちょっと普通っぽい四年制の大学とか行って、いろいろと幅広く学ぶんじゃねーの」
「違うんだよ」
レイは、むくれたような顔をした。
「音楽の道に進むのは決めてんの。ただ、どういうことをやってくか、ってことだよ。専門学校だからってバカにしてるな。そこからプロになった人だって、いっぱいいるんだぜ」
「ていうか、プロでやるつもりなんだろ。いっぱいってことは、全員じゃないってわけで、その中の一人になれるのか」
「いちいちうるせえな。分かった。もういいよ。どうせ、大学受験するだけの根性がなかったと思ってんだろ。まったく、アタマにくるヤツだぜ」
レイは、箒を地面に叩きつけた。
「ごめん。悪かった。そうイライラするな」
モッサンが箒を拾い上げた。
「なんで、そんなこと言っちゃったのかな……たぶん、俺も自信がないんだ。本当に、このまま就職して後悔しないのか」
「そうか……モッサンは、音楽のプロになりたいと思わないか?」
「俺の実力じゃ無理だ」
「練習すればいいじゃん」
「簡単に言うなよ。世の中、上には上がいるんだ。実際、どこまで通用するか分からんけど、レイのギターは上手いと思うよ。でも、俺のへっぽこベースじゃ、どう頑張ったって無理だ」
二人は黙って俯いた。そのとき、リサが箒を片手に歩いてきた。
「二人とも、さぼってばっかいないで、さっさと掃除してよね」
「おっ、へっぽこキーボードが来た」
「うるさい」
リサは、箒の柄でレイの頭を小突いた。コーンと音がした。
レイはギターとボーカル、モッサンはベースとボーカル、リサはキーボードを担当していた。
有料で客を入れるような単独ライブはやったことがないが、ライブハウスの催しやら町内の催しやらで無料ライブを何回か行っており、近所では少しだけ名が知られていた。しかし夏頃、受験勉強を優先したいという理由でドラムが抜けてしまい、現在は活動停止状態だった。
レイとモッサンは、のっそりと立ち上がった。
「ところで、さっき言ったことなんだけど。最後になんかやろうぜ」
「だから、なんかって、なによ?」
「考えたよ。卒業式の後、校内でのゲリラライブ」
レイは、大きな目を輝かせながら言った。
「なんか、って、結局ゲリラライブかよ。ただのストリートライブじゃねえのか?」
眠そうな顔で、モッサンが言った。
「あくまで、無許可で強行するから、ゲリラライブ」
「ドラムはどうすんの?」
箒で落ち葉を掃きながら、リサが言った。
「練習で使ってるリズムマシーンでいいよ。アンプもあるし。校内なら、電源には困らないと思うけど、一応、発電機を借りてもいい。アテはある」
「曲は?」
モッサンも、形だけという感じで箒を動かしながら、レイに聞いた。
「そんな、何曲もできないだろうから、いつも練習してる曲を二、三演ればいいだろう」
「アンコールとかあったら、どうする?」
リサは、ちょっと意地悪そうな笑みを浮かべて言った。あまりに思いつきのライブに、皮肉を込めて冗談のつもりだったが、レイは、本気で嬉しそうだった。
「アンコールかあ。そうか。そうだよなあ。うん。一番の勝負曲は、アンコールに取っておこう」
「やめとけ。苦情を言う奴はいても、アンコールなんて、ないから」
モッサンが、冷めた調子で言った。
「うん。たぶん、そんな気がする」
リサは、ニヤニヤ笑いながら、落ち葉を集めた。落ち葉の山が出来上がった。
「あれ。あの、でっかいチリトリみたいなやつ。あれ持ってくるわ」
その山を見ながら、レイが言った。
「そう……じゃあ、お願い」
「モッサン、行こうぜ」
「え? なんで二人で行くの? 一人で行けばいいじゃない」
「だって、こんだけたくさんあるんだから、二つぐらいあったほうがいいだろ」
「それにしたって、一人で持ってこれるでしょ」
「別にいいじゃん。一人で待ってるのは嫌か? 寂しい?」
「そんなことないわよ。子供じゃあるまいし」
「すぐそこだから。じゃあ、モッサン、行こうぜ」
モッサンは、面倒くさそうに箒を置くと、足取り重くレイの後を付いていった。
後に残されたリサは、校舎裏に沿う廊下の窓枠に寄りかかり、落ち葉を眺めていた。せっかく集めた落ち葉も、放っておけば、風が吹いて散り散りになってしまう。
「ん~ん~」
誰もいないし手持ち無沙汰だったので、リサは指で鍵盤を弾く振りをしながら、メロディを口ずさんだ。
「ねえ、リサ……」
「はいっ」
突然話し掛けられたので、びっくりして返事をした。
いつの間にか、背後の廊下にエリコが立っていた。
「なんだ、エリコか。驚かせないでよ」
「ごめん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
エリコは落ち着かない様子で、それでいてチラチラと少し睨むような眼差しでリサを見た。
「ん? なに?」
リサの態度も落ち着かなかった。もともと、あまり会話のない二人だったのだ。
「ムラタくん、って、知ってるよね」
「いやあ、まあ、同じクラスだから、もちろん知ってるよ」
「そりゃ、そうか。いや、そうなんだけど、リサって、ムラタくんと、その、なんていうか、ちょっと、関係があるの」
「なによそれ?」
リサは苦笑いを浮かべた。
だいたい何が聞きたいのか察しがついた。前々から、迷惑な噂が勝手に広まっているので、それに関係したことだろう。
「だって、ちょっと小耳に挟んだから。リサとムラタくんがデートしたって」
「なんで、そういう話になるかなあ。誤解なんだよね」
リサは頭をかいた。
「あたしが自分で言うのも何かアレだけど、デートに行かない? みたいなことを言われたのは本当。はっきりとした文句は覚えてない。だいぶ前のことよ。それを誰かが聞いてたのかな。いつの間にか話が広まって、それに、時間が経つと話がちょっと広がってきちゃって、実際デートしたことになってるみたい」
「本当なの? デートしたの?」
「いやいや。お断りしたわ」
「どうして断ったの? ひょっとして、リサ、彼氏とかいるの?」
「いないわよ。でも、ムラタくんはちょっとね。ムラタくんも、別に本気じゃないでしょ。ちょっとした挨拶みたいなもの。バンドやってるから、軽い女だと思われてるのかもしれない」
「そうなんだ。ごめんね、急に変なこと聞いて」
「影でいろいろ言われるより、直接聞いてくれたほうが、こっちもありがたいわ。……ところで、エリコさあ……」
「なに?」
「……」
ムラタというのは、いっつもそんな感じで誰にでも声をかけるような男だ。あまり関わり合わないほうがいい。といったような事を、言っておこうかと思った。
しかし、やめた。大きなお世話だし、リサ自身ムラタのことを、よく知っているわけではない。誤解しているかもしれないのだ。おそらく、誤解ではないと思うが。
「……もう卒業だね」
適当にごまかす為に、分かりきったことを言った。
「……そうね」
エリコは困惑した顔をした。
真面目にやっていた人も、不真面目にやっていなかった人もいたが、とりあえず掃除の時間が終わり、簡単なホームルームも終わった。残り少ない高校の放課後という時間を、名残惜しく思いつつ、やがて皆帰って行った。
がらんとした教室の中に、どんよりとした空気が漂っていた。そこにはまだ、ジュンコ、リンカ、アサトの三人が残っていた。
ジュンコは座って、熱心に例の黒表紙の本を読んでいた。リンカは、隣に座って、時々本を横から覗いたり、ボーっとしていたりしていた。
アサトは、後ろの机に腰をかけ、手持ち無沙汰そうに外を眺めていた。
「なんか、本格的に天気が悪くなってきた。そろそろ帰ったほうが、いいんじゃないか」
「あれ。アサト、まだいたの?」
ジュンコは、長い髪に手を当てながら、顔を上げて言った。
「なんだ、ひでぇよ。そればっかだな。ずっとここにいるじゃん」
「悪いわね。こっちは、これに集中してるのよ」
「その本、誰が持って来たのか分かった?」
「分からない。っていうか、誰にも聞いてないし、そもそも持ち主を探す気もない。この本は、あたしが預かることにした」
「そんなに面白いか?」
「面白いわね。とっても興味深い。この本に書いてある通りにすれば、霊を呼べるんだって。いろいろな霊についてのやり方。例えば、良い霊を呼ぶ方法と、悪い霊、いわゆる悪霊を呼ぶ方法は違うみたい」
「悪い霊を呼ぶと、どうなっちゃうの?」
リンカが聞いた。
「それは、よく分からない。この本には、そのへんのこと、はっきりと書いてないから。ただ、何かしら災いが起きるのは、間違いないわ……」
「わざわいかあ。イヤだなあ」
ちょうどそのとき、教室のドアがガタガタ鳴り出した。三人は、ぎょっとして、顔を見合わせた。音はすぐに鳴り止み、教室は静かになった。誰かが外にいる様子もなかった。
「……風でしょ。ほら、外見てよ。アサトも言ってたけど、だいぶ天気も悪くなってきたし」
ジュンコが外を指差した。空は分厚い雲に覆われ、まだ夕方という時間でもないのに、すっかり薄暗くなっていた。
「……で、どうやって、霊を呼ぶんだ?」
少し興味ありそうに、アサトが聞いた。
「まだ、全部読んでないから、よく把握してないんだけど。ある程度、霊能力っての? それがある人は、決まった呪文を唱えることで、霊を呼び出したり、帰ってもらったり出来るらしい。でも、あたしらみたいに、普通の人間はダメね、いろいろと準備とか儀式がいるみたい。そうすれば、とりあえず、出来ないことはないみたいよ」
「帰ってくれないと嫌だな。呼び出すときは、お帰りしてもらう準備も完璧にしておかないと怖いね」
「そのへんは、気を付けるわ」
「そうか……って、本気で呼び出す気かよっ」
「だから、言ったでしょ。卒業式を、めちゃめちゃにしてやりたいって。悪霊がでてくりゃ、そりゃあ、もう、大変でしょ。……どう大変になるのか分からないけど」
「だいたい、悪霊ってなんだよ?」
「さあ……グールみたいな感じ?」
「グールって、なに?」
リンカが、ぼんやりとした調子で聞いた。
「まあ、とにかく、おっかない奴らよ」
「おっかないのは嫌だなあ」
そうリンカが呟いた瞬間、外で雷鳴が響いた。
「わっ」
アサトが、びっくりして声を上げた。天気が悪くなってきたとは思っていたが、この時期に、雷が鳴るなんて思ってもなかった。
「なんか、いよいよ、いい雰囲気になってきたわね」
ジュンコは、嬉しそうな顔をして言った。
まだ雨は降っていないようだった。外を眺めていたジュンコの目が、一点に止まった。見ると、一人の女子が、ちょうど校舎を出て、校門まで歩いているところだった。
「ああ、リサだ」
アサトが呟いた。
「……ちょっと試してみようかな」
ジュンコは急いでページをめくった。
「何する気だよ?」
悪意を感じたアサトが言った。
「初心者でも出来る、簡単な呪文があるの。新たに霊を呼び出すんじゃなくて、今ここに浮遊している霊を、少しだけ操ることができる呪文」
「おいおい。やめたほうが……」
「ナ・ライノ・モ・トテ・ラ・ウィタトノ・ムレオ・ヤマス……」
ジュンコはアサトの言葉を無視して、右手を上げながら、左手で本を支え、呪文を唱え始めた。
「イ・アサヅ・ケ・チイク・トチ・ホウ・イ・アゲノ・ニサタア……」
一通り唱え終えたのか、てくてくと歩いているリサを、改めて見つめた。
「さあ、あの娘の尻を、蹴飛ばしてやって」
「まさか」
そんなバカな、と思いつつ、アサトは窓から身を乗り出してリサを見つめた。
何事もなく普通に歩いていた。
なんだ、やっぱり何も起きない。そう思ったとき、突然リサが前によろけた。そして、とても驚いたように目を丸くして、周囲を見渡した。すぐ側には誰もいなかった。離れて周りにいた生徒達が、不思議そうにリサを見つめていた。
リサ本人は、お尻をさすりながら、きょとんとした顔をしていた。そして、首を傾げ傾げしながら、歩いて行ってしまった。
「信じられん……」
アサトが呟いた。信じられない一つ目は、呪文が効いたこと。信じられない二つ目は、平気でリサをターゲットにしたこと。幸い大事には至らなかったようだが、どうなっていたのか分からないのだ。
「エアミ・セッチ・イナ・ココ・ド・タッサス……」
ジュンコは再び呪文を唱えた。このまま霊に取り憑かれないように、去ってもらう為の呪文だった。その呪文が効いたかどうだか分からないのだが、本を閉じると、薄らと笑みを浮かべた。
「リサに、なんか恨みでもあるのか?」
「ん? まあ、あるような、ないような」
ジュンコは言葉を濁した。アサトの知っている限り、ジュンコとリサとは何の繋がりもない。たまたま、そこにリサが通りかかっただけで、別に誰でもよかったんじゃないか? そうだとすると、酷い話だ。
リンカは、じっと外を見つめていた。あまり感情を表さないリンカが、珍しく、怯えたような表情をしていた。やはり、今の出来事には随分と驚かされたのだろう。
「大丈夫よ。もう、終わったから」
ジュンコは、優しくリンカの肩に手を置いた。
「うん……でも、なんか、すごいね」
「まだまだ。本番はこれからよ」
ジュンコは、誇らしげに黒い本を見つめた。
「うわっ、びっくりした」
突然の雷鳴で、エリコは飛び上がりそうなほど驚いた。サユリも驚いたが、声も出せずに固まっていた。
二人はサユリの部屋で、制服のままくつろいでいた。
出窓があって、その反対側にベットが置いてあり、勉強机、本棚、洋服ダンス等々があるなか、二人がお菓子を挟んで向き合い、大きめの座布団の上に座っても、なお余裕のある部屋だった。サユリの家は、少しばかり裕福な家庭で、普通のマンション暮らしのエリコは、いつも入り浸っていた。
本棚には、宮沢賢治の本が目立つところに置いてあった。壁には、いくつか写真が飾ってあった。そのほとんどが、エリコと一緒だった。どの写真にも、楽しそうなサユリの笑顔があった。こんなにつまらない自分と一緒にいて、どうしてそれほど楽しいのか。エリコは、それが不思議だったが、本当にサユリはエリコが大好きだった。
友情を損得で評価するような考えは、あまり適切ではないかもしれないが、サユリが友達になってくれてラッキーだった。エリコは、そう思わずにはいられなかった。
中学時代の思い出があった。忘れてしまいたい嫌な思い出だが、同時に、忘れる訳にはいかない大切な思い出でもある。
もともと陰気な性格だと自分では思っているエリコは、中学時代、イジメにあった。きっかけは、女子のリーダー格に対して、陰口と誤解されるような言葉を、何かのはずみで言ってしまったことだったと思う。内気なのに、変に意地っ張りな性格が更に災いした。悪口を言ったつもりの無いエリコは、断固として謝らなかったので、すぐに彼女達から仲間はずれにされ、やがて仲間はずれの輪は大きくなった。それからは、単に彼女達のストレス解消であるかのように行動がエスカレートしていき、よくあるパターンだが、上履きは捨てられ、教科書には落書きされ、机は汚され、黒板には醜い悪口が書いてあった。
あの時が、過去自分の人生における最悪の時だったのは間違いない。もし、あの状況がもっと長く続いていたら、自分でもどうなっていたか分からない。しかし、そんな暗闇の中に天使が現れた。教室で孤立しているエリコに、サユリが声を掛けてきたのだ。
イジメに合う前は、特別仲のいい関係ではなかった。むしろ、ちょっととろいサユリを避けていた気もする。
後から知ったことだが、サユリは、別にエリコをイジメから助けるつもりなんかなかったらしい。それどころか、雰囲気に鈍感なサユリは、エリコがイジメに合っていることさえ、気付いていなかったらしいのだ。ただ、話しかけなくちゃ、と思っただけだったのだ。理由は、エリコが休み時間に、いつものように一人で読んでいた本が、たまたま「銀河鉄道の夜」だったことに気付いたから。それだけだった。
エリコと仲良くなったサユリは、最初のうち、周りから冷たい目で見られた。ところが、のん気なサユリは、やはりそんな小さなことには気付きもせず、いつもエリコと一緒にいた。
もともと、可愛くて、明るくて、性格も良くて、成績は……イマイチだったが、家も金持ちで気前のいいサユリは、誰からも好かれていた。サユリをイジメのターゲットに加えるのはやめよう。そういう空気になってから、エリコに対するイジメも自然と無くなっていった。
イジメの加害者達は、それであっさりと何事もなかったかのように忘れることができた。
しかし、被害者にしてみれば、今まで散々酷い目に合わされてきた人達に対して、内心はらわた煮え繰り返る思いだった。それでも、もう嫌な思いはしたくないエリコは、一つ大人になることができた。意地をはらずに、表面だけでも皆と仲良く接することができればいいのだ。そうすると、イジメの中心となった一部の女以外は、案外許すことができた。皆、本当はいい娘なのだ。一度、誰かをイジメる流れになると、中学生という精神的に子供の彼女達に、それを止めることは出来る訳がなかった。それが出来たサユリは例外中の例外だ。
三年生になり、サユリが進学を希望した高校は、エリコが目指す高校と同じだった。実は、当時のサユリの成績では難しかったのだ。しかし、エリコが一緒に勉強して、いろいろと教えてあげた。どうにも、物覚えがあまり良くないサユリだったが、エリコは根気よく付き合った。下手すると、エリコまで引きずられて成績が落ちる可能性があったが、そんなことは、サユリがしてくれたことに比べれば大したことではなかった。そして、サユリは無事にエリコと同じ高校に進むことが出来た。本人からも感謝されたが、サユリの両親からも、えらく感謝されたので、こうしてぬくぬくと入り浸っていられるのだ。
それから二人は、ずっと一緒だった。あまりにも一緒なので、エリコはたまに、げんなりすることもあるが、サユリはそんなこと微塵にも考えていないようだった。
「……この時期に雷なんて、変なの」
サユリは、目を丸くしたまま言った。
「なんか、嫌な雰囲気。雨も降るかもしれないし、もう帰ったほうがいいかなあ」
「なに言ってんのよ。せっかく途中まで話したんだから、ちゃんと話聞かせて。雨が降ったら、ママが家まで送るよ」
好きな人がいる、という衝撃発言から、話は進展していなかった。
二人はどんなことだって話せる仲だった。とくにサユリは、身の回りに起こった出来事や、思ったことを、毎日律儀に細かく報告してくれた。
しかし、サユリの口から同級生の男子の話題が出ることは、ほとんどなかった。男に興味ない、なんてことはないと思われる。たまにアーティストや俳優といった有名人で、誰々が格好いいとか、結構好きかも、という話題は出ているし、どういうタイプの人が好きかも、おおよその見当はついていた。しかし、リアルな学校の男子の話はしない。それは、照れがあるのかもしれないし、本当に眼中にないのかもしれない。
サユリがそんな感じだから、こういったことは、エリコの方からなんとなく話せないでいた。
ところが、いざ話してみると、やっぱり興味津々のようだった。
「ええ~、でも……」
「もしかしたら、あたしもチカラになれるかもしれないし。とりあえず、誰だか教えてよ」
「うーん……」
サユリは親友だ。それは間違いない。しかし、頼りにできるかというと、難しいところだ。少し思慮の足りないところがあり、とても優しい娘なのだが、優しさが大きく空回りすることがある。
打ち明けてしまったら、その後が不安だ。だが、ずっと黙っているのも、どうかと思う。そもそも、話を切り出したは、エリコのほうなのだし。なんで切り出したりしたんだろう? やはり、このまま卒業だと思うと、どこかで焦る気持があったのか。
「チカラになってほしい、なんて思ってないし、何もしなくていいよ。ただ気持ちだけ話せたら、少し気が楽になるような気がするの。本当に聞いてくれるだけでいい」
「うん。了解、了解。まかせてよ」
「あの……ムラタくん、なんだよね」
「ひょえ~、ムラタくんかあ~」
サユリは素っ頓狂な声を上げた。驚いたことは驚いたが、全く意外でもなかった。ムラタは、クラスの中でも格好よくて、サッカー部の元キャプテンでもあり、女子の間からは、ちょっとした人気者だった。サユリは、あまり興味がなかったが。
「ムラタくん、かっこいいよねえ」
「でしょ?」
エリコは頬を赤らめながら、何故か少し得意そうだった。
「そうなると気になるのは、今、彼女いるのか、ってことよね。エリコ知ってる?」
「いやあ、知らないんだな、これが。まあ、はっきりいって、あんまり話したことないもんで、ほとんど何も知らないんだよね」
「そっかあ……。まあ、彼女のことは知らないとしても、趣味とか分かれば、いいんだけどね」
「趣味?」
「ほら、趣味とかで共通の話題が出来れば、お互いの接点が出来るじゃない。そうすれば、なんていうか、二人の距離も縮まるでしょ」
「ああ、なるほど」
普段は恋愛の話なんか全然しないサユリから、二人の距離などという言葉が出てくるのが、エリコには意外だった。
「そうだよね。接点ないから、どうしようもないし。結局、あたし、何もしないつもりだったんだけど。でも……もう最後でしょ? たぶん何もなければ、この先、もう会うこともないし……どうせなら、思い切って……ねえ、なんか……告白してみるのも、いいかなあ、と思ったの。このままだと、悔いが残りそうだし」
「そうだよ。コクっちゃいなよ。もし付き合ってる人がいなかったら、エリコ、可愛いでしょ。きっと大丈夫」
「そんなことないよぉ」
照れくさそうに、エリコは頭をかいた。
「そうかあ、ムラタくんかあ……」
サユリは、勝手にいろいろ想像し、なんだか嬉しくなってきて、一人ニヤついていた。
「やっべ。外、すごい雨だよ」
びしょ濡れになったレイが、コンビニの袋を下げ、スタジオに駆け込んだ。
モッサン、リサと三人は、学校から帰ると、それぞれ楽器を持ってレンタルスタジオに集まった。楽器のセッティングが終わり、とりあえず何か飲み物でも、ということで、レイがコンビニに行って来たところだった。
「まいったな。けっこう濡れちゃったよ」
「大丈夫? 寒くない?」
リサが心配そうに言った。
「平気平気。演奏始めれば、すぐに体が暖まるよ。しかし、夏でもないのに、まるで夕立だな」
「なんか、今日は気持ち悪い日だわ」
苦い顔で、リサが呟いた。
「他にも、なんかあったのか?」
タオルで頭を拭きながら、レイが言った。
「うん、なんか、いろいろと変なことがね。さっきなんて、誰もいないのに、何かにお尻を叩かれたの」
「なんだそれ。こえーな」
「ちょうど、校門出ようとしたときよ。いきなりお尻を叩かれた。ドスンって感じ。思わずフラついたくらい強烈だったから、間違いないんだけど、周りには誰もいなかったんだ。でも、なんかいる気配はあったのよ。そのときは、ゾッとしたわ」
「オバケのセクハラか」
レイが笑いながら言った。
「何よ。信じてないのね。ムカつく」
「いや、ごめん、言ってることは信じるよ。でも、そういう現象って、きっとあるんじゃね? 突風とか。小さい竜巻とか。変な天気なのは確かだし」
「うーん、そうかもしれないけど……でも、なんか居たような気がしたんだなあ」
「なんだかなあ。最近、皆、気持悪いぜ。モッサンは、夢がどうのとか言ってるし」
「俺のは、ただの夢だ。なんでもない」
「犬が、どうとか言ってたわね。そういえば……」
リサは、記憶を辿るように、少し目線を泳がせた。
「……モッサン、犬が嫌いだったよね。犬が嫌いな人って、珍しくない?」
「別にいいだろ。誰だって好き嫌いはあるし。いろいろ事情があるんだよ」
「事情? どんな?」
「まあ、それは……」
モッサンは黙ってしまった。
「……まあ、いいや。お喋りで時間つぶしても、スタジオ代がもったいない。とりあえず、演奏始めようぜ」
そう言って、レイはリサに合図を送った。
「じゃあ、まず、いつものやつからでいいよね。始めるよ」
リサがスタートボタンを押すと、リズムマシンは正確なリズムを繰り出した。
「あ、ごめん。待った」
モッサンが手を上げた。リサはリズムを止めた。
「どうした?」
レイが聞いた。
「ごめん。ちょっと、タイミングが合わなかった」
「なんだよ。今日のモッサン、ホント変だぜ。何か問題あるのか?」
「ああ、まあ、今更言ってもしょうがないけど、どうも相性が悪いんだ。そこのヤツとな」
モッサンは、平べったくて、ボタンやらダイヤルやらが、やたらとたくさん付いているリズムマシーンを指差した。それなりに高価なもので、操作と管理はリサが担当しているが、バイトなり親に土下座なりして皆で頑張り、なんとか手に入れたものだ。だから、悪くは言いたくなかったが、この日は特別、乗りが悪かった。
「あん? これが?」
「ああ。ギターやキーボードは、あんまり気にならないかもしれないけど、ベースってのはリズムが命だからさ。ドラムとのコンビネーションみたいなのが大事なんだ。息遣いというのかな。でも、どうしても、こいつとは気が合わない。それに、ちょっとプログラムすれば、ベースも出来るんだろう? 俺、なんの為にやってんのかなあ」
「突然、そんなこと言い出すなよ。慣れれば便利なものだし、今まで、ずっとそれでやってきたじゃんか」
「そりゃあ、練習だと思ってさ。でも、これでライブやるんだろ。路上ライブ? ゲリラライブ? どっちでもいいけど、やるからには全力で演奏したい。でも、どうもすっきりいかないんだよな。まあ、俺一人が、こんな文句言うのは、申し訳ないとは思う」
「……いや、文句は正直に言ってくれていいんだけど。でも、しょうがないな。今からドラマー探しても間に合わないよ」
「あいつ、戻ってくれないかな。どうせ、受験勉強は終わってんだろ」
モッサンは、以前に抜けたドラマーを思い浮かべた。彼とは呼吸が合い、演奏するのが楽しかった。
「あいつは諦めろ」
レイは苦い顔をした。
「バンドより、受験勉強を選んだ。いや、それは、まあしょうがない。でも、聞いた噂だと、女とは遊びまくってたらしいんだ。ホントだとしたら、あいつはバンドより女を選んだ、ってことだ」
「別にいいじゃない。女と遊びまくったって、言い方が悪いけど、ちゃんとした彼女とでしょ。受験勉強中でも、彼女との関係を疎かにしなかった、ってことなんだから。それとも、女はバンドより低い存在?」
この中で唯一の女子、リサが言った。
「違うよ。そーゆー意味じゃねえ。仲間よりも女を選んだ、っていう意味」
「だから、それはそれでいいじゃない。バンドとか仲間とか彼女とか、簡単に比べられないでしょ。女を選んだって、ようするに恋愛を大事にしたってことで、有りだと思う。受験を言い訳にしたってことだけど、彼には彼なりの判断で、別に嘘じゃなかったと思うな」
いつの間にか、リサも真剣に語っていた。今更、それほど元ドラマーのことを庇いたいわけじゃない。ただ、恋愛よりバンドを優先させるような、レイの言い方が気に入らなかった。
「……もう、いいや。あいつの話はやめよう」
レイとしては、一度去って行った彼がバンドに復帰するような事は、願い下げだった。しかし、二人が彼について大目に見るていることが、気に入らなかった。
レイは、背の高さも中学生並だが、精神的にも中学生的なところがあり、まともな恋愛経験も無かった。
「とにかく、練習するぞっ」
リズムの無い中、レイは一人でギターをかき鳴らした。突然始められても付いていけないので、モッサンとリサはボケッと見ていた。
真っ暗な闇の中、校舎は、輪郭をぼんやりとさせた佇まいを見せていた。校舎に取り付けられた時計は、十一時を少し回ったところを指していた。雨は止んでいたが、空は厚い雲に覆われたままで、月も星も姿を隠していた。
三月だというのに、空気が湿って、生暖かい風が吹いていた。
暗がりの中、三つの影が校庭を横切った。影は、他の建物から一つだけポツンと離れている、寂れた小屋に向かった。非常口の灯りも外灯も無い、真っ黒な建物だった。
そこは昔、体育倉庫として使っていたが、体育館を新築する際、体育倉庫も新しく造られた。古い体育館はすぐ壊されたのに、何故か倉庫のみ放置されたままになっていた。小さな倉庫なので、壊す手間を怠ったのだろうか。全く使われていないが、学校の間では旧体育倉庫と呼ばれている。
三つの影、ジュンコ、リンカ、アサトが、その放置された木造の旧体育倉庫の前で止まった。それぞれ、大きな手提げ袋を持っていた。
ジュンコが、自分の手提げ袋から取り出した懐中電灯で、入り口を照らした。古ぼけた錠前が掛かっていた。
「ああ、やっぱ、カギ掛かってるよ。これじゃ、中に入れないな」
アサトが言った。
「錆付いてるじゃない。大丈夫よ、これくらい」
黒いブーツを履いていたジュンコが、足を振り上げ、思い切り蹴り飛ばした。
「やば、やばくねえか」
アサトが、びくびくしながら言った。
「大丈夫よ。この倉庫にセキュリティシステムが付いてないのは確認してあるし。それに、周りを見てよ。誰もいないじゃない」
校舎は既に真っ暗で、誰も残っていないようだった。そもそも旧体育倉庫は、校舎からかなり離れた位置にあった。また、その反対側はすぐに学校の敷地外となり、小さなフェンスの向こうには空き地が広がっていた。ちょっと前まで、ここにはスーパーマーケットがあったのだが、最近潰れて、ただの更地となっていた。つまり、誰かが用があってここに来たりとか、何かのついでに、たまたま通りかかったりとかいったことは、かなり可能性の低い場所だった。
ジュンコは、暇そうにしていたリンカに懐中電灯を渡し、ガシンガシンと錠前を蹴り続けた。
やがて、ゴキっと鈍い音がして、錠前が壊れ落ちた。
「よしよし」
ジュンコがドアを押した。随分長く開けたことがないらしく、ギシギシと軋む音がした。リンカが中を照らした。
何もなく、ガランとしていた。ここにあったものは、全て新体育倉庫に移してしまったのだろう。
ジュンコは懐中電灯を持つと、ずかずかと中に入っていった。床が、はげしく軋んだ。
「おいおい、床、抜けるんじゃないのか?」
「心配し過ぎじゃない。一応、倉庫だったんだから、丈夫に造ってあるわよ。……たぶんね」
リンカとアサトの二人も、後から続いて、そろそろと中に入った。懐中電灯の光の中、大量の埃が舞っていた。だが、ずっと閉鎖されたままだったせいか、ゴミなどは散らかっていなかった。
「じゃあ、始めましょうか」
ジュンコは、手提げ袋から黒いものを取り出した。例の本だった。懐中電灯で照らしながら、ページをめくった。本に書かれている内容に従って、悪霊を呼び出す為の準備をするのだ。まずは準備だけで、儀式は卒業式前夜に行う。ジュンコの希望では、卒業式の最中に行いたかったのだが、やはりというか、悪霊を呼び出せるのは夜だけらしい。
三人はそれぞれ、近所で拾ってきたベニヤ板やダンボールを取り出し、ジュンコの指示のもと、暗がりの中のそのそと作業を始めた。まずは降霊の儀式の為に祭壇を作るのだ。
「でもさあ……」
ため息交じりに、アサトが言った。
「夜に呼び出しても、昼間の卒業式には、あんまり関係ないんじゃないの?」
「あの本を見た限り、呼び出すのは夜に限る、とは書いてあったけど、呼び出したものが夜にしか行動できない、とは書いてなかった。昼だって、きっと何かやってくれるはずよ」
「はあ……」
バタン!
突然、大きな音が響いた。ジュンコは、慌てて音がしたほうを照らした。何かいる。四つんばいで、身を伏せている動物のように見えた。
だが、よく見ると、それはリンカだった。
「リンカ? どうしたの?」
「んん……ん……」
何か唸っているようだった。
「ん? 何? 何か言ってる? 気持ちわるいの?」
ジュンコが近寄ろうとした。
「あ゛あ゛ー」
いきなり、普段のリンカからは考えられないような、太い声が漏れた。ジュンコの足が止まった。
「……ふふふふふ……ふっかつ、つ、つ……ふっかつ、ふっかつ、ふっかつ、ふっか……」
咽の奥から搾り出すような声を出し、ばたりと、その場に倒れた。
「リンカ! リンカ! 大丈夫!」
慌てて駆け寄ったジュンコは、リンカの肩を揺すった。
「あ……」
リンカは、力なく顔を上げた。
「大丈夫?」
「ご、ごめん。……大丈夫」
「どうしたの?」
「分かんない……ちょっと目まいがするな、と思ったら、そのまま目の前が真っ暗になって……まあ、もともと、ここは真っ暗なんだけど。それで、一瞬意識が遠くなったの。なんか、喋ってたような気もするんだけど……あたし、何言ってた?」
「なんにも喋ってなんかないわ。ただ、呻いてただけよ。もう大丈夫? まだ、目まいとかしない?」
「うん。大丈夫。もう平気」
そう言いながら、リンカは気持ちを落ち着けるように、大きく息を吸った。
「……やっぱ、やばいんじゃない?」
暗がりで他からは見えなかったが、アサトが青い顔で言った。
「もう止めよう、ホントに」
「そうね……今日は、もう止めましょう。続きは明日の夜で」
「続けるのかよ」
「別に、無理に付き合ってくれなくてもいいわ」
「いや、僕はともかく、リンカが心配じゃないか。何が起きたのか、よく分かんないけど、絶対、なんかやばいって」
「リンカ……どうする? 好きに決めていいよ」
ジュンコは、アサトとリンカを交互に照らした。
「ジュンコがやるって言うなら、あたしもやる」
あまり迷う様子もなく、リンカが即答した。ジュンコは、アサトの顔を照らした。上目遣いで、複雑な表情を浮かべていた。
「……いったい、何が、ジュンコをこんなにしちゃったんだ」
「え? なに?」
「なんでもない。まあ、いいさ。僕もやるよ」
「決まりね。じゃあ、今日のところは、撤収しましょう。盗む人もいないでしょうから、荷物はこのままでいいわ」
三人は小屋を出た。どうせ誰も使わないし気付かないだろう、ということで、鍵は壊れたままにした。相変わらず、月も星も無い、真っ暗な夜だった。
卒業式二日前ともなると、学校でやることはあまり無かった。それでも一応教室は開いており、毎日出席も取っていたが、出席日数が少なかった生徒に対する形式的なものであり、その他には物好きな暇人が出ているだけで、ほとんどが欠席していた。授業開始時間になると、担任が来て出席を取り、自習用のプリントを配る。いくら形式的といっても、何をやっていても自由、という訳にはいかなかった。
生徒もまばらなの朝の教室の中に、モッサンの姿があった。まだ少し時間があったので、自分の席に座って紙パックの牛乳を飲んでいた。
「モッサン、おはよう」
「ん?」
いつの間にか、リサが横に立っていた。
「よう、おはよう」
「こんな早くにいるってことは、やっぱ、出席時間が足りなかったの?」
「まあ、ちょっとだけ、遅刻が多かったんだ。でも、なんでリサが?」
「ヒマだから」
リサは、隣の空いている席に座った。
「昨日はスマン。なんか、シラけさせるようなこと言っちゃって」
「ん? あたしは、気にしてないよ。言いたいことを言い合うのは、良いことだし。それに、実を言うと、あたしは乗り気じゃないんだ、卒業ライブ。レイは張り切ってるけど、どうせ、ドン引きされるに決まってる」
「じゃあ、なんで、断らなかったんだ?」
「しょうがいなよ。オペレーターがいないと、演奏にならないしね。それに、モッサンもやるって、言ってたから」
リサは、モッサンの顔を見て笑った。
茶髪で体格のいいモッサンが、目を伏せて、小さく何かを呟いた。
「え? なんか言った?」
「べつに……もう卒業なんだな」
「そうね。何よ、急に」
「ふと……なんとなく……なあ。リサは、なんで就職に決めたんだ? 俺より成績良かったのに」
リサは、地元のスーパーに入社が決まっていた。決して悪い仕事ではないが、印象としては少し地味だった。
「いやいや、そんなに成績良くないよ。モッサンに比べたら良かったかもしれないけど……なんて言ったら、失礼か」
リサは笑った。
「……それに、早く社会に出たいってのも、あったかな。一人で生きていける、自立した大人になりたいの」
「やっぱり、そうだよな。でも、俺達、なんか急ぎ過ぎてるか?」
「そうは思わないよ。人と比べることじゃないし」
「そうか……」
モッサンはストローを、ちゅうちゅうと吸った。
「例えば、音楽でメシ食っていこうとか思わなかったか?」
「いやいや。無理無理。ダメダメ。楽器やってる人の中でも、鍵盤弾きは、英才教育とかのエリートが多いからね。あたしみたいなのは、逆立ちしたって敵わないわ」
「ちーす」
そのとき、やはり遅刻の多かったレイも、登校してきた。
「おっ、メンバーが揃ってるな」
リサとモッサンを見て言った。レイは他に何か言いたそうだったが、すぐ後らか教師が教室に入ってきた。
レイは何も言わず、自分の席についた。
正午近くになって、暇な三年生がぽつぽつと登校して来た。しかし、途中から教室に入るのも気が引けるので、皆それぞれ、下級生の授業の邪魔にならないよう、校内の隅などでブラブラしていた。
エリコとサユリの二人は、図書室の片隅に陣取り、小声で話をしていた。
「今日、まだムラタくん来てないね」
サユリが言った。楽しそうに、目を輝かせていた。ただ興味本位で目を輝かせているわけではない。本気で上手くいってほしいと思っていた。そんなサユリの真直ぐさが、エリコには嬉しくもあり、同時に鬱陶しくもあった。自分から言ってしまったものは仕方ないが、構わないでいてほしい、という気持もあった。
「そうね。今日は、来ないんじゃないかな」
エリコは、ぎこちない笑顔で言った。
「どうする? もう日がないよ。学校で会えないなら、電話してみれば? 携帯の番号知ってる?」
「知らないって」
「あ、そうか。じゃあ、家に電話すれば?」
「……」
「もし、直接電話するの抵抗あるなら、あたしから電話しようか? あたしの携帯に、クラスの連絡網から全員分登録してあるの。途中で替わってもいいし、なんなら、あたしが話を付けてもいいし……」
サユリは、傍らに置いてある鞄から、携帯電話を取り出した。今、ここで電話をする気らしい。エリコは、血の気が引いた。
「あ、いや、今は止めとこ。ね、ほら、ここ図書室だし」
「じゃあ、ちょっと外出る?」
「まあ、その、あたしも、いろいろ考えてるから、とりあえず、今はいいよ」
「そう……」
実際、ムラタのことは毎日思っていた。ただ、具体的にどうするかは考えつかなかった。最初から分かっていたことだが、ムラタは女子から人気があった。ファンを公言する人も、少なからずいた。噂になった人だって、何人かいた。リサは誤解だったようだが。自分など相手にされないような気がしていた。いっそのこと、この片思いのまま、いい思い出にしてしまうのもありかな、と弱気なことも考えていた。おそらく、サユリは反対するだろうが。
「そういえばさ、昨日は変な日だったよね」
エリコは、話題を変えようとした。
「夏みたいに、突然雷が鳴ったかと思ったら、夕立があったりして。雨が止んでからも、変に暖かかったよね。空気が重いというか、ジメっとした感じ。近所じゃ、夜中にカラスが鳴いてたりしたのよ。なんか、気持ち悪かった」
「そういえば、そうね。あたしの近所でも、一晩中、猫が唸ってたわ。なんか、気持ち悪かった」
「それは、春だからじゃない?」
「ああ、そうかもね」
「そういえば、この学校に、ちょっと怖い話系の噂あったの知ってる?」
「知ってるよ。トイレの花子さんでしょ」
「違うよ。それは中学の時の話」
「ああ、そうか。なんかあったっけ」
サユリは、首を傾げた。
「まあ、あたしも最近知ったんだ。この学校っていうか、この辺りに伝わる話。昔ここら辺りは、森の中だったらしいの。そして、そこには大きな犬がヌシとして住んでいて、人を取って食べるとか、食べないとかで、付近の村人からは、魔の犬と言われて、怖がられてたんだって」
「大きな犬? ゴールデンレトリバーかな」
「……ずっと昔の話だから、違うと思うよ。……それで、まあ、怖がって森には近付かないようにしてた。してたんだけど、だんだん開発が進んできて、村も、いつのまにか町になって、森も切り開くことになった。だけど、魔の犬が怖い。なんでも、普通の猟銃で撃たれても、死なないらしい。それどころか、撃った狩人に襲い掛かってきて、犠牲者が出たとか、出なかったとか。そこに、魔物に詳しい狩人が現れて、呪いをかけた銀の弾丸で撃ったら、消えたんだって」
「へえ。昔ばなしみたい」
「いや、昔ばなしなんだけど。で、怖いのは、その山犬はまだ死んでないらしいってこと。そいつの霊が、今でも、この学校の辺りをさまよってるんだって。見た人もいるみたい。大きくて真っ黒で、目がギラギラと光ってるらしいよ。でも、呪いで実体が封印されてるから、人を襲うことは出来ない。もし、封印が解けたら、大変なことになるんだって」
「怖いなあ。でも、大変なことって、なんだろう」
「きっと、大暴れするんじゃない。絶対、あたし達なんて、食べられちゃうよ」
「きゃあーっ、イヤだっ」
サユリは大きな声をだした。ここは図書室だった。周りの視線が集中した。
エリコは、申し訳なさそうに顔を伏せた。
「……サユリ、もうちょっと静かにしてくれないかな」
「ごめん……」
相手にするのが面倒なのか関心が無いのか、周りの人達はそれぞれ、視線を自分の本に戻した。ただ、エリコは、後ろの方から強い視線を感じた。
きっと誰か怒っているのかと思い、恐々と振り返った。
そこにはサユリが立っていた。
いや違う。昨日も見た、サユリによく似ている人だ。本棚の間に立った彼女は、少し怒っているような瞳で、エリコを見つめていた。
「あっ」
エリコは、すぐに立ち上がった。
「なに? エリコどうしたの? ちょっと静かにしないと……」
サユリの言葉が耳に入らないかのように、駆け出した。立っていた彼女は、すっと本棚の影に隠れた。
「ねえ、ちょっと待って」
エリコは、急いで本棚の影を覗いた。
「あれ……」
そこには誰もいなかった。ほんの一瞬だったのに。エリコは歩きながら、大して広くもない図書室を見回した。本棚が並んでいるので、一度に全部が見渡せないが、彼女らしき人物を見つけることは出来なかった。
「どうしたのよ?」
サユリが声をかけた。
「また現れた。そんで、消えた」
「なにが?」
「昨日も言ったけど……サユリのソックリさん」
「本当?」
ふと、何か思いついたように、サユリの表情が変わった。
「もしかしたら……いや、まさかね」
「なに? 思い当たる人知ってる?」
「ううん、知らない知らない。でも、きっと似てる人がいるのね」
「そうみたい……」
滅多にないことなので、サユリがエリコに嘘をつくと、すぐに表情で分かる。しかし、何か事情がありそうな気がしたので、この場は深く問い詰めないことにした。
ムラタは、昼過ぎに登校してきた。
いい感じにモテまくった、この三年間を思い出していた。……か、どうかは定かではないが、ぼおっとして、教室に向かう途中の階段でつまずいてしまった。
「おっと」
運動神経のいいムラタは、ぶざまに転倒するような事は無かったが、持っていた鞄を階段の下に落としてしまった。運の悪いことに、鞄が開いてしまい、今日提出予定だったレポートが散乱してしまった。
「やべえ」
慌てて駆け下りた。そこに、ちょうど教室へ向かっていたエリコとサユリが現れた。
「あら、たいへん」
様子を見たサユリは、ムラタと一緒にちらばった紙を拾った。出遅れてしまったエリコは、あたふたしながらも一歩後ろで見ていた。
「……普通、こういうとき、あたしに譲るでしょ?」
エリコは小声で呟いた。思いやりはあるが、とっさの機転はきかない人だ。
「はい」
全部拾い終えると、トントンと整えてムラタに渡した。
「どうもありがとう」
「あっ、ムラタくんじゃない」
やっと気付いたようだった。
「ちょうどよかった。ねえ、ムラタくん。ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
(え? まさか?)
エリコは嫌な予感がした。
「今、付き合ってる彼女とかいるの?」
「は?」
眩しいほどの笑顔で、サユリが言った。ムラタは、ちょっと意表をつかれぼう然としていたが、すぐに満面の笑みを返した。
「い、いやあ、いない。俺、今、一人なんだよね」
「ホントに?」
サユリは嬉しそうな顔をした。
「ち、ちょっと、いきなり、そういうこと聞くのは、よくないよ」
エリコはサユリの手を引っ張った。
「いや、俺はかまわないけど……」
「そろそろ授業が始まるよ」
ムラタの言葉を遮るように、背後から口を挟まれた。
いつの間にか、ジュンコとリンカが並んで、後ろから醒めた目で見ていた。背が高い黒ずくめの女が、二人並び立っている姿は威圧感があった。
「ああ、そうだった」
ジュンコの顔を見ると、ムラタは避けるように背を向け、急ぎ足で教室に向かった。エリコとサユリも、なんだか拍子抜けしたような気分になりつつ、後から続いて行こうとした。
「サユリ。ちょっと」
ジュンコが呼び止めた。
「ん? なあに」
「ひょっとしてあんた、ムラタに興味があるの?」
「え? いや、あたしは、そんなことないけど」
「そう。なら、いいわ。ついでに言っとくと、あの男はロクでもないヤツだよ」
「ロクでもないって、そういう言い方良くないと思うの」
「事実だから。まあ、関係ないことだけどね」
「……ねえサユリ、教室行かないと。ジュンコは行かないの?」
ここでエリコがサユリに気を遣うのも変な展開なのだが、なんとなく居心地の悪い感じになったので、早く教室に戻ろうとした。
「あたしらは、授業には出ないから。別の用で来たの」
「そうなんだ。じゃ、サユリ、行きましょ」
「うん」
サユリを促しながらも、エリコにはジュンコの言葉が気になった。しかし、込み入った事を聞けるほどの仲でもなかったし、本当に授業が始まってしまうので、教室に急ぐことにした。
ジュンコとリンカは、黙って階段を駆け上がる二人を見送った。
すると、入れ替わるように、レイが降りてきた。
「よう」
レイは、軽い調子で手を上げた。
「今から授業?」
「いや、別件。レイは?」
ジュンコが答えた。
「俺は、必要な授業は終わったから、もう帰るところ」
「そうなの」
「あれ、リンカ、どっか具合悪いのか?」
「へ?」
相変わらずボーっとしていたリンカは、いきなり話し掛けられて、きょとんとした顔をした。
「な、なに、急に」
「いや、なんとなく、顔色が悪い気がして」
「そんなことないよ。普通に元気。気のせいじゃない」
「そうか。なんか、昔の出来事が印象に残ってて。覚えてるだろ? 一年のときの遠足。リンカ、貧血で倒れちゃって、たまたま班長だった俺が、おんぶして歩いたんだよ。あんとき、リンカはもう今みたいに背が高かったし、俺は今よりもちっちゃかったから。まあ、今でも小さいけどさ。とにかく、リンカ足長いし、大変だったな」
「もう。やめてよ、その話は。あのときは、たまたま調子悪かったの。何度も謝ったじゃない」
普段無表情のリンカが、困惑した顔を見せ、きまりが悪そうに言った。
「そうだった。だけど、次に倒れたときも、また俺がおんぶしてやるよ」
「だから、やめて、ってば」
「ゴメンゴメン。じゃあ、俺、もう帰るから。ばいばい」
レイは、手を振って去っていった。残されたリンカは、顔を赤くしてぷりぷり怒っていた。
夜になった。前日から続く、この季節らしくない生暖かい風が吹いていた。
闇と静寂に包まれたなか、昨夜と同じように三つの影が、旧体育倉庫に集まった。
ジュンコが、軋みとともに重い扉を開け、中を懐中電灯で照らした。どうやら、誰も入らなかったようで、状態は昨夜のままだった。
「よかった……まあ、こんなとこ、誰も来ないとは思ってたけど」
そう呟きながら、ジュンコは黒表紙の本を取り出した。
「じゃあ、もう一回、確認するね」
ジュンコは部屋の中央に立った。
「まず、大きな円を描く。線の色は黒。その円に沿って、内側に九十九文字の呪文を、赤い血で書く。そんな大量の血なんてないから、まあ、これは赤いインクでごまかす。呪文を書き終わったら、更にその内側に黒い円を描く。出来上がった二重の円の中に、今度は白い線で、五芒星を大きく正確に描く。星マークのことね。その上に、祭壇を作る。祭壇の上には、右側に三本のロウソクとグラスに注がれたお酒、これはワンカップだけど。左側に二本のロウソクと一対の合わせ鏡、そして真ん中に、生贄を銀の皿の上にのせ、悪霊に捧げる。そして後は、祭壇の前で呪文を唱え、ひたすら念ずる。ここで問題になるのは生贄だけど、本によると、子羊か子山羊がいいらしい。でも、それはちょっと難しいよね。本物の生き物を使うのも嫌だし、ここは、あたしの持ってる犬のぬいぐるみで代用することにするわ。一応、長年連れ添ってきたから、念はこもってると思うし」
(これダメなんじゃね。血の代わりにインク、生贄の代わりにぬいぐるみなんて、適当もいいところじゃないか)
アサトは思ったが、口に出すことはなかった。ダメかもしれないのは、最初から分かっていたし、むしろダメであってほしかった。悪霊などというものが、本当に出てこられたら、たまったもんじゃない。しかし、ここまで進めてしまったのはアサトにも責任がある。だから、協力を続けているアサトだった。
「犬のぬいぐるみ……」
リンカが呟いた。
「ん? どうしたの?」
「いえ……なんでもない。ちょっと、ね、昨日の夜、夢を見たの。ずっと今まで忘れてたんだけど、急に思い出した。犬が出てきたの。すっごく大きくて、真っ黒で、嫌な感じだった」
ぽつぽつと喋るリンカの表情は、暗くて見えなかった。
「!」
突然、ジュンコが懐中電灯を消した。小屋の中は、たちまち真っ暗になった。
「ど、どうした?」
「静かに」
耳をすますと、音が聞こえた。足音らしきものが近付いていた。誰か来たのかもしれない。
三人は、息を詰めて様子を窺った。
暑いはずもないのに、アサトは背中にじっとり汗をかいていた。近付いて来るうちに、その足音が尋常ではないことが分かったのだ。ズシッ、ズシッ、と重量感のある足音で、とても人間のものとは思えなかった。かといって、他にどんな動物も思いつかない。微かではあるが、なにか、獣のような息遣いも聞こえてきた。
足音は、どうやら小屋の周りを、ゆっくりと歩いているようだ。暗闇でよく見えない中、三人は顔を見合わせた。
ズシッ、ズシッと、足音は、周囲をぐるりぐるりと回りながら、確実にその距離を縮めていた。ハッ、ハッ、ハッと獰猛そうな息遣いが、もう、すぐそこに聞こえた。三人は、固唾をのんでじっとしていたが、ジュンコが耐え切れなくなったのか、フゥと息を漏らした。
そして、意を決したように、ジュンコがそっと扉に近付いた。
「バカらしい。どうせ、野良犬でしょ」
「や、やめとけ」
扉を開けようとしたジュンコを、アサトが制した。チラッとアサトを見たようだが、構わず扉を開けた。
「ああっ」
びくびくしていたアサトが、思わず声を上げたが、ジュンコは平然として懐中電灯を照らした。
外には何もいなかった。足音も消えていた。
「……やっぱり野良犬かな。逃げ足が速いわね」
懐中電灯で、周囲あちこちを照らしながら言った。
「でも、あの足音、異常にデカくなかったか」
「小屋がぼろいから、振動が大きく感じたのかも。どっちにしろ、もう、行っちゃったわ。ま、気にしないで、続けましょう」
ジュンコは扉を閉めた。
「あれ」
室内に目を移したジュンコは、首を傾げた。無造作にとりあえずという感じで、床に置いてあった燭台のロウソクが、いつの間にか火を灯していたのだ。ついさっきまで、部屋の中は真っ暗だったはずなのに。
「誰か火、点けた?」
「あれ? 僕は知らないな」
「じゃあ、リンカ?」
「違うよ……でも、今、ジュンコがドアを開けたとき、危ない、って思って……また目まいがしそうになって、ヤバイって思って、それで、力が入って、目の奥のほうで、チカっとして」
「チカっとして、目から火が出てロウソクが点いた? そんなアホな」
「あたしも、ありえないと思うけど。でも、現実に火が……ねえ……やっぱり関係ないかな?」
「分からん……だけど、気味悪い。……なんか、嫌な雰囲気だし、現実に、また目まいがしそうになったんなら……やっぱりリンカは外れたほうがいいんじゃないか?」
アサトが言った。
「あんたに賛成するのも、なんだけど。リンカは帰ったほうがいいかも。何が起きたのかは分からないよ。でも、何かが起きた。リンカ、様子が変だし、ちょっと心配だな。今夜はとりあえず、リンカだけは……」
「やめて。大丈夫だよ。この夜中に、一人で帰らせるつもり?」
「ちゃんと送っていくわ」
「いや。お願い。仲間はずれにしないで」
リンカは、すがるような目をして言った。アサトは、こんな表情のリンカを初めて見た。
「……分かった。でも、何もしなくていいから、そこで休んでて」
「うん。そうする」
リンカは、言われた通り、部屋の隅みで膝を抱えうずくまった。ジュンコは、再びアサトに指示を出しながら、自分も作業を続けた。
「……ずっと一緒だよ。仲間はずれになんか、するもんか」
ジュンコが、床に線を引きながら、呟くように言った。
「気が付いたら、もう明日卒業式よ。なんか、早いねえ」
朝の教室で、サユリが呟いた。
「そうだね。まあ、三年間、いろいろあったような気もするけど、入学式なんて、つい昨日のことみたいだよ」
エリコも、しみじみとした調子で言った。
「エリコと同じ高校に入れて、ホントに良かった。おかげで、こんな楽しい三年間を過ごせたんだんだから」
「……イヤだなあ。やめてよお、急にそんなこと言い出すの。こっちは、サユリの相手するのに、ずいぶん苦労したんだから」
そう言ってエリコは、照れくさそうに笑った。
「いやあねえ。苦労なんて、かけてないでしょう。いつも、力になってあげたじゃん」
「そうね。サユリのおかげで助かったことも、無いこともないかな」
「そうそう。昨日だって、ムラタくんに聞いてあげたよ」
「あれは、ちょっと、どうかな」
「なんで。ムラタくんに彼女がいないことが分かって、良かったじゃない」
「いやいや、考えてみてよ。それほど親しくもないサユリに、本当のこと言うかな。言わないんじゃないかなあ」
「そうかな。なんで嘘つくことあるの」
ありえない、という顔をサユリはした。
「エリコ、ちょっと臆病になってるよ。嫌われるのを怖がってるんでしょ?」
「うっ。けっこう、鋭いとこ突いてくるね」
「でしょ。でも、そっちこそ、よく考えてみて。何もしなかったら、嫌われることはないけど、たぶん、もう会うこともないのよ。逆に嫌われたとしても、やっぱり、同じ。もう会わないだけなのよ」
「うーん。今日のサユリは厳しいこと言うなあ」
「だって、エリコがはっきりしないから」
「だったら、ホンネ言うけどね。正直、今ほど、自分って気が弱いんだなあ、と思ったことないわ。やっぱり、嫌われるのは怖い。確かに、二度と会うことがないにしても、嫌な思い出になるのは辛い」
「ちょっと待って」
サユリは、自分の鞄を探りだした。
「ほら。これ見て」
サユリが取り出したのは、手鏡だった。サユリの持っているは、少し大きめのものだった。
「何が見える?」
「……あたしの顔」
「よーく見て」
「はあ……」
「分からない? こんな可愛いコに告白されて、迷惑に思う男子がいると思う? ちょっと戸惑うことはあるかもしれないけど、迷惑だなんて思うわけない。まして、嫌いになるなんて、考えられないよ。もっと自信を持って」
「うん……」
そこまで言われて、ちょっとその気になってしまった。
「告白するなら、今日か明日しかないよ。どっちにする?」
「どちらかといえば、今日の方向で」
「じゃあ、今日の放課後。なるべく、人のいないところがいいよね。そうだなあ……体育倉庫……古いほうの。あそこなら、誰も来ないし、場所も分かり易いし、いいんじゃないかな。どう?」
「旧体育倉庫ねぇ」
「話は、あたしが付けておいてあげる。あとは、エリコが行って、気持ちを打ち明けるだけよ。大丈夫。がんばって」
サユリは、エリコの肩をぽんと叩いた。
「はあ……」
エリコは、複雑な気持で頷いた。
同じ教室の中、エリコとサユリの二人から少し離れた場所で、レイ、モッサン、リサの三人が集まっていた。
「いくらゲリラライブって言ったって、卒業式の最中はまずいだろ。俺たち、卒業証書も受け取れないのか?」
モッサンが言った。
「やっぱ、ダメ? そのほうがインパクトあると思ったんだけどな」
レイは、がっかりしたようだった。
「インパクトあり過ぎで、卒業取り消しだぜ」
「まあ、分かった。式が終わって、一旦教室に戻った後にしよう。場所はどうする? 俺は、校門前の広場がいいと思うんだけど」
「ちょっと目立ち過ぎない?」
少し焦った調子で、リサが言った。
「なに言ってんだよ。目立たなきゃ、意味ねえだろ」
「イヤよ。友達の親だって来るかもしれないのに、そんな、恥ずかしい。絶対にイヤ」
「恥ずかしいって。ひどいこと言うなよ」
「いや、リサの気持ちもわかる。でもまあ、レイの言うことも、もっともだ。誰も見てないところでひっそりと演奏しても、全然ライブにならないし」
モッサンがそう言うと、三人は考え込んだ。
「そうだっ」
レイが手を叩いた。
「校庭の隣にあったスーパー。今、何もない空き地じゃん。あそこに行こう。ちょっと校舎からは離れてるけど、何もないから、演奏はこっちまで聞こえるだろう。下校する生徒も、ぼちぼち通るしな」
「あ、それなら、いいかも」
リサはやっと明るい顔をした。
「あそこは、学校の敷地じゃないから、文句言われることないもんね」
「でも、電源は無理だな」
「そうだなあ」
モッサンの言葉で、レイはまた考え込んだ。
「なんとか、発電機は、マコトのおっさんから借りれると思うんだ。でも、機材が多くなるのが困ったな。持って歩いて登校するのは、面倒くさいし、目立ち過ぎる」
「朝からでっかい荷物持ってくのはイヤだよな。でも目立つのは好きなんだろ?」
「そういうもんじゃない。朝から目立ちまくったら、ゲリラライブのインパクトが無くなるだろ」
「ああ、そういうことか。なんなら、機材は今夜のうちに、どっか置いておく?」
「おっ、モッサン冴えてるねえ。……でも、どこがいい? 夜だろ。校内の適当な場所に、勝手に置かせてもらうわけにもいかないよな。それに、目立つところに置いてたらパクられるぜ」
「いいところがあるよ」
リサが、レイの顔を指差した。
「旧体育倉庫」
「なんだそれ?」
「レイ、知らないのか? 校庭の隅っこにある、古い小屋だよ」
呆れた顔をして、モッサンが言った。
「ああ、あれか。確かに、あそこなら誰も行かないし、目立たないな。それに、空き地も近い。うん。そこに決めよう」
レイは、大きく頷いた。
「でしょ。あんなところ、夜はもちろん、昼だって、誰も行くわけないわ」
自分の提案に満足しているリサと裏腹に、モッサンは浮かない顔をした。
「あの場所は……なんか気が進まない」
「え? なに? 今、なんて言った?」
あまりに小さい声で呟いたモッサンに対して、レイが聞き返した。
「いや、なんでもない。そうしよう」
自分から置いておくことを言い出して、場所が気に食わないと反対するのも悪いと思い、それ以上何も言わなかった。しかし、前々から感じている嫌な予感が、ますます大きくなっていた。
午前中の休憩時間、アサトは様子が気になって、旧体育倉庫にやってきた。
校庭では、下級生が体育授業の準備をしていたが、使われていない倉庫の周りには予想通り誰一人いなかった。扉の鍵は壊したままで、誰でも簡単に入ることが出来たが、心配する必要もなかった。
アサトは周囲を見渡して、こちらを見ている人がいないことを確認すると、少し扉を開けた。中には、すっかり祭壇が出来上がっていた。
まさか、こんなところが、こんなことになっているなんて、学校中の誰もが予想もしていないだろう。そう考えると、我ながら幼稚だと思うが、わくわくする気持ちが抑えられなかった。しかし同時に、出来るものなら、もうこれで止めたいという気持ちもあった。
最初、本に書かれている内容を全く信じていなかったが、実際おかしな事が続けて起こると、どうもマズいことになっている気がする。
一方、そんな危険な匂いが増してくればくるほど、ジュンコはのめり込んでいく。おそらく、最後までやりきるだろう。その後、なにが起きるか見当もつかない。
昨夜の足音のことを思い出した。なんとも、不気味な足音だった。
野良犬か、それ以外の何かか。いずれにしても、足跡のような痕跡が残っていないだろうか? そう思って、体育倉庫の周りを回ってみた。
それらしい跡は、全く見当たらなかった。
グラウンドの、固い渇いた土だ。今自分が歩いたところすら、ほとんど足跡は残っていない。
「まあ、なんにもないよな」
一人呟いて、ブラブラと歩き続けた。
一周半して、ちょうど倉庫の裏側にあたる場所を歩いていたとき、ふと目に入った。
小さな石碑のようなものが置かれていた。ほとんどめり込むぐらい倉庫の壁に密着しているうえ、膝ぐらいの高さしかないので、今まで気付かなかった。
アサトは屈んで、顔を近づけた。表面の風化具合からすると、かなり古いものらしい。
何か文字が刻まれていた。なんとか読んでみようとしたが、土埃でさっぱり文字が見えない。表面を水洗いでもすれば、もう少し読めるかもしれないが、今はその時間が無かったし、ここで目立つ行動はとりたくなかった。
とりあえず、大きな文字でくっきりと刻まれた、読み取り可能な部分だけ、手帳に書きとめた。その意味は、さっぱり分からなかったが。
アサトの手帳には「狗魑魅」と書かれた。
手帳を閉じると、念の為誰にも見られていないことを確認して、足早に体育倉庫を後にした。
昼休みの時間となった。三年生にとっては、高校最後の昼休みである。
エリコとサユリは、いつものように向き合って弁当を置いた。
エリコは思っていた。きっと、またあの話題になる。たしかにエリコにとって重要な事ではあるし、エリコから相談したことでもある。しかし、その話題ばっかりで、少しうんざりしていた。サユリにそんな気は全くないのは分かっているのだが、いい話のネタにされてる気分だ。
そもそも、彼氏いない暦イコール年齢のサユリに相談したのが正解だったのか? まあ、他に相談出来る人もいないが。
とにかく、今は違う話をしようと思った。
「本当、ビックリしたよ。サユリにそっくりな人がいるんだもん」
「う、うん……」
「心当たりあるの? 親戚とか?」
「……」
珍しく、サユリの表情が曇った。
「あんまり触れたくない話?」
「いや、そんなことない。ただ……変な話なんだけど。それ、もしかしたら……お姉ちゃんかもしれない」
「え?」
エリコは驚いた。
姉がいるなんて知らなかった。いや、いるわけがない。サユリとは長い付き合いで、数え切れないくらい家にもお邪魔している。今では、家族ぐるみの付き合いで、サユリの両親とも頻繁に話をする。そんな中で、会ったことがないのはもちろん、姉のことなんて一度も聞いたことがない。
それに、妹ならともかく、姉がこの高校にいるというのも、おかしな話だ。
「お姉ちゃん? サユリの?」
「うん。今まで話さなかったけど。ここの生徒だったのよ。卒業できないで死んじゃったけど」
「え……」
なんだか、ますます訳が分からなくなった。
「……いつのこと?」
「もう、だいぶ前。ずっと病気だったの。お姉ちゃんとは歳が離れてたから、あたしが小学生の頃。まだ、エリコと知り合う前だよ」
「ほんと……」
「あんまり学校行けなくて、家で休んでることが多かった。いつも、ベッドの上で本を読んでるか、テレビを見てるか。テレビを見てるときは、いつもニコニコしてたの」
「……」
少し考えたエリコは、サユリが何を言いたいのか全く想像つかないでもなかった。だが、どうにも信じられないことだった。しかし話が、姉の死という重い話なので、軽く突っ込むことも出来ず、なんとなく黙ってしまった。
言葉に詰まっているエリコを見て、サユリは笑って話を続けた。
「まあ、それでさ。お姉ちゃんの幽霊かなあ、なんて思ったんだけど、やっぱり、それもどうかと思うよね。真昼間に出てくるなんて幽霊らしくないし、そもそも、あたしの前には出てこないなんて。エリコだけが見てるなんて。納得いかないよ。仲良かったのになあ」
最初は、なるべく明るい口調で話していたが、だんだんとサユリの表情は陰っていった。
エリコは困った。幽霊なんて、そんなバカバカしいと、言いたいところだったが、素っ気無く否定するのも悪い気がした。
「そ、そう……なんで、お姉さんのこと、教えてくれなかったの? いや、べつに、気にしてないし、言いたくないことがあってもいいんだけど、サユリ、なんでも話してくれてたからさ。ちょっと、びっくりした」
「ううん。言いたくない、なんてことなかったけど、気が付いたら、言えないでいた。なんでかな。たぶん……悪いと思ってたのかな。すごく、仲のいい姉妹だったの。急に居なくなっちゃったから、なんか、代わりにエリコと仲良くしてるみたいで。それって、お姉ちゃんにもエリコにも、ちょっと申し訳ない気がして」
「そんなことないよ。お姉さんの代わりになれれば、あたしだって嬉しい。お姉さんがどう思うかは分からないけど。あたしに似てる?」
「うーん、もっと、しっかりした人だったかな」
「そりゃそうよね。どうせ、あたしは、しっかりしてないし」
「いやいや、違うって。比べてみたらってこと。小学生のあたしから見たら、高校生のお姉ちゃんは、もう大人だったし」
「その……お姉さんは、サユリじゃなくて、あたしに何か伝えたいのかな」
「分からないな。伝えたいんじゃなくて、見守ってるのかもしれない」
「何か心配なの?」
「さあ……」
「まあいいか。とにかく、お弁当食べよう」
二人は弁当を広げた。
弁当を早々と済ませたアサトは、一人机で手帳を眺めていた。
自分で書いた「狗魑魅」の文字があった。
「これ、なんて読むんだ?」
小声で呟いた。
「ほう。それは、”くすみ”って読むんだよ」
後ろから覗いて言ったのは、モッサンだった。
バンドをやっている高校生の中でも、チャラチャラしたのが苦手なモッサンと、存在自体が地味なアサトは、どこか気が合うのか、ちょっとだけ仲が良かった。
「え? なんでモッサン、知ってるの?」
「まあ、いろいろとな。それより、なんでアサトが、この文字知ってるんだ?」
「石碑みたいなのに書いてあったんだ。校庭の隅っこで見かけた」
具体的な場所、体育倉庫のことは黙っていた。
「そうか……やっぱりな。あんまり近付くなよ」
「やっぱりって? モッサン、なんか知ってそうだな」
「話せば長いし、あんまり話したくないことだ。……だけど、最後だから、いいか」
モッサンは、隣の椅子に腰掛けた。
「これは、他人には誰にも話した事が無い。どうせ誰も信じてくれないと思ってたんだ。今も、たぶん、アサトは信じないと思うが」
「なんだよ。もったいぶった話し方なんて、モッサンらしくない。最近、いろいろあるから、たいがいの話は信じるぞ」
「そうか。順に話すとな、まず俺自身の話じゃなくて、俺の先祖の話だ。ウチは、ずっと昔から此処に住んでいるらしい。もう、六代だか七代だか前の話だ。当然、この辺りは森ばっかりで、ほんの少しの畑と、更にほんのちょっとだけ集落があるだけだった。それでも、うちのご先祖も含めて、まあ地味ながら幸せに暮らしていた。ところが、ある日、村の人間がボロボロの状態で死んでいた。絶対に事故じゃないが、人間の仕業とも思えない。そりゃあ、惨い有様だったらしい。なんでも、半分喰われてたとか。でも、ここに熊はいない。考えられるとしたら、野犬だ。それだけの凶暴で凶悪な野犬がいるかどうか疑問ではあったけど、他には考えられない。村の中でも、力と度胸に自信のある連中が集まって山狩りを始めた。……山はねえから、山狩りとは言わないか。とにかく、森の中に、何か潜んでいないか、探したわけだ。そのグループに、俺の先祖も加わっていた。怖いもの知らずの猛者だったらしい。そいつらが、さんざん探し回って、ある夜、ついに見ちまったんだよ」
「ついに見たのか。……何を?」
「犬だ」
「犬かよ」
「普通の犬のわけないだろ。四つん這いのままで、身の丈二十尺はあったって話だ」
「尺って、どれくらい?」
「だいたい三十センチ。話半分だとしても、三メートルはあったわけだ。四つん這いのままでだぜ」
「……」
アサトは、息を呑んだ。以前だったら、そんな昔のホラ話と笑って聞き流していたが、あの夜の足音を聞いてしまった後では、全く笑えない。
「全身、黒光りする針金のような毛に覆われ、目が暗闇の中で青白く光っていたそうだ。さすがに、腕っ節に自信のある連中もぶったまげて、一目散に逃げ出したらしい。それでも、何人かの犠牲者が出たとか……こんな話、嫌か?」
あまりにアサトが神妙な顔で聞いているので、逆にモッサンが不気味になった。
「いやいや、そんなことないよ。すごく興味ある。それから、どうなった?」
「とりあえず、逃げ帰って来たものの、どうしたらいいか分からない。いつか村に襲ってくるかもしれないし。村に年寄りはいたけど、昔話とかでこういう時に役立つ、物知りの老人みたいなのはいなかったんだ。まあ、平和な村だったからな。それで、隣の村、また隣の村と相談に行って、やっと、ある村の長老から話を聞けた。長老が言うには、そいつの名前は狗魑魅。その当時より昔、やはり化け物犬が現れたそうだ。更に、その昔々から、退治しては復活を繰り返していたらしい」
「退治って、復活してるんじゃ、ダメじゃん」
「まあ、はっきり言っちまうと、相手は化け物か妖怪だからな。息の根を止めるのは無理だと思う。だけど、とりあえず一旦は退治できるらしい」
「どうやって?」
アサトは、なによりも退治方法に興味があった。
「大昔から伝わる方法だと、ちょっと面倒なんだな。伝説によると、狗魑魅の苦手なものが、この世に二つあるらしい。まず、火。炎。これは、いかにも獣らしい。そしてもう一つは、何故か榊の枝。これも苦手らしい。で、使い方なんだが、ちょっとやっかいだ。全身剛毛で覆われている狗魑魅も、首の後ろだけは弱いらしい。飛びついて、そこに油を塗った榊の枝を突き刺し、火を点けると、全身に炎が回り、どうにか退治することが出来るんだ」
「そんな恐ろしいこと、誰が出来る? ってか、なんでモッサンそんな詳しいの?」
「その恐ろしいことを成し遂げたのが、俺のご先祖様だからさ」
「へぇ~。そりゃ、すごいな」
「村の英雄だな。もっとも、それ以来今日まで、狗魑魅は現れていないようだが。そんな事を言い伝えてる家なんて、すっかり少なくなったけど、もし奴が復活したら、退治するのは、ウチの家系の誰かってことになってるらしい。死んじまった俺のひいじいさんは、結構マジで言ってた」
「運命の血筋みたいなものか。そりゃ、キツイなあ」
「ああ。まあ、オヤジの世代あたりになると、もう、ほとんどそんな話信じちゃいないがな。それでも、どっか頭の片隅に心構えみたいなものは持っていた。そして、オヤジも歳を取ったから、やるんなら俺だなと、なんとなく思ってた。そんな時だよ。犬の夢を見るようになった。巨大な犬だ。それが狗魑魅なのかは分からなかった。なにしろ、見た事ないからな。でも、たぶんそうだろう、という確信はあった。聞いた話だと、退治した場所ってのが、今の春森高校辺りだっていうんだ。そして今まさに、アサトも何やら意味ありげな石碑を見つけちまった。いよいよ嫌な予感がしてくる。これから卒業して就職って大事な時期に、出来るもんなら関わりあいたくねえがな」
「じゃあ、もし、その狗魑魅が現れたら、どうするよ? 逃げるか?」
「逃げたいところだが、分からんな。出てこないことをマジで祈ってる。だけど、俺にとって、いずれ戦わなきゃいけない、宿命の敵なのかもしれない。」
アサトは絶望的な気持ちになってきた。よりによって、そんな場所で悪霊を呼ぶ儀式を行うなんて、なんて恐ろしことだろう。
「まあ、アサトは、今日はさっさと帰るんだな。卒業式以外は、なるべく学校に近付かないほうがいい」
「あ、ああ……分かった」
全てを打ち明けて、モッサンに助けを求めようかとも思ったが、そんな無謀で馬鹿げたな事に関わってる自分が恥ずかしくもあり、何も言えなかった。
とりあえず、すぐに榊の枝でも探すとしよう。
最後の昼休みということで、ジュンコとリンカは、珍しく屋上でのんびりと弁当を食べていた。ジュンコの弁当は売店で買ってきたもので、リンカは自分で作ってきたものだった。
屋上は風通しが良かった。
「ちょっと、まだ風が冷たい」
薄手の上着しか着てないジュンコは、腕をさすった。
「大丈夫?」
「正直、寒いね」
「風邪ひくよ」
「いや、平気。あたしね、不健康そうに見えて、意外と頑丈なんだ。病気だって言って休んだことは何回かあるけど、本当に病気だったのは一回も無かったでしょ。それより、リンカは大丈夫? 最近、ヘンよ」
「ヘンなことばっかりやってるのは、皆も一緒じゃない」
「そりゃそうだけど。それにしても……」
「まあ……」
リンカは箸を置いて、遠くを見つめた。
「どうした?」
ジュンコも、つられて箸を置いた。
「確かに自分でも、なんか違うと感じてた。それで、昨日の夜、おかあさんに聞いてみたの。なんて聞いたらいいかよく分からなかったけど、何か、あたしの体に変わったところがあるのか。そんな変な事聞かれても、当然訳分からずで、なかなか話が噛み合わなかったけど、いろいろ聞いているうちに二つ分かったわ。一つは、生まれつきお化け、幽霊らしいものが見えていたこと。これは、まあ自分では当たり前のことだったんだけど……」
「え? なに? なんだって?」
ジュンコは、膝の上に置いてあった弁当を落としそうになった。
「霊は見えるよ」
「いつ?」
「しょっちゅう」
「うそお」
「本当」
「そんなこと、一回も聞いたことない」
「ジュンコだけじゃなくて、誰にも言ってないよ。どうせ、気持ち悪いと思われるだけだし」
「あたしが、そんな事思うわけないでしょ」
「うん。ジュンコはね。でも、見えているものを見えてない人に上手く伝えるのは難しいし、見せてあげる方法があるわけじゃなし。やっぱり言ってもしょうがないか、と思っちゃうもんなのよ」
「そうなのかあ。でも、寂しいな。幽霊が見える見えないってのは特殊なケースかもしれないけど、結局、隠し事されてたと思うと、なんだかね」
「ごめん。でも、今話したんだから、そう責めないで」
「責めちゃ無いけどさ。まあ、考えてみれば、隠し事なんて誰にでもあるか……。それで、もう一つの分かった事って?」
「これもまた変な話なんだけど、ちっちゃかった頃、あたしの周りで、不思議な出火が何度もあったらしい。大きな火事にはならなかったけど、どう考えても、火の出ないような場所で、出火したんだって。後から考えると、いつも、あたしの見てる先だったみたい。小学校に上がった頃から、そういうのは無くなったって。あたしは、なんにも覚えてないんだけど」
「火かあ……」
「気になって、昨日の夜中に色々ネットで調べてみた。そしたら、超能力の一種で、道具を使わず、手も触れないで、火を点けるっていうのがあるらしい」
「超能力って、あれか、スプーンを曲げたりするやつ? 話で聞いただけで、見たことはないけど」
「そう。そんなような力。その力を、あたしが持っているのかも。突拍子もない話だけど」
「じゃあ、今、やってみれる?」
リンカは首を振った。
「ダメなの。やろうと思っても出来ない。何かのきっかけで出来そうな気はするんだけど、今は無理」
「そうかあ。なら、しょうがない」
ジュンコはちょっと残念そうな顔をしたが、気を取り直したように再び弁当をパクついた。そんなジュンコをリンカはしばらく見つめていたが、やがて自分も弁当に箸を伸ばした。
日が沈み、卒業式前の夜となった。高校生活最後の夜である。
やり残した事がないだろうか。何か忘れてはいないだろうか。誰もが漠然とした不安を抱えていた。そして一部の者達は、その不安を振り払うかのように動き出した。
レイは楽器と発電機等屋外演奏に必要な機材を積みこみ、マコトのおじさんが運転するバンに乗っていた。
リサの家の前に近付くと、本人がキーボードを前に置いて待っていた。
「お待たせ~」
すぐ横に停めると、レイが飛ぶように降りてきた。
「まったく、女の子がこんな時間にコソコソ出かけるなんて、どうかしてるわ。それを気にしない、ウチの家族もどうかしてるけど」
レイがキーボードを荷台に載せ、リサは後部座席に乗った。
「あ、すいません、こんばんは」
リサは運転席のマコトのおじさんに挨拶した。そこそこの年齢らしいのだが、髪を茶色にして無精ひげを生やし、夜なのにサングラスをしていた。
「やあ、どうも。リサちゃん、最近、キレイになったねえ」
「いやいや、とんでもないです」
手を振りながら、レイの方を見て苦笑いをした。会う度に言われているのだ。もう聞き飽きてしまった。
車はすぐに発進したが、中にモッサンがいない。
「どうしたの?」
「さっき電話があって、バイトが押してるらしい。後から来るってさ」
「後から? あたし達、荷物置いてくるだけだよね。別にパーティーするわけじゃないんだから、後から来るって言われても困るわ」
「……それもそうだな。まあ、行ってみて誰も居なかったら、モッサンもベースだけ置いて、さっさと帰るだろ」
「なんか、それも悪いけど、まあ、しょうがないか」
リサは腕時計をチラリと見た。八時を少し回ったところだ。遅くとも九時には帰りたいが、おそらく、もっと早く帰れるだろうと思っていた。
「それとも、パーティーやるか?」
「冗談じゃない」
やがて春森高校が見えてきた。
「校庭の裏のほうに回ってください」
助手席のレイが、指でグルっと回るような仕草をして言った。
「あいよ」
マコトのおじさんは、気さくに答えてハンドルを回した。
「あれ? ちょっと見て」
リサが指差した先には目的の体育倉庫があったのだが、中が明るいようなのだ。ほんの微かな光だが、周囲が真っ暗なので分かった。
「やばいなあ、誰かいるぞ。すいません、ちょっと停めてください」
「あいよ」
車は、すぐ近くまで来ていた。
「どうしよう?」
暗闇の中の倉庫を見つめながら、リサが言った。
「……ちょっと降りて様子を見てみよう。マコトさん、すいません。ちょっと予定が狂いました。ここで待っててもらえますか」
「ええ? こんなとこで待つのか?」
「うーん、やっぱ、嫌ですよね。じゃあ、すいませんけど機材積んだまま、一旦戻っててくれませんか。手間かけて申し訳ないです。後で連絡しますから」
「ああ、いいよ。ウチ帰ってテレビでも見てるさ。どうするか決まったら電話くれ」
「お願いします」
言い終わるとすぐに、レイは車を降りた。リサも後に続いた。マコト叔父さんは、軽く手を振ると、車を発進させて行った。
残された二人の周りは、闇と静寂があるのみだった。そんな中、小屋から漏れる小さな明かりを頼りに、恐々と歩み寄った。
すぐ近くまで来ると、中から小さな声が聞こえた。
「ん? この声は……」
レイは聞き耳を立てた。
「ジュンコじゃないか?」
「そうみたい」
同じように耳をすませていたリサが頷いた。中にいる人間がクラスメートだと分かったので、少しは安心した。ゆっくりと扉に近付くと、そっと開けてみた。
そこには、異様な光景があった。
倉庫の中央に黒い布で覆われた台が置いてあり、数本のロウソクが立っていた。部屋の中の灯りは、このロウソクによるものだった。台の上には他にも、本物かどうか分からない怪しげな植物、グラスに注がれた不気味な液体、ほぼ中央には、場違いな気がする可愛らしい犬のぬいぐるみが鎮座していた。
全ての窓に黒い模造紙が貼られ、外からの月明かりが、出来るだけ入らないようにしていた。床には、台を中心としたいくつかの円が描かれ、意味の分からない文字のような模様のようなものがびっしりと円に沿って並んでいた。
そして不気味な姿の、三人の影。
懐中電灯で、何かの本を照らしているのは、ジュンコ。その横に立っているのがリンカ。少し離れた所に立っているのが、アサトだった。
「誰?」
突然ジュンコが振り向いて、懐中電灯を向けた。レイとリサを照らした。ジュンコは、小さく舌打ちした。
「ちょ、眩しい。おまえら、ここで何やってんの?」
面食らった表情でレイが聞いた。
ジュンコとリンカは黙っていた。
「まあ……いろいろとね」
そう言って、アサトは照れくさそうに頭をかいた。
「あんた達こそ、なにしに来たのよ」
ジュンコは不機嫌そうに言った。
「いや、俺達は、その……」
「バ、バンドの練習に来たのよ。後からモッサンも来るし」
夜にレイと二人きりなんて、おかしな誤解でもされたらたまらんと思ったリサは、とりあえず適当な理由を付けて、ついでに後からモッサンも来る事を強調しておきたかった。バンド関係なのは事実だが、手ぶらで来て練習というのも変な話だったが。
「まあ、でも、これじゃ練習にならないわね。ジュンコ、ここで何が始まってるの?」
「見ての通りよ」
「いやいやいや、見て分からないから聞いてるんだけど」
「どうってことないわ。これから悪霊を呼ぶの」
「はあ?」
リサとレイは声を揃えて驚いた。
「マジかよ。冗談だろ?」
「いや、これが、どうも、本気なんだよね」
アサトが、困ったような調子で言った。確かにジュンコは、時々悪ふざけはするが、凝った冗談をするような人間ではない。
「リンカも、やっぱ呼ぶわけ?」
「まあ。なんか、面白そうじゃない」
「面白いか」
「やだ。怖いわ」
リサは身震いした。
「……まあ、いいわ。儀式を続ける。見ててもいいけど、邪魔しないでね」
ジュンコは、再び光を本に戻して、何か唱えようとした。
「あれ、どうしたの、みんな?」
開いたままの扉から、誰かが顔を出したの。
ムラタだった。ジュンコは口を閉じた。
「おいおい、なんか、すごいことになってるな」
部屋の中を一瞥して言った。
「うん、なんかね、儀式が始まるみたいだぜ」
ジュンコが何も言わないので、代わりにレイが言った。ムラタは、改めて倉庫内を見渡した。全くそっち方面の事は詳しくないが、これが呪術的な何かであることは理解できた。
「なんだよ、儀式って。呪いか、なんか?」
「そう。おまえを呪い殺すらしい」
レイが言った。特に考えもなく冗談を言っただけだが、ムラタは真顔になった。
「こ、殺すって、ジ、ジュンコ、マジなのか?」
「嘘にきまってるでしょ。あんたなんか興味ないから。そんな無駄なことしないわよ」
「そうか。良かったあ」
ムラタは、心底ホッとした様子だった。
「それにしても、どうして、ムラタがここにいるの?」
「うん? まあ、ちょっと、呼び出されちゃってね~」
ムラタは、困ったような顔をしつつ、どこか得意げな調子だった。ジュンコにはピンときた。
「ひょっとして、サユリじゃない?」
「え? どうして知ってるんだ」
「やっぱりそうなのね。やめとけって言ったのに」
「おいおい、そりゃないだろ……」
「ちょ、ちょっと、待って!」
いきなり、また誰かが倉庫に飛び込んできた。ムラタ、ジュンコ、リンカ、アサト、リサ、レイは一斉に注目した。
エリコが立っていた。
実は、少し前に到着していたのだ。しかし、ムラタ以外に人がいるのは予想外だったので、入って行くものかどうか躊躇して、じっと様子を窺っていた。ところが、なんだかおかしな話になってきたので、堪らず中に飛び込んだのだ。
「あの、ちょっと、確認したいんですけど。ムラタくんが、ここに来た理由は、なんでしょうか?」
「えっと、その、サユリに呼ばれたから」
「サユリは、呼び出す理由を言ってましたか?」
「いや、言ってなかった。でも、まあ、なんとかく、そういうことかな、と」
少し嬉しそうに話すムラタを見て、エリコは絶望的な気分になった。
サユリに全て任せてしまったのは、やはり大失敗だった。最近、妙にしっかりしてきたと思ったが、人間そう急に変わるものではない。
目的をきちんと説明していない上に、本人にそのつもりはないだろうが、態度が思わせぶりなものだから、ムラタは完全に勘違いしてしまった。しかも、まずいことに、ムラタはけっこう乗り気のようだ。
ひょっこり現れたエリコが突然告白するのは、どうも間抜けな感じだ。それに、関係無い人も見てる。しかし、このままムラタを勘違いさせておくのはよくない。もう泣きたい気分だ。
「あの……サユリは、たぶん、そういうつもりは……無いと思います」
「え? どういうこと?」
ムラタは困惑した顔で聞いた。どう説明しようか、エリコが口をパクパクさせていると、また誰かが小屋に入って来た。
「気になったから来ちゃった。どうだった?」
サユリの明るい声が響いた。
「もう、コクった?」
全く周りの空気を読めないサユリが言い放った。
「え?」
アサトが驚きの声を上げた。
「なに? なにがどうなってる?」
レイは全く状況が分からなかった。
「やっぱりね」
リサは、したり顔で頷いた。
「え? それって……まさか……」
ムラタは、困惑した表情で、サユリとエリコの顔を交互に見た。
「……もう、いや」
エリコは、顔を赤くしたまま、固まった。
「ふん。バカバカしい。どうでもいいけど、一つだけ教えてあげる。参考の為にね」
ジュンコがエリコの顔を見て言った。
「参考って?」
「あたしね、ムラタと付き合ってたの」
「ほんとにっ?」
エリコは驚いた。
驚いたのはエリコだけではなかった。親友のリンカや、いつもくっ付いているアサトにも初耳だった。あっけにとられる周囲に対し、ジュンコ本人は平然としていた。
「一年以上前のことだけどね。あたしも考えが足りなかったから、外見の良さに騙されたわ。でも、付き合ってみると、最悪」
「てめえ、いい加減なこと言ってんじゃねえよ」
ムラタはジュンコに詰め寄ろうとした。普段見せないような怖い顔をしていた。
「まあまあ。落ち着けよ」
レイが、そんなムラタを制しながら言った。
「そうやって、すぐキレる。やさしくしてもらった記憶は全然無いけど、怒鳴られた記憶はイヤってほどあるわ」
「それは、てめえが、俺を怒らせるようなことばっかり言うからだろ」
「浮気を責めるとか?」
「そんなのしてねえよ。勝手なこと言ってんじゃねえよ」
「証拠はあるんだけど」
「ぜってー嘘だね。適当なこと、ほざきやがって。……だいたい、こっちはこっちで、言い寄ってくる女がいるのはしょうがねえだろ」
「あれれ。開き直っちゃったよ」
レイが呟いた。
「まあ、どうでもいいわ。エリコが誰と付き合って、どんな目に合っても、知ったこっちゃないし。とにかく、もう邪魔しないでよ」
ジュンコは再び本を広げた。
呪文を唱えようと口を開けたとき、部屋が真っ暗になった。ロウソクの炎が消えたのだ。風もないのに。
「ちょっと、やめてよ」
ジュンコは、誰かが悪戯したのかと思った。
「いや……僕はずっと見てたんだけど、だれもロウソクに近付いてない」
暗闇で顔が分からないが、声はアサトのものだった。
「あれ? おかしいな。懐中電灯もダメだ」
真っ暗な中、スイッチをカチャカチャ鳴らす音だけが空しく響いた。
「とにかく火を」
ジュンコは手探りで火を点けようとして、動きが止まった。
「なんだ? どうした?」
ムラタが、先程までとは違う、怯えたような声で言った。
「なんかいる……」
「そりゃ、八人もいるよ」
レイが言った。
「いや……。ちょっと黙ってて」
皆黙り込んだ。誰かの呼吸が聞こえた。
「……おい、ずいぶん鼻息荒いな」
「静かにしてよ。鼻息じゃないわ」
重く低い呼吸音は、人間のものとは思えなかった。しかも、少しづつ大きくなっている。
「なんだ? 何がいるんだ?」
レイが緊張した声で言った。
「い、犬みたいよ。野良犬?」
リサが震える声で言った。確かに犬のようにも聞こえる。だが、もっと獰猛で邪悪な存在を感じた。
「……昼間、モッサンが言ってた」
アサトの声も震えていた。
「この場所に大昔からいる、悪魔のような犬の化け物で、何十年に一度現れて、人を襲っている、らしい……」
アサトは言葉を切った。
暗闇の中でも、だんだんと目が慣れてきた。そして、部屋の中央に何か大きな物体があるのが分かった。先程までは無かったはずの物体。それは、聞こえてくる呼吸の音に合わせて、小刻みに揺れていた。
「まさか。嘘だろ!」
ムラタが叫ぶように言った。
「……じゃあ、ここにいて、眼を光らせてるのは、いったい何だっていうの?」
ジュンコが低い声で言った。
「ジュンコ! おまえか! おまえが、儀式とかで、こいつを呼び出したのか!」
「そうかもしれない……」
「なんだって、こんな……。冗談じゃない! ちゃんとおまえが責任とれよな!」
震えた声で喚き叫ぶと、ムラタは大慌てで倉庫を出て行った。
「おい、ムラタ、ちょっと待てよ」
すぐ後を、レイが追いかけて行こうとした。
「あれっ。あいつ、外から鍵かけやがった」
押しても引いても、扉は開かなかった。
「ふん。相変わらず、気の小さい男」
ジュンコがはき捨てるように言った。
「いや、今、そんなこと言ってる場合じゃないと思うのよ」
リサが言った。
「そうだ。とりあえず、窓から出よう。一旦、皆、外に出るんだ」
そう言ってレイが窓際に近付こうとしたとき、黒い物体がすっと立ち上がった。
「うわっ」
レイが驚いて後ずさりしてしまっとところに、黒い物体は足を踏み出した。ずしんとした音が響き、振動が倉庫を揺らした。そして、足音を轟かせながら悠々と移動して、窓の前に佇んだ。
「ちきしょう、こっちの動きを見てやがる。この小屋から出さないつもりだ」
レイは再び扉を叩いてみたり、壁を蹴っ飛ばしたりしてみたが、どうにもならない。黒い奴の眼は暗闇の中で、爛々と輝いていた。人間側は動くことも出来ず、相手もじっとしていた。
「……どうして……」
エリコが、やっと聞き取れる程の小さい声で言った。
「どうしてって。きっと、あいつは俺達を狙ってるんだろ」
「いや、レイ。そうかもしれないけど、あたしが言ったのは……どうして、襲ってこないの?」
「そういや、そうだな」
最初から、溢れ出る巨大な殺気に気後ればかりしていたが、黒い奴は睨んでいるばかりで、こちらに近付こうともしない。
「これは、僕の予想だけど……」
「ん? なんだ? アサト、言ってみろ」
「まだ、復活したばかりで、体が十分出来上がってないんじゃないかな」
「本当か?」
「いや、だから予想だってば」
「今なら、勝てるか?」
「予想だって、何回も言わせるなよ。責任はもてないさ」
「でも、このまま、黙って襲われるのを待つんなら……」
「それなら、こっちから……」
真っ先に動いたのはサユリだった。普段のおっとりとしたサユリからは信じられなかったが、物事を深く考えない人間の行動力はあなどれない。
暗がりの中、ちょうど目に付いた燭台を握り締めると、黒い奴に向かって飛び掛かった。
頭の中を貫くような咆哮が響き、そいつは立ち上がった。そして、前足のようなものを一瞬繰り出したかのが見えたかと思うと、次の瞬間には、もう前のようにうずくまっていた。そして、サユリの体が宙に舞った。
「サユリ!」
エリコが叫んだのと同時に、サユリの体が壁に叩きつけられた。そのままずるずると床に倒れ、動かなくなった。
立ちすくむエリコを横目に、リサが駆け寄った。
「……死んじゃった?」
エリコが涙声で言った。
「バカなこと言わないで。息はしてるわ。……気絶してるみたい。暗くてよく分からないけど、ケガしてるのかも。病院に連れて行かないと……」
「ちきしょう」
レイは黒い奴を睨んだ。そいつの眼は、怪しい光を増していた。
「……見ろ。あいつ、じっとしてる。多分、まだ、今の動きが精一杯なんだろう」
「レイ、どうする気だ?」
「決まってるだろ。やってやるさ」
「待てよ。君がやられちゃったら、男は僕だけになっちゃうよ」
「なに、情けないこと言ってるの」
ジュンコは、そう言うと祭壇から、もう一本の燭台と生贄を乗せていた皿を手に取った。
「これでも武器になるかも」
ジュンコは、レイに皿を渡した。
「皿かよ」
そう言いながらも、レイは皿を固く掴み、二、三回振り回してみた。
「二人で同時に行きましょう」
ジュンコは燭台を握り締めた。レイは黙って頷いた。
黒い奴は、眼は光らせて、こちらを伺っている。激しい息遣いと、獣の臭いが部屋を満たした。
「やめろよ。こっちの動きは、向こうにバレバレだ」
アサトは二人を止めようとした。
「そんなの当たり前じゃない。こんな近くにいるんだから。でも、やらなきゃ、しょうがない。レイ、いっせいのせ、で行くよ」
「ああ」
「いっせいの~」
「おりゃあぁぁっ!」
ジュンコが最後まで言わないうちに、レイは皿を振りかざして、飛び上がった。
「ちょっと、早っ」
慌ててジュンコも、燭台で突くように突進した。
再び叫び声のような鳴声のような爆音が響いて、そいつが一瞬身をよじったように見えた。気付いたときには、二人の体は、それぞれ反対方向の壁に叩きつけられていた。
「痛ぇ~」
背中を押さえながらも、レイはすぐに立ち上がった。しかし、ジュンコは倒れたままだった。
「おい、ジュンコ、大丈夫かっ」
「……ええ、生きてるわ。でも、足がちょっと……」
見ると、ジュンコの右足が変な方向に曲がってる。ジュンコは足首を掴むと、力ずくで元の方向に戻した。
「ぐはっ」
痛みのせいで、顔が歪んだ。おそらく、骨が折れている。
「このヤロウ、やってくれたな」
アサトは、恐怖と怒りで体が震えた。
「くそっ、どうしようもないのか」
そのとき、コートのポケットの中を思い出した。昼間、モッサンから奴のことを聞き、不安に思った。だからここに来る前、近所の神社に寄り、悪い事が起きないよう神様に祈ってきた。その時ついでに、榊の枝を一本くすねてきたのだ。
確か、モッサンは言っていた。
伝説によると、狗魑魅の苦手なものがこの世に二つある。一つは火。もう一つは榊の枝。全身剛毛で覆われている狗魑魅も、首の後ろだけは弱いらしい。飛びついて、そこに榊の枝を突き刺して、火を点けると全身に炎が回り、どうにか退治することが出来る。
どうにかするしかない。
作戦はすぐに考えた。しかし、簡単なことではない。相手に気付かれたら終わりだ。言葉を理解できるのか分からないが、会話は聞き取られるかもしれない。そう思い、携帯電話を取り出した。そして、急いでメールを打った。宛先はレイだ。
レイは、アサトの動きを見て、すぐに察してくれた。目立たないようにそっと携帯電話をポケットから出し、音が鳴る前にすぐメールを開き、その本文を読んだ。
『次はぼくがいく 注意をひいてくれ』
大丈夫かよ。
レイはアサトを見ないようにしたが、心配だった。いつも弱々しいアサトに出来るのか。アサトも、やはり気配を察せられるのを警戒して、目を合わせようともしない。
黙って、指示に従うしかないか。
ちょうど目の前に、犬のぬいぐるみが転がっていた。とりあえず手には取ったが、さて、どうしたものか。考えている時間はない。結局、やぶれかぶれの行動に出た。
「わんわん」
ぬいぐるみを黒い奴に向けて、吠える真似をした。
「わんわん」
「……」
ジュンコは冷や汗が出てきた。足の痛みのせいだけではない。レイの行動を見て、どっと血の気が引いたのだ。
きっと、打ち所が悪かったんだ。
「わんわん」
黒い奴は体を少し起こして、レイのほうを見つめた。最初より体が大きくなっている。完全な復活が完了しつつあるのだ。早くしないと。ジュンコは焦った。
アサトも、もちろん焦っていた。レイが注意を引いているうちに、この榊をあいつの首に刺さないといけない。でも、首なんて無理じゃないか? 絶対殺されるだろ? 足がすくんで、一歩も踏み出せない。
ジュンコは燭台を強く握り締めた。この化物は、自分が招いたのだ。これ以上、こいつらに何かやってくれる前に、自分でなんとかしないと。足は、一本折れているかもしれないが、一本は残ってる。
ジュンコの気迫がアサトにも伝わった。また行く気だ。もう既にケガを負っているのに。その上、奴は確実にパワーアップしている。次にやられたら、ヤバイことになってしまうかも。ジュンコを救えるのは自分だけだ。
奴は、まだレイの方を見ている。もう、今しかない。
「行くぞぉおおおっ!」
大声を出し気合を入れ、飛び掛った……つもりだったが、緊張のあまり口をパクパクさせるだけで、全く声が出なかった。しかしそれが良かったのか、アサトのことに直前まで気付かなかった。
だいぶ眼が慣れてきたが、それでも暗くてはっきりと見えない中、背中と思われる箇所に飛び乗った。ぞっとするほど冷たくて、体を覆う剛毛はぬらぬらと湿っていた。
「グゥオォオオオオオオオオン!」
叫び声を上げて立ち上がった。アサトはヌメヌメとして滑る剛毛を掴んだ。
「ウオォオオンッ! ウオォオオンッ!」
怒り狂ったように叫びにながら、暴れだした。祭壇はなぎ倒され、狭い小屋の中をジュンコやレイ達は逃げ回った。
アサトはしがみ付く事に必死で、恐ろしいと感じる余裕すらなかった。ただ、固く榊の枝を握り締めた。
「首のうしろ。首のうしろ」
モッサンが言ったことを思い出して、呪文のように繰り返した。しかし、薄暗い中、全身毛むくじゃらで、どこが正確に首のうしろなのか良く分からない。絶え間なく暴れ続けるので、なおさら狙いを定めにくい。そのうちに、目も回ってきた。
どうにか首らしき場所の見当をつけ、手を伸ばそうとしたとき、ひときわ激しく飛び上がった。たまらず、両腕でしがみ付き、顔が剛毛に密着した。悪臭が鼻を突き刺し、ネバネバした毛の一部が口の中に入ってきた。胃の中から熱いものがこみ上げてきたが、そんなことを気にしてはいられない。
こいつは、間違いなく嫌がっている。やっぱり、弱点なんだ。そう信じて、再び手を伸ばした。
「グァフッ! グァフッ!」
奴は嫌がり、体を大きく揺すって振り落とそうとした。だが、今度はアサトの手のほうが早かった。
「死んでくれぇっ!」
アサトは、枝を突き刺した。ぶすり、と確かな手応えがあった。
「グゥオォオオオオオオオオオォオオオオオオオオン!」
苦しそうな叫び声を上げると、またもや大きく飛び上がった。突き刺すことに精一杯だったアサトは、しがみ付くことも出来ず、空中に飛ばされた。天井に背中をぶつけると、そのまま落下した。
「いててって」
体中が砕けてしまったかのように、あちこちに激痛が走った。しかし、見たところ、大きな怪我はしていないようだった。
「ウオォオオンッ! ウオォオオンッ! グァフッ! グァフッ! グゥオォオオオオオオオオン!」
狂ったように、奴は暴れまわっていた。皆、狭い小屋の中で逃げ回り、アサトも踏み潰されないよう、必死に床を這っていた。
「火だ! あいつに火を点けるんだ!」
アサトは叫んだ。慌てて、ジュンコはポケットを探った。ロウソクに火を点ける時に使ったライターがあるはずだ。
しかし、どのポケットを探しても見付からない。どこかに置いたようだが、薄暗い中、奴が暴れまわって、どこに何があるのか分からない。
「ちくしょう」
ジュンコは、負傷した足をかばいながら、床を這いつくばり、ほとんど手探りでライターを探した。しかし、小さなライターは全く見付からない。
「火だよ。火だな。ちぇ、火があれば、いいんだな」
苛立ちまぎれに、ジュンコはブツブツと呟いた。
「ジュンコ。もう、いいよ。あたしに任せて」
「え?」
見上げると、リンカが、奴を見つめて立っていた。
「任せるって、まさか……」
ジュンコは、リンカが昼間話していたことを思い出した。何をやろうとしているか分かった。しかし、うまくいく話とは思えなかった。
「リンカ、やめとけ。引っ込んでろ」
「ジュンコこそ、引っ込んでなよ。大丈夫。たぶん……」
気持ちを落ち着かせ、頭の中で炎をイメージした。そして、自分に言い聞かせた。
「あたしには出来る。あたしには出来る……」
リンカは念じた。必死に念じた。
しかし、何も起きない。
どうにもならない。イメージとしては出来そうな気がするのだが、どこにどう力を入れればいいのか、見当がつかない。
「火点け、火点け、火点け、火点け」
呟きながら睨みつけたが、全くそれらしい兆候は見られない。超能力者っぽく、手をふわふわと突き出してみたが、やはり何も変化はない。
どうにも、自分のやっていることがバカバカしくなってきて、ふと力が抜けてしまった。
そのとき、突然頭の中に、明確なビジョンが浮かんできた。全く分からないと思っていた数学の問題が、突然解けたような感覚だった。
「なんだ、そういうことか」
はっきりと力を認識したリンカは、再び奴に向き直った。奴は相変わらず、暴れ狂っている。
「リンカ……出来る?」
「ええ。マッチで火を起こすより簡単よ」
リンカは、ふっと指先に力を入れた。瞬間、そこにいた誰もが、陽炎のように視界がゆらいだのを感じた。
その直後、全員の目の前が真っ赤になった。
ガソリンに引火したかのごとく、凄まじい勢いで、奴が炎に包まれたのだ。
「すげえ……」
レイは立ち上がり、燃えながら苦しむ奴を見つめた。
リンカ当人も、予想以上の反応にびっくりした。あまりにびっくりしたので、頭の中が真っ白になってしまい、はっきりと理解したはずのものを忘れてしまった。
「これで、こいつは終わりか?」
レイはアサトに聞いた。アサトだって何も知らないが、それでもこの中では、一番こいつのことを知ってる、ということになる。
「……ああ、たぶん。もう大丈夫だ」
相変わらず奴は、大声で喚いていたが、炎に包まれた体は、ほとんど動くことも出来ないようだった。その咆哮も、恐ろしいものから、むしろ哀れさを覚えるような、苦しみを訴える鳴き声に変わっていった。
その鳴き声も小さくなり、やがて、聞こえなくなった。動きも完全に止まった。ただ、大きな炎の塊が残った。
「死んだか……」
赤く照らされたレイの顔は、すっかり放心していた。
「……ところで、この火の始末、どうすんの?」
「あ!」
アサトが、しまった、という顔をした。
「ジュンコ、火の始末用に、水汲んであったじゃん」
「え? そんなもん、とっくに、どっか散っちゃったわよ」
「やばいぞ」
炎は治まる気配を見せない。このままだと、あっという間に小屋全体に広がるだろう。
「リンカっ、無理言って悪いけど、なんとかならない?」
ジュンコも焦っていた。
「えっ、ええ。なんとか、やってみる」
そうは言ってみたものの、どうしたらいいか分からない。そもそも、火を起こす能力があるのは確かなようだが、火を消す能力なんてあるのか。
とにかく精神を集中してみた。しかし、本人も気付かないうちに、リンカの神経はかなり消耗していた。
ふっ、と気が遠くなり、そのまま意識を失って床に倒れた。
「リンカっ!」
ジュンコが絶叫した。
「やべえっ、マジ、やべえ!」
レイは頭を抱えた。炎は、もう床を伝い始め、煙が部屋に満ちてきた。
「……っていうか、とにかく逃げようよ」
リサが呟いた。
「あ、そうか」
火を消すことばかりに気をとられてしまったが、なにも、命をかけてまで、このボロ小屋を守ることはない。邪魔者はいなくなったのだ。窓から逃げればいい。
レイは急いで雑に張られた模造紙を破り取り、窓を全開にした。新鮮な空気が部屋に入り、炎の勢いが増した。
「やばいぞ。ジュンコ、歩けるか?」
「僕の肩につかまって」
アサトがジュンコの前で屈んだ。
「わ、悪いな」
ジュンコはちょっとバツの悪そうな顔をして、アサトの肩にもたれかかった。
「よし、行くよ。せーの」
「痛っ」
「あっ、ごめん、大丈夫?」
「平気だよ。気にするな」
二人は、よろけながらも、どうにか窓枠を跨いで外に出た。そうしている間、レイは倒れているリンカを抱きかかえた。
「約束は守ったぜ」
レイは一人で呟いた。小柄なレイは、長身のリンカを持ち上げるのに一苦労だったが、どうにか窓を飛び越えた。
「さあ、早くっ、早くっ」
窓の外から、中に向かって叫んだ。火の勢いは天井まで届き、この窓も、すぐに炎に包まれるだろう。
リサが、恐怖で硬直状態になっていたエリコの手を引っ張り、二人転がるように飛び出した。
「危ないぞ。みんな、離れろ」
レイが叫んだ。皆、ふらふらになりながら、小屋から離れた。小屋は、あっという間に全体が炎に包まれ、夜の闇を赤々と照らした。
「これで、終わったか……」
アサトが呟いた。アサトも他の皆も冷静さを取り戻しているつもりだった。
「ねえっ! サユリは!」
エリコが叫んだ。
皆、慌てて、周囲を見渡した。
「しまったあ!」
レイが叫んだ。中で気絶したままのはずだ。
「サユリ!」
エリコが炎の中に飛び込もうとした。
「だめだ」
「やめろっ、危ない」
レイとアサトの二人がかりで、エリコを押さえた。それでも、エリコは振り払おうと暴れた。
ギギギギギっと、烈しく何かが軋む音が響いた。
「おい、皆、伏せろ」
レイが叫んだ。次の瞬間、轟音と共に小屋が崩れた。熱風と火の粉が一面に飛び散った。
「いやあああああああっ」
エリコの絶叫が響いた。炎に照らされた顔は、涙と煤と埃でぐしゃぐしゃだった。
「サユリィィィィ!」
「呼んだ?」
「え?」
後ろを振り返ると、普通の顔をしてサユリが立っていた。
「サユリ! 良かった!」
エリコはサユリに抱き付き、声を上げて泣いた。
「……確か、最後に見たときは、気絶してたよな。どうやって脱出した?」
レイが不思議そうに言った。
「良く分からない。誰かが、ここまで連れてきてくれた気がする……」
「誰だ?」
レイは皆の顔を見た。皆、首を振った。誰もそんな余裕無かったはずだ。
「……いいの。なんとなく、誰だか分かってるから」
サユリは微笑んだ。そして、小さな声で呟いた。
「ありがとう。お姉ちゃん」
「え?」
エリコは驚いて顔を上げた。サユリはじっと一点を見つめていた。エリコが視線の先を追うと、燃え盛る小屋の跡から、青白い炎の塊が一つだけ、ゆっくりと夜空に上っていった。
「そうか、そうなのね」
さんざん泣いたエリコだが、また涙が流れてきた。
ジュンコ、リサ、レイ、アサトも、何だか分からなかったが、その青い炎が夜空の中に消えるまで、ずっと眺めていた。
「なになに? どうしちゃったの?」
間の抜けた声の主はモッサンだった。
皆、ぽかんとした表情でモッサンを見つめた。何が起きたのか知らないモッサンの登場で、悪夢のような世界から、急に平和な普通の世界に戻ってきたことを実感して、泣き出したいような笑い出したいような複雑な気持ちの中、とにかく茫然とモッサンの顔を見ていた。
「……遅かったな」
やっとのこと、レイが呟いた。
「ああ。バイトが予定よりズレ込んじゃって。しかし、よく燃えてるな。何があったんだ?」
「あれか……、まあ、いろいろあったんだよ」
レイは笑った。実際、何が起きたのか、レイにも良く分からなかったのだ。ただ、笑うしかない。
「でもさあ、あいつ……」
アサトが、少し恨みがましい目でモッサンを見つめた。
「……あいつ、モッサンの宿敵じゃなかったのか?」
「へ?」
モッサンは、状況がさっぱり分からず、相変わらず間の抜けたような返事しか出来なかった。
「フッ、笑える」
皆が茫然としている中、レイ一人が笑っていた。
もはや原型を留めていない体育倉庫は、暗闇の中で、盛大に燃えていた。
体育倉庫が巨大な焚き火となったことは、離れた場所からも良く見え、すぐに通報された。消防隊が駆け付けたときには、そこには誰もいなかった。
消化作業によって、炎はすぐに治まったが、燃え跡の中から、生物の死体らしきものは発見されなかった。
しかし、火の気の無い場所であること、燃え跡から懐中電灯や燭台などが見付かったことなどから、すぐに放火が疑われた。
たとえ使われていないボロ小屋だとしても、放火は犯罪だ。それも、重大な犯罪だ。学校としても、当然放置するわけにはいかない。
とは言うものの、夜が明けると卒業式当日だ。重要な行事であり、簡単に中止や延期は出来ない。結局、警察の調査がある程度済むまで開始時間を遅らせ、その分だけ時間を短縮して行うことになった。退屈な卒業式をぶっつぶしてやりたい、というジュンコの願いは少しだけ叶った。
しかし卒業式が始まってみると、そのジュンコは足の骨折で欠席していた。他にも、エリコは発熱ということで、リンカとリサは体調不良ということで、それぞれ欠席していた。
レイとアサトは登校してきたが、傷だらけの顔で、同級生から怪訝そうに見られていた。
昨日、あの場所にいて、何事も無かったような顔をしていられたのは、サユリとモッサンだけだった。実際、モッサンには何事も無かったのだが。
卒業式が始まるまでのちょっとした空き時間、その四人は、人目を避けるように教室から離れて、近くにあった誰もいない音楽室に忍び込んだ。
音楽室の壁には、著名な音楽家の肖像画が飾られていた。レイはベートーベンの顔を見つめ、小学校の頃の噂を思い出した。ベートーベンの眼が動くとか、光るとかいったものだ。そういった噂は、ずっと馬鹿らしいと思っていたが、今、目の前で、このベートーベンが喋りだしても、あまり驚かないでいられるような気がする。
「さっき、お巡りさんも来てたよ。どうする?」
アサトが困った顔で言った。昨晩のヒーローも、警察が相手では、以前の気弱な男に戻っていた。
「どうする、って言ってもなあ。放っておくしかない。こっちだって被害者なんだ。ビクビクすることないだろ」
レイが言った。
「でも、昨日のこと、ありのままに言って、信じてもらえる訳ない」
「あたりまえだ。だから、わざわざこっちから何も言わなきゃいい。とにかく放っておけ。どうせ、俺達に結びつくような証拠はないさ」
「うん。あの場所なら、目撃者も居ないべ」
モッサンが、他人事のように気楽に言った。
「モッサンが、家系にまつわる因縁やらとかで、あいつを前倒しでやっつけてくれれば良かったんだけどな」
ニヤニヤしながらレイが言った。
「笑ってる場合じゃない。証拠や目撃者がないとしても、同時に何人も休んでるんだ。客観的に見て怪しいだろ」
「そうでも無いかもよ」
再びモッサンが口を挟んだ。この四人の中で唯一、モッサンは客観的に事態を見ることが出来るのだ。
「ジュンコとリンカの二人は、前から、ちょっと、なんていうか……まあ、言葉が悪いけど、浮いてる感じだったから。それに、ジュンコの性格は皆知ってる。卒業式に出なくても、ああ、やっぱり、って思ってるよ。で、エリコとリサが休んでるのは意外かもしれないけど、この二人に接点は無いから、一緒に何かやるとは思ってない。まして、ジュンコ、リンカのコンビに、エリコやリサが話しているところすら、ほとんど見たことないだろ。皆、てんでバラバラだったのが、かえって良かったのさ」
「なんか変なの」
サユリが呟いた。
「変? そりゃ、変なことだらけだけど、何が変だと?」
レイが聞いた。
「だって、ずっと同じ学校にいて、同じ教室にいて、卒業式の前まで、ほとんど話もしなかったんだもの。なんか、あたし達、すごくもったいないことしちゃった気がする」
「そういうもんだよ。友達は多けりゃいい、っていうわけじゃない。むしろ、やたら大勢友達を欲しがる奴はうざい」
「いや、レイの言うことは分かるよ。あたしだって、友達少ないけど、別にいいと思ってるし。ただ……もっと話してもよかったと思うだけなの。それで、嫌いになっても、嫌われてもいいからさ……」
「……」
「おいおい、いくら卒業式だからって、そんなしみじみとしたこと話してる場合か? 休んだ連中は、まあいいとしても、僕とレイの、この傷だらけの顔はどう説明する?」
「二人でケンカした、ってことでいいだろ」
「ケンカ? レイはいいけど、僕はケンカなんかするキャラじゃない」
「俺から、絡んできたことにすればいい。それで、アサトとしては、仕方なくケンカに応じたと。もちろん、勝ったのはアサトだ」
「え? 僕が勝った?」
「そう。俺は残念な負け犬」
「そりゃ、どうかと思うな。レイは、ケンカが強いイメージがあるし、僕は、自分から見ても弱いイメージしかない。誰も信じないよ」
「いやいや。やっぱり、勝ったのはアサトだ。実際昨日は、アサトのおかげで皆助かったじゃないか」
「昨日は……僕一人の力じゃない。皆で力を合わせたんだ」
「そりゃそうだけど、でも、一番頑張ってた。なあ?」
レイは、他の二人に同意を求めた。
「俺、遅れて行ったから」
「あたし、すぐ気絶しちゃったから」
「あ、そうか。まあ、とにかく、勝ったのはアサトでいいじゃん。俺本人が負けたって言ってるんだから、疑う奴はいないだろ」
「よかったら、あたしが証言するけど」
「そりゃいい。サユリはいい加減なこと言うタイプじゃないから、真実味がある。それで、俺のバンド仲間のモッサンも言ってくれたら、更に真実味が出るな」
モッサンは、何も言わずアサトの顔を見て頷いた。アサトも、なんとなく勝ったような気になってきた。
「まあ……じゃあ、いいよ。僕が勝ったということで。別に自分からは言わないけど、聞かれたら、そう答えておく」
ちょっといい気分で、アサトが言った。
卒業式自体は、何事も無くあっという間に終わった。
学校からの帰り道、アサトは途中でリンカと合流し、卒業証書と卒業アルバムを持って、見舞いも兼ねジュンコの家を訪問した。
足にギプスをはめたジュンコは、黒いスウェット姿のまま、自室のベッドで横になりテレビを見ていた。
「ジュンコのスウェット姿なんて、珍しい」
「足折れてるから、着替えるの面倒くさくて。まあ、自分の部屋だし。こんな姿、男子には見せられないけどね」
「あの、僕も、いるんだけど……」
「あれ? アサトいたの?」
ジュンコの態度は以前と同じだった。
実は、アサトがジュンコの部屋に上がるのは初めてだった。あまりジロジロ眺め回すのは悪いと思ったが、さりげなく部屋を観察した。家具は必要最低限という感じで、装飾品の類はほとんど置いてなかった。女子高生らしく、ちょっとした可愛い系の小物がポツポツと置いてあるだけで、シンプルな部屋だった。普段のゴス趣味丸出しのファッションしか知らないアサトは、もっと、暗い雰囲気の部屋を想像していた。
リンカとアサトは座布団の上に座って、グラスに入れてもらったオレンジジュースを飲んでいた。
「足どう? 痛む?」
リンカが心配そうに聞いた。
「大丈夫よ。今朝の足の腫れ具合にはびっくりしたけどね。こうやってじっとしていれば、そんなに痛くない。リンカこそ、大丈夫? 結局、今日休んじゃったんでしょ?」
「あたしは平気。ちょっと学校行く気になれなかっただけ。それも朝だけよ。今は、卒業式に出なかったこと、ちょっと後悔してる」
「そうか? あんなもん、退屈なだけよ」
ジュンコは、まだ言っていた。
「かもしれないね……」
「……それにしても、昨日は大変だった。もう死ぬかと思ったわ。と言っても、そもそも、あたしが悪いんだけどね。どうにか皆生きてて、重症なのは、あたしぐらいでしょ。本当に良かった」
「別にジュンコ一人が悪い訳じゃない。運が悪かったのよ」
「結局、リンカのおかげで助かったけど、驚いたな。あれが、超能力っていうの? あれ、今も出来る?」
「それがなんとも。コツを掴んだと思ったんだけど、また分からなくなっちゃった。練習すれば、出来そうな気はする。それに、ただ火だけじゃないと思うんだ。きっと、まだ他にも何か出来そうな気もする」
そう言うリンカの顔は、以前よりも自信に満ちていた。
「なんか、リンカ見てたら、あたしにも何か出来るような気がしてきた。別に、リンカの力を妬むワケじゃないけどさ。ただ、羨ましい、っていうんじゃなくて、それならあたしにも力があるんじゃないか、って自然に思えるんだ」
「それ、あるかもよっ」
リンカが、力を込めて言った。
「あたし、いろいろ調べてみたんだけどさ。そういう超能力って、近い人間に影響を与えることもあるみたい。それに、あたしとジュンコがずっと一緒にいるのも、潜在的に何か、お互い共通するものを持ってるからかも」
「そ、そう?」
あまり確信もなく言ったことだが、リンカの話を聞いて、ジュンコもだんだんその気になってきた。
「……どういう超能力がいい?」
自身は全くそんな気になれないアサトが言った。
「そうだなあ。手を触れずに物を動かすとか。いやいや、それは普通だな。ううん……そう、リンカが火なら、あたしは氷がいい。どんな物でも凍らせることが出来る。ってのは?」
「凍らせるって、どういうこと?」
アサトは、いまいちイメージが掴めなかった。
「よし。じゃあ、今からアサトを凍らせるわ」
そう言って、アサトに向かって指を突き出し、眼を閉じて、試しに念を込めてみた。
「お、おい、待てよ、ちょっと」
アサトは、一瞬真面目にビビった。だが、しばらく経っても何も起きなかった。
「ま、そりゃ、そうよね」
ジュンコは眼を開けて、失意のため息をついた。アサトは、ほっとため息をついた。
「フフフ」
そんな様子を見ていたリンカは、笑いながらジュースを口にした。
「あれ?」
リンカはグラスを口から離し、中を見た。
「どうしたの? 虫でも入ってた? ママが入れたんだけど、あの人、細かい事気にしない人だから」
「そう……ジュンコのママは細かい事気にしない人で、ジュースには氷が入ってたり、入ってなかったりなんだけど、今日は入ってなかったと思う……」
しかし、リンカのグラスには氷が浮かんでいた。アサトが、慌てて自分のグラスを見ると、氷は入っていなかった。
「ま、マジか?」
二つのグラスを見比べながらアサトが言った。
「いや、自信ない。思い違いかも」
「そ……そうよ。きっと、最初からリンカのグラスにしか氷が入ってなかったんで、勘違いしたのよ」
ジュンコが言った。少し引きつった顔で笑いながら。
「そうかもしれない」
「まったくもう、びっくりしたなあ」
そう言いながら、ジュンコは頭の上で手を組み横になった。つまらなそうな顔をしてみたが、胸の中はずっとドキドキしたままだった。
レイとモッサンも、休んでしまったリサに、必要なものを届けに行くこととなった。
しかし、引き受けてはみたものの、男二人でリサの家を訪ねるのはちょっと気が引けた。そこで、行く前にとりあえず電話してみると、案外元気だった。
ならば、せっかくだからいつものスタジオに集まって、ちょっと演奏しよう、ということになった。ちょうど機材は、マコトのおじさんの車に積んだままになっている。レイは、そのまま機材と一緒にスタジオに行き、一人で皆が来るのを待っていた。
他に誰も居ないスタジオで、レイは椅子に座り、ギターをちょっと弾いてみた。静かなスタジオの中、自分のギターの音だけが響いた。
本当は、あんまり上手くないよな。
そう思って、一人苦笑いを浮かべた。
事実は自分が一番良く知っていた。しかし今まで、気付いていない振りをして、自分の実力と正面から向き合うことを避けていた。だけど、今日は違った。
昨日の夜、もしかしたら死ぬかもしれない、と、少しだけ思った。でも、今生きて、こうしてギターを弾いている。それが、とても嬉しかった。それだけでいい。それ以上、意地を張っても仕方がない。
「よう、早かったな」
モッサンは、学校から一旦家に帰って着替えて来た。レイは、学生服のままだった。
「結局、俺達なんにも言われなかったな」
「そうだな……もしかしたら、連中、内心では俺達が何かやらかしたと勘ぐってたかもしれないけど、せっかくの卒業式に大きな問題を起こしたくない、ってのがあったかもしれない。ボロ倉庫が燃えたぐらいで、卒業生全員に迷惑かける訳にはいかないからな」
「燃やした本人が言うなよ」
「俺が燃やしたんじゃないって。いや、誰のせいでもないって」
「……まあ、俺がしっかりしておけば」
モッサンは、済まなそうな顔をした。
「しょうがねえよ。先祖がどうの、って言われても、困るだろ」
「でも、自分の血からは逃げられないからなあ」
モッサンは、少し諦めたような顔をした。レイは、何か言おうとしたが、そのときリサが分厚い扉を開けて入ってきた。
「おはようございまーす」
時刻はもう夕方だったが、音楽業界では何時でも「おはようございます」と挨拶するものである、という噂を聞いて、自分達だけで真似していた。
「おはよう。調子どう?」
「全然平気。朝は、ちょっと混乱してて、とても外に出る気になれなかったんだけど、もう落ち着いた。むしろ、ずっと家にいると、余計にいろいろ思い出しちゃって気分が悪くなるの」
「そうか。早く忘れて、何も無かったことにしようぜ」
「そう言うレイこそ、ひどい顔よ。大丈夫?」
「大したことない。かすり傷だ」
レイは笑って、顔をパシパシ叩いた。
「……卒業式、どうだった?」
「ちょっと、予定より短縮バージョンだった。まあ、その分、余計なスピーチが短くなって良かった」
「そうだ。卒業証書とかいろいろ持ってきたから」
モッサンが、持ってきた手提げ袋を指差した。
「じゃあ、ここでリサの卒業式をやるか」
レイは、「仰げば尊し」の冒頭をギターで弾いてみた。
「やめてよ。恥ずかしい」
「そう? 実は、この曲、ちゃんと弾けない、っていうか曲の最後まで知らないんだ」
「ダメじゃん」
リサは笑った。
「……まあ、つもる話は後にして、昨日できなかった演奏、始めるとしよう」
リサとモッサンは頷き、すぐに楽器のセッティングを始めた。
「このメンバーで演奏するのは、もう最後かもしれないな……」
レイが、ギターのネック摩りながら呟いた。
「ん? 何? 今、なんか言った?」
ベースのチューニングをしている手を止め、モッサンが言った。リサも、機材の配線を確認しつつ、首を傾げながらレイを見つめた。
「いや。何も言ってないよ。いつものように、楽しもうぜ」
レイは笑顔で言った。
エリコは、あまりにも色々なことが起こり過ぎたせいで、本当に熱を出して倒れていた。それでも、午後には落ち着きを取り戻し、熱も下がった。
だいぶ良くなった頃合をみて、サユリが見舞いに来た。
本当は、みすぼらしい部屋を見られるが恥ずかしくて嫌なのだが、断るのも悪い。それにサユリは、そんなことを気にするような人ではない。
「寝てるとこ、ゴメンね」
サユリは、エリコの寝ている布団の傍らに腰を下ろした。
「ううん。来てくれて、ありがとう」
エリコは、上半身を起こした。
「あ、いいよ、横になったままで」
「大丈夫。もう、そんな悪くないから。卒業式休んじゃったし、親の手前、ずっと寝てなきゃ格好がつかない、ってだけよ」
「本当? 無理しなくていいよ?」
「本当だって。それより、サユリは? 昨日、気、失ってたんだよ。後遺症とかあるかもしれないし、気を付けないと」
「あたしは全然元気だよ。でも、それはレイにも言われた。まあ、念の為、後で診てもらおうと思ってるの」
「そのほうがいい。ちょっと、飲み物取って」
エリコは、自分が病人であるのをいいことに、すぐ近くのテーブルの上に置いてあるミネラルウォーターを取ってもらった。
「はい」
「どうも」
「ところでエリコ、ムラタくんのことは?」
「んぐっ」
いきなりムラタの話題になって、エリコはむせかえりそうになった。その名前を聞くと、また熱が上がりそうだ。
「なんか、結局、ちゃんとした告白出来なかったし。仮に、気持ちは伝わったとしても、答えは、まだ聞いてないんでしょ?」
エリコは、少し驚いた。同時に、少し尊敬した。昨日、あれだけのことがあったのに、動じること無く前の話を進めている。きっと、世界が終わるようなことがあっても、この調子で話を進めるだろう。
「……もう、それはいい」
「いいの? 後悔するよ」
「いや、なんか、あんまり好きでもなくなったみたい」
ムラタは昨日、自分達を置いて一人だけ逃げ出した。酷い話だ。あの事態なら仕方ないとも考えられるし、責めるのは気の毒かもしれない。しかし、ジュンコとの件も含め、印象が最悪なのは確かで、完全に気持ちが離れてしまった。
「そっか。じゃあ、しょうがないね」
サユリは屈託無く笑った。
「次の恋を探すか」
「……」
この娘、そんな恋に積極的だったっけ? 笑顔のサユリを見ながら、エリコは思った。二人は地元にある、同じ大学の同じ学部へ進むことが決まっている。まだしばらくは、一緒なのだ。楽しみなような、不安なような。
「ところでね、昨日の青白い光、覚えてる?」
サユリが言った。その表情は、ちょっと戸惑っているようだった。
「ああ、あの、夜空に昇って行った……。きっと、あの光は……」
「お姉ちゃんなんだけどね」
当たり前のようにサユリが言った。そう断言されると、エリコは何も言えない。
「普通、ああいうふうに、天に昇っていったら、ああ、きっと天国に帰ったんだなあ、って思うじゃない」
「ええ……まあ……。違うの?」
「姿は見えないんだけど、どうも、こっちの生活が気に入っちゃったみたいなんだ」
「はあ?」
エリコが首を傾げていると、突然、部屋に置いてあったテレビの電源が入った。
「ひっ」
驚いて、首をすくめた。
「ね」
「どういうこと?」
「あたしと一緒にいるみたいなの。お姉ちゃん、テレビ好きだったしね」
サユリは、困ったような、でもそれでいて、少し嬉しそうな顔をして言った。
眼を丸くしたエリコは、サユリの顔を見つめた。
「あたし、まだ熱があるのかな……」