第5話:下を向くもの
タケオの目の前に広がっているのは、一触即発の火薬庫だった。
充満しているのは、緊張と駆引きという名のガスだ。
ニットキャップの男が地面に転がるでぶと金髪を、悪戦苦闘しながらワゴンの中にひきずりこんでいる。運転席の中には、いつでも発車できるように、緊張した顔でハンドルを握っているハゲ男。中央には、ワゴン車を背中にして、チィを盾にしたクジョーの姿があった。
その視線は、わずか5mもはなれていない1本の街路樹に向かって、まっすぐに注がれている。
クジョーの右手にはおもちゃのような、黄色い銃が握られていた。銃口とチィのこめかみの距離は5mm。かたく目をつぶったチィの呼吸がどんどん早くなる。
「聞こえませんでしたかねー。シュカ。試しに一発撃ってみますか?」
クジョーが街路樹に向かって言葉を投げた。黄色い銃口がとチィの頭の隙間がなくなる。
タケオは、汗ばんだ右手で手すりを握りなおすと、無意識に後ずさりを始めていた。一刻も早くこの場から逃れたい。足だけでなく、くいしばった歯までもが、臆病者のダンスをはじめる。
人影がゆっくりと、街路樹の後ろからあらわれた。……シュカと呼ばれた人間なのだろうか。立っている場所は暗く、顔の判別もつかないが、タケオの視線は釘付けになっていた。
サムライボーイズと交戦していたのは、華奢なシルエットを持つ、たったひとりの若い女にしか見えなかった。チィと同じ制服らしいシャツの上から、不釣り合いな丈の長い上着をひっかけている。
「はい、そのままー、ぶっそうな右手の武器は地面において、手を頭の上で組め」
クジョーの言葉に、彼女はのろのろと腰を落としたが、視線だけは外そうとしない。
「早くしろー」
のんびりした声のクジョーが、ローファーをはいたチィの足先へ向けてトリガーを弾いた。
「きゃあっ!!」
路面を照らす電撃。チィの全身が大きくけいれんする。
タケオは、階段に額をすりつけていた。視界はすべて自分の影。なにも見えないことに安堵する。心の中が、この場から逃げ出すための口実で埋めつくされていく。
……今自分が飛び出していっても、やられ役が一人増えるだけだ。
……見つからずに歩道橋の向こうまで渡ることができれば携帯で警察に通報できる。
……そうだ、見捨てるんじゃない、助けるために行くんだ。ごめん。わかるだろ。
頭を下げて四つんばいになった体が、一段、また一段と階段を昇っていく。誰かが捨てたガムが手のひらを汚す。汗ばんだスーツのひざがコンクリートを磨く。タケオは闇の中で一生を過ごす、目の見えない蟲になった気がした。おまえは最低だ、この卑怯者、妹殺し、耳元であざ笑う声が聞こえる。この世界のどこかにいる、もうひとりのタケオの声だった。
「あたしが武器を置いたら、チィをはなせ」
彼女が口を開いた。まぎれもない怒りが、戦場の空気をふるわせる。
「取引は不可能です。大丈夫。あなたも人間じゃいられなくなるまで通電してあげますよ」
クジョーが笑いを含んだ声で応戦する。
「シュカ……武器をすてちゃ、だめだよ。だめ……」
撃たれているのに、まだ気丈に振る舞うチィのかぼそい泣き声が聞こえた。
タケオの両目から流れだした液体が、階段をつかむ両手をぬらしていく。だが体は逃げることをやめない。永遠とも言える数秒、必死で手足を動かし続けた。後ろを振り返ると、すぐそこに歩道橋の最上段が見える。
……あそこまで行ければ。みんなが助かるんだ。きっと。きっと……!
止めていた息を吐き出そうとした時、能天気な電子音が戦場に鳴り響いた。その場にいるすべての人間の視線が、歩道橋の上にうずくまるタケオにそそがれる。日曜朝からやっている女児向けのアニメの主題歌。それも去年のやつ。すなわち、タケオの携帯電話の着信メロディだった。
「このガキ!」
ニットキャップが、歩道橋へと走りだすのと、タケオが呆然とした顔で、胸ポケットから携帯抜き出すのは同時だった。表示には会社、の二文字。ひざから力が抜けて、目の前が真っ暗になる。一段抜かしで階段をかけあがるニットキャップの影が迫る。タケオは、誰かに救いを求めるようにまわりを見回した。涙で街灯が二重になって見える。
「んああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
タケオは目をつぶって、手の中の震える『最後の希望』を戦場へと投げ捨てた。
3年はみっちり使いこまれ、最近ではバッテリーの劣化から、タケオの呪いを一身に受け続けているあわれな携帯端末は、最後に奇跡を起こした。
強烈なスピンをしながら夜空を駆け抜けると、ニットキャップの頭上をかすめて、運転席に座るハゲ男のこめかみを直撃した。パニックになったハゲ男が、踏み込んでいたブレーキを一瞬はなしたのか、つんのめるように飛び出すワゴン車。背をあずけていたクジョーの銃口がチィの頭から離れるのが見えた──その一瞬、彼女は、力を取りもどした。
人間ばなれした速度で、地面に置きかけたテニスボールくらいの『武器』を握りこむ。地面すれすれのアンダースロー気味のフォームで、クジョーめがけて右手を振り抜いた。
超音速でかけ抜ける緋色の燐光が、一直線にクジョーの右手を砕いた。黄色い銃が路上にはじけ飛ぶ。
崩れ落ちるチィ。再び手を伸ばそうとしたクジョーとチィの空間を、赤い光がガードするかのごとく駆けめぐる。我にかえった運転席のハゲ男が、ドアを閉めながら、撤収だ!とわめいた。
劣勢を察知したクジョーが、ワゴン車の中へと身をひるがえす。タケオの前で、棒立ちになったニットキャップは、まだ状況を理解できないまま階下を二度見する。
「逃がさない、よ!」
そう叫んだ彼女の手が、胸の前で複雑に組み合わされる。ワゴン車を襲っていた赤い光が、軌道急激に軌道を変えて、ニットキャップに向かって疾走りだす。
「ぐげっ」
空気中の何かが焦げる匂い。ちりちりと発光する、糸のような火花。目の前のニットキャップの体がエビ反りになって、階段を2回、3回とバウンドしながら落ちていく音。ワゴン車の中から手を伸ばした金髪が、痛みにのたうつニットキャップの体をひきずりこむ。
「チィ!車から離れろ!」
彼女が飛びこんでチィの身体をさらうのは、ワゴン車がタイヤを鳴らして半回転するのと、ほぼ同時だった。さっきまでチィがいた空間を、車の後部バンパーが消し去る。
ワゴン車が植込みを踏みつぶしながら車道へ出る。真っ黒なボディにタケオ達の姿が映る。ようやく意識を取り戻したでぶが、後部座席の窓から顔をのぞかせた。まわらない舌をけんめいに使いながら、彼女に人さし指を向ける。
「オデたち、サムライボーイズは、ぜったいにおまえをコロす……!」
彼女は小さく息をすいこむと、よく整備された機関銃のように反撃した。
「星くずに用があるなら、あたしんとこに直接来い。いつでも相手してやっからよ。てめーらみたいな、弱いもんいじめの○○○○野郎に、サムライなんて名乗られちゃ、この世は終わりなんだよ。帰ってお殿様に伝えな。お前らと遊んでばっかいると頭が悪くなるから、いますぐ切腹してくれってよ。分かったかこの豚肉!」
でぶの顔が怒りで青ざめた。後部座席のクジョーが何か声をかけると、ハンドルを握ったハゲ男が、ねっとりとした視線を残しながらアクセルを踏みこんだ。その眼には、棒立ちになるタケオの顔も映っているのはまちがいない。
5人を乗せたワゴンは、赤いテールランプの残像を残して消えていった。