第1話:かつて知っていたもの
(あれ……こんな街だったっけ……?)
八月のおわり。
タケオの目に映った夜の秋葉原は、まるで知らない街のように見えた。
金曜にしては数の少ないタクシーが、光を引いて闇の中へ消えて行く。
かつてタケオも良く足を運んだ家電量販店の要塞も、二次元の少女が微笑む迷路も、その数を減らしてシャッターを閉ざしている。あれだけまきちらされていた、まばゆい光と物欲という魔法はどこにも見えない。
持ち主が捨てていったのだろう、壊れたビニール傘が路上のあちこちに転がっている。砂浜に打ち上げられたクラゲのことを考えながら、タケオは携帯電話の時計を見た。午後十時過ぎ、早めに会社を出たつもりだったが、待ち合わせの時間は過ぎている。
ふと横を見ると、暗いショーウインドウに映った自分が、タケオを見ていた。
セルフレームのメガネに、長くもなく短くもなければコシもない黒い髪。
二年使っている肩かけカバンの中には、持ち帰り仕事用のノートPCがある。
すれ違った瞬間に忘れられてしまいそうな、中肉中背のスーツ姿の若手オタリーマンの典型。ステータスは「疲労」と「空腹」だ。
何度も携帯電話に保存した待ち合わせ場所の地図を確認してから、駅を背にして歩きだした。
パトロール中の二人組の警官をよけるように追い抜かし、若いホームレスとぶつかりそうになって飛びのく。銀行の角を曲がると、一層街の光が少なくなった。駅から離れるほど、人通りが減っていくのが目に見えてわかる。再び大通りにぶつかった所で立ち止まると、タケオはあたりを見回した。
およそ500mほど先に、目印の水色の歩道橋があった。
側面には、治安の悪さを感じさせるグラフィティ的な落書きが目立つ。かつてはこんな文化からは100万光年も離れたオタクの聖地も、ずいぶん変わってしまったらしい。
就職してからぐんと悪くなった目を細めると、歩道橋の上に待ち合わせの相手らしき人影が見えた。
(……あいつと会うのはどのくらいぶりなんだろう……)
小さな人影が、タケオに気づいたように軽く手をあげた。
タケオは歩道橋の階段をゆっくりと登る。万年運動不足の身には、この程度でもちょっとしたハイキングなみだ。
歩道橋の上は少しだけ涼しい。昼間の雨風で空がきれいになったのか、珍しく星空が見えた。下の大通りの両脇に植えられたイチョウ並木からは、都市部で増えつづけるアオマツムシの鳴き声が聞こえていた。
通路の真ん中に立つ人影は、明るい声を出した。
「久しぶりだね、おにーちゃん」
「……なんなんだそのカッコウは……チィ」
タケオはため息をつきながら、制服姿に身をつつんだ妹の名を口にした。
「お前、もう二十歳こえてんだろ。なんで学生服着てるんだ?」
「ふふーん。まだ似合うでしょ?」
くるり、と歩道橋の上でチィがポーズをとってみせた。
タケオと同じ場所から二年遅れで生まれた、血のつながったバカ。二ヶ下の妹だ。
グレーのチェックのスカートと、夏用シャツにえんじのネクタイ。
肩までの黒い髪に黒いハイソックス。
実年齢を知らなければ、現役の高校生に見えないこともない……のか?
妹の表情は、数年前よりはるかに明るくなった気がした。女性らしい化粧なんかにも気をつかっているようだ。
「それより、話ってなんだよ。……実家だったら帰らないよ」
おととしの正月いらい、親と顔を会わしたことはなかった。こうして妹と口を聞くのも覚えていないくらいひさしぶりだ。タケオは、ノートPCを入れたバッグを地面に下ろすと、歩道橋にもたれかかって大通りに目をやった。一台の軽ワゴンがハザードを出して路肩に止まるのが見えた。
「おにーちゃん三連休ヒマ?」
「あいにくと自宅待機だよ。新しいシステムのエラーが出たら、すぐ駆けつけられるように」
「忙しいんだ……」
「チィは、なにしてんだよ。今」
タケオはようやく妹の方に顔をむけた。