〜プロローグ〜
シュカは、時間とともに腫れてきた右拳をさすっていた。
学校指定のスカートに、小さな赤い点が飛んでいるのを見つけて、ため息をつく。
遅刻したせいか、シュカの席は体育館の一番うしろの席だった。4月にしては日差しが暖かいせいか、上着をひざに置いている生徒が目立った。
マイクを通して、生徒起立、という声がかかった。号令なんてものを聞くのはいつ以来なんだろう、と思いながら、シュカはパイプ椅子から音も立てずに、細い腰をあげた。
目の前に並ぶ、いろんな頭が一斉に礼をする。流行りの髪型やら金髪やら、オタクっぽい長髪やら、すでにさみしくなった後頭部たち。およそ60人、男女比は半々だろう。
──危険そうな奴はまだ見当たらない。いや、アイツとアイツはなんかやってたな。格闘技?
シュカがいつものように「索敵」を行っていると、いつの間にか壇上にあらわれた、背の高い老人が、マイクに手をかけるのが見えた。着席、の声がかかり、ふたたび学生達がパイプ椅子を鳴らす音がした。
「えー、星くず学園、入学、おめでとう。理事長のマキシマです。」
鶴を思わせる、長い首をゆっくりと前後にゆらしながら、理事長が話しはじめた。シュカも入学前に一度会ったことがある。今年で80歳とかなんとか、食えないやつだ。
「今年はありがたいことに、桜の開花がずれこんで、入学式までもってくれました。え。きみ達が桜を見るのは、何回目のことなんでしょうか。もちろん、20回は見ていることでしょう。」
――そう、ここにいるのはどいつもこいつも立派な「おとな」だ。20歳を超えた「おとな」の群れ。その中にいる自分に気づき、シュカの行き場のない苛立ちがまた強くなる。
「え、きみたちは、この学校に来るまで、いろんな春に出会ってきたことでしょう。思い通りに行かずに泣いた春だったかもしれません。立ち止まって周りの人を見送るだけの春だったのかもしれません。」
老人独特の乾いたふるえる声は、力強くはないが、どこまでも優しい響きで体育館に広がる。シュカは落ちつかない気持ちのまま、去年の桜を思い出そうとした。
――アジトの近くを流れるドブ川の水面を、びっしりと覆いつくした白い花弁。あれは桜だったっけ? 敵対するチームとのせんめつ戦の末期、優雅に花見などをしていなかったのは確かだ。
「……ですが今日、この日からの3年間は、きみたちが失った『青春』という時間を取り戻してほしい。それだけがこの学園の方針です。」
マイクごしの理事長の声に、わずかに熱がこもるのを感じて、シュカは目を上げた。
「知っての通り、この学校には、『部活動と放課後』しかありません。先生もいません。そのすべてを、きみたちの手で作っていってほしい。学校生活をどれだけ楽しくするのかは、きみたちの手にかかっています……」
青春、部活動、放課後。
今日までのシュカの周りにあった、血と暴力、謀略ということばとは次元が違いすぎる。
――やっぱり引き受けるんじゃなかった。今から逃げだすってのはありなのか。かと言って戻る場所があるわけでもない。シュカは何度目かの深いため息とともに、左手で制服のネクタイをだらしなくゆるめた。
つと、シュカのとなりで、パイプ椅子のきしむ音がした。遅れて到着した生徒らしい。
中庭の桜の木からくっつけてきたのだろう、ふんわりした髪と制服のスカートから、白いはなびらが舞い散る。
世間ずれしていないとでも言うか、どことなく育ちの良さを感じさせる。どーせ校門の桜の下でぼーっと突っ立ちでもしていたんだろう。シュカの視線を感じたのか、女子生徒は怪訝そうに見返すと、小さな声を出した。
「やだ、なにかついてる?」
無防備な質問に、シュカは思わず答えを返していた。
「……ああ、花見ができそうなくらいだ」
自分の姿に気づいた女子生徒が、わたわたと体中をはたきだす。たくさんの花弁が足下に落ちた。……変わったやつ。シュカははなびらを避けるように、反対側へと体をかたむけた。
女子生徒は、ふと手を止めると、まじまじとシュカの右手をのぞきこんだ。
「あなたの服にも、なにかついてるわよ。ケチャップ?」
シュカはどう答えるべきか、迷った。結果、ありのままを言った。
「出がけにケンカを買ったんだ。あたしの制服姿を指さして笑ったヤツから」
シュカの説明をどうとらえたのか、隣の女子生徒は口をぽかんとあけている。同い年くらいだろうか。
「……ほんとにいろんな人がいるのね、この学園ときたら」
女子生徒は、そうつぶやきながら、シュカの男の子のような短い髪から、黒いニーソックスにつつんだ足下までを何度も見回した。
相手に情報を与えてはならない、そう叩きこまれたシュカの体がこわばりだす。だが女子生徒の瞳の中にあるのは、小さなこどもが初めて海に触れるかのような表情だった。シュカは、気づかれないようにそっと力を抜いた。
「まあね。あんたこそ、いいとこの『お嬢』っぽく見えるけど、やっぱ訳ありなのか」
「ええ。学校生活はほとんどはじめてよ」
彼女がにっこりと微笑んだ。周囲の空気がほんの少しだけ明るくなったのは気のせいなのか。
「わたしはありす、あなたは?」
「シュカ」
「不思議なひびきの名前なのね……どんな字を描くの?」
シュカは人さし指で、ゆっくりと空中に字を書いてやった。ありすがにっこりと笑う。
「とってもいい名前ね。ね、あたし、あなたに会えてほんとにうれしいの。信じる?」
シュカは首をふった。が、まったく信じていないわけではなかった。ありすにつられるように少しだけ口が軽くなるのを感じる。
「ありすちゃんね、おまえそーとー変わってるよ。つーかヘン」
「そう? まじめな気持ちで言ってるんだけどなぁ。ね、ともだちにならない?」
「あたしが、あんたと?」
大きな声にまわりの生徒の視線が集まる。ありすが声をひそめた。
「そう、きっと仲良くなれると思うな。わたしたち」
仲良し、そんな言葉はシュカの辞書には乗っていない。
断ろうと思った。鼻で笑ってやろうと思った。だが、口から出た言葉は、
「……考えてみるよ。」
ありすの顔が、ぱっと輝く。
「よかった! ね。もうクラブは決めた?」
「クラブ? あぁ、部活ってやつか。いや、あたしは入んないんだ」
「どうして? クラブ活動は必須じゃなかった?」
「んーとさぁ、あたしは、条件つきの特待生なんだよ」
「えー! そんな人がいるの? すごいじゃない! 条件ってなんなの?」
「聞いたら、笑うぞ」
「笑わないから。ぜったい」
「お、応援団を作ってよ、この学園を守ること。って、やっぱ笑ってんじゃねーか!」
真っ赤になったシュカと、ありすとの間に、マイクを通した理事長の声が割りこんだ。
「え、そこのふたり、もう仲良くなったのかな、いいことです。え、もうすぐ話が終わるから、ちょっとだけね、がまんしなさい」
「……はーい。すみません」
ふたりの返事がきれいなユニゾンを奏でると、周囲から軽い笑い声がおこった。