第10話:胃をみたすもの
高校卒業後、四年ぶりの制服は不思議な着心地だった。
夏服のシャツから伸びた真っ白な二の腕が無防備に思えて、タケオは腕をさすった。
ノアが入れてくれた冷たいお茶の隣には、湯気をたてる大ぶりな饅頭の山。
白い皮の表面には、背筋をのばしたちいさな猫の焼き印がある。
立ちのぼるあたたかな香りにつられるように、タケオの胃が目覚めの声をあげた。
「実家からの差し入れです。おいしいですよ」
リンさんの言葉に、恐縮しながら手を伸ばすと、一口ほおばった。
柔らかい皮の下から熱い肉汁があふれ出てくる。
はふはふと息をしながら、タケオは3つの饅頭をたいらげていた。
身体が暖かくなり、こわばりが溶けていく。
ようやく落ちついたタケオは、ごちそうさまでした、と深々と頭を下げた。
ノアが残った饅頭にちらちらと視線を向けている。
すすめると、やったー、と叫んでかぶりついた。
リンさんが、あなた今日何個食べてるの、と呆れている。
「この学園にいらして、何か気づいたことはありますか?」
リンさんは空いた皿を片付けながら、軽いトーンで話しかけた。
弛緩していたタケオは、その声にひきこまれるように、第一印象をまとめようとした。
「……ぱっと見、定時制の夜学かな、と思ったんですが、あまりに生徒さんの年齢がばらばらなのでびっくりしました。しかもこんな夜中に」
ちらりと部室の時計を見ると夜の十二時半だった。
土曜日のはじまり。仕事の状況を思い出すと、暗い気持ちがよみがえった。
あの戦闘でケースがひしゃげたノートPCは、学内で修理ができる人間にあたってみる、と言われノアに預けてある。
「長い話になります」
リンさんはそう言うと、タケオの空いているグラスを下げて、暖かいお茶を用意しはじめた。
これだけのマシンを管理するためにはずっと冷房をつけているのだろう。
リンさんはなめらかな手つきで、温めた湯呑みに黄金色の液体をそそいだ。室内に、やわらかいジャスミンの香りがたちのぼる。ノアにもお茶を配ると、静かに席についた。
「まず、この学園の成り立ちについて説明させてください。」
リンさんの声は大きくはないがよく通る。ノアは入り口に近い席に戻っていった。
「私たちが所属するこの学園は、正式名称を「私設星くず学園」と言いますが、学校法人でも、専門学校でもありません。この学校の入学資格は20歳以上——すなわち成人を対象にした——『青春体験サービス施設』です」
話し慣れているのか、リンさんの口からなめらかに言葉が継がれる。
タケオは、校門をくぐる時にシュカが放った問いかけを思いおこした。
(あんたが今の知識と経験を持ったままで、学校生活を、青春をやり直せるなら、どう生きる?)
タケオはその言葉をくり返した。
「……青春の、やりなおし」
「はい。タケオさんは学生時代を楽しんで過ごされましたか?」
タケオは迷いもなく首を横にふった。
暗黒とも言えないが、曇り空のグレーが続く3年間。
特に高校一年次に、ケガと人間関係で、野球部を辞めてからは、どこにも居場所を見いだせなかった。今でも高校時代の友人とは会っていない。
リンさんはにっこりと笑った。切れ長の目だが、不思議と冷たい感じはしない。
「必ずしも学生生活は楽しいものとは限りません。思春期の真っ最中に、校則や受験に追われて、自分が何者かもわからずに過ごしている人もたくさんいます。もう二度と行きたくない、と思っている人もいるでしょう。ちなみに……タケオさんは学園もののアニメや本がお好きですか?」
好きだった。タケオはあわてて言葉をついだ。
「いや、でもフィクションとしてですよ。そんな……」
言いかけて気づいた。自分は青春の追体験を求めてたのか?
「この学園のコンセプトは、大人が青春を取り戻す——上書きすると言ってもいいですね——ための『学校ごっこ』の場の提供です。この学校には授業も、テストもありません。あるのは『放課後と部活動』のみです。生徒は部活に所属しなければならないという決まりはありますが、出る出ないは自由です。校舎は平日の午後6時から11時まで、土日は一日中解放されており、現在およそ300名の生徒が在籍しています。ちなみに今は特別期間なので、校舎への寝泊まりが許可されています」
タケオは話を聞きながら、妄想の翼を広げた。
もし、あの試合で怪我をしていなかったら。
もし、もっと自分から話しかけて、人間関係を構築できていたなら……そうなのだろうか?
「この学園ができたのは、およそ8年前です。当初は少子化によって廃校になった校舎を借りて、社会人向けのサークル活動の場を提供するカルチャースクールでした。しかし開校してみると、一般の社会人以外に、これまでちゃんと学校に行くことのできなかった人たちからの入学希望が多いことに気がつきました」
「いわゆる、不登校ということですか?」
制服姿のチィが目の前に浮かんだ。リンさんが頷く。
「はい、不登校への支援や議論が高まってきた時代だったので、この学園もニーズに答えるかたちで受け入れを始めるようになりました」
リンさんが湯呑みに両手をそえた。爪にパールがかった薄紫の花びらが散っている。
「現在では、働きながら部活を楽しみに来ている人と、不登校経験があり、リハビリのために通っている人の比率は五分五分です。はじめはどうなることかと思いましたが、学校ごっこという仮想世界の中で、びっくりするほどみんなの関係は良好です」
タケオは言葉を選んで質問した。
「良くなるんですか? その……心の病とか、不登校とかが」
リンさんが真面目な顔で頷いた。
「もちろん私たちも医者ではないので、投薬や専門的なカウンセリングは学校外へ委託しています。ただ、対人関係への恐怖感の克服や、自己への肯定感の獲得ついては大きな効果を上げているようです。実際に卒業生の5割が、アルバイトについたり、なんらかのかたちで社会参加することができるようになりました。不登校経験者のネックとして、いきなり社会のスピードにあわせて参加することが難しいという点があげられるのですが、ここでは部活を通じて、対人関係の練習ができるというが大きいようです。また、最近の傾向では、うつ病と診断されて休職されるサラリーマンの方や、それを支える家族の方も増えています。」
タケオはさっき中庭で見た光景を思い返してみたが、みんな驚くほど元気そうに見えた。仕事に疲れた自分の方がよっぽど病んでいる。義務ではなく、楽しむためだけの学校生活。なんだかおとぎ話のようだ。
「……大人の楽園、てとこですかね」
タケオはぽつりと感想をもらした。
「じゃあ、シュカや、リンさんはこの学校の生徒なんですか……?その、不登校を経験してる?」
リンさんが長い首をかたむける。
「わたしは14歳の時に、病気の父親の代わりに、青猫楼という中華街にあるお店を継ぎました。幼い弟妹の面倒も見なければならなかったので、高校へは進学しませんでした。今では結婚した妹夫婦が店を継いでくれたので、世間を知ろうと旅をしているうちにこの学校のスタッフにスカウトされたんです」
中華街というのは横浜だろうか。バイクにまたがり、旅をしているリンさんを想像した。
「……シュカは、やっぱり中学生の時に色々あって学校生活はほとんど送っていないはずです。詳しいことはあの娘が話す気になったら教えてくれるでしょう」
ヘッドセットマイクをつけたノアの様子をうかがうと、ディスプレイ上にあらわれる様々な光点を一心不乱に追っかけている。新手のハムスター遊びかもしれない。
彼女にも色んな過去があるのだろうか。