第2話:すれちがうもの
チィは、きれいに切りそろえられた前髪の下から、真っすぐにタケオを見つめていた。
「……学校に行ってる」
「まじで? 20歳で、ひょっとして…また高校か?」
「高校じゃない。一応、通信で卒業しているし」
チィは、高校を一日行ったきり不登校になった。
親はなだめたりすかしたり、ビョーインに連れて行ったりとそりゃー大騒ぎだった。たしかその後も、フリースクールに入学しては辞めたり、バイトを始めては辞めたりをくり返していたと聞いていたが、まさかまた学生とは……。
「おにーちゃんは、ずっと同じ会社で働いてるの?」
「まあね。ほかに行くとこもないし」
タケオ自身は、SE系の専門学校を卒業後、就職と同時に家をでた。引越の朝、チィの部屋に声をかけようと思ったが、結局やめたのをおぼえている。それからは戦後最大最長と言われるフケーキの中、末端技術労働者として生きていた。
しばしの沈黙のあと、チィが口を開いた。
「でね……この日曜日にその学校の文化祭があるんだ」
「チィもなんか出すのか」
「うん。彫刻というか、ぜんぜんそんなちゃんとしたヤツじゃないんだけど」
彫刻……まだあきらめてなかったのか。胸の中でなにかがざわりと動いた。
「ふーん、すげーじゃん」
「……あと少しで完成なんだけど、作れなくなっちゃって……」
「なんで」
チィは背中の後ろにまわしていた右手を見せた。
薬指と小指をおおう、水色のギブスに白い包帯が、常夜灯に浮かび上がる。
「ちょっとドジっちゃって。そんなにひどくはないんだけど、明日の夜には完成させたいの……それでおにーちゃんに手伝ってほしくて」
「……」
「おにーちゃんモノつくるの上手だったじゃん。ムカシっから。アタシなんからよりずっと……」
「ことわる」
思わず大きな声が出た。
体の中は、すでに黒いマグマのような気持ちでいっぱいだった。チィの言葉はきっかけにしか過ぎない。昼間に会社で押しつけられた理不尽な仕事や、断りきれなかった無力感がごたまぜになって炎上するのがわかった。
「オレは忙しいんだ。学生の遊びなら友達にたのめよ」
みるみるチィの顔がこわばっていくのがわかる。
「オレがこんだけ働いてボロボロなのに、お気楽に文化祭だって? ずいぶんいい身分じゃないかよ」
言ってる最中にしまったと思ったが、止められなかった。
チィは、さわってはいけないものに触って、しかもそれに毒針があったことを忘れていたような表情をうかべていた。
さっきまでの明るさはどこかへ消えてしまったようだ。チィのふるえる声が夜空にひびく。
「そうか、そうだよね。みんなはたらいてるんだもんね。はたらいてるひとはえらいんだよね……だれにもたのめないから、いってるんじゃないかよ……」
「……チィ」
「ばか! もうたのまない!」
チィが唐突に背を向けて、駅とは反対側の階段へ走りだした。
追った方がいいのか、だが追いついてどんな言葉を言えばいい? 傷つけたことはわかっていたが、謝りたくはなかった。タケオの頭の中で自分の言葉とチィの言葉が、わんわんと鳴っている。
チィの小さな背中が見えなくなった。階段を降りる足早な音がひびく。
タケオはのろのろとカバンをひろって、駅の方へ体を向けた。
その時だった。
歩道橋の下から、バンッと何かが炸裂する音と、やッという短い悲鳴が聞こえた。
タケオはふり返ると、チィの姿を探すために走りだした。単純に階段で転んだのか、チカンにでも出くわしたのか。とにかく追いかける口実はできた。いつだって誰かに迷惑をかけているバカな妹。チィが降りていった階段の手すりにふれた瞬間、タケオの目に飛び込んできたのは、階段の一番下の段に転がるチィの姿と、背中を踏みつけながら嬌声をあげる、見知らぬ男たちの一団だった。
「はい、星くずゲットー!」
一人が、笑顔でこぶしを突きあげた。
歩道橋の下にひろがる光景は、タケオの知っている世界のものではなかった。