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女王の龍は暁光に舞う  作者: 瀬尾ゆすら
第1章 旅立ち
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第4話 それはまるで誘惑に似た

「どうしたんだ、こんな夜中に」


 寝ぼけ眼をこすりながら、アルフはその場に立ち上がって王女を見た。

 いったい何の用事だろう。しばらく疎遠になっていたということもあって、一日に二度もリサと顔を合わせるのはなんだか新鮮だ。


 対するリサ王女は神妙な顔をしながら、後ろ手に扉を閉める。そのまま彼女は、物言いたげな眼差しをアルフに向けてきた。


 テラスから入り込む月の光が、夜闇の中、水色のローブを纏った王女の肌を白く浮かび上がらせる。

 王国一澄んだ泉と言われるヒダルゴ湖の水を閉じ込めたような、リサの瞳。アルフは昔から、この瞳に見つめられるのがどうも苦手だった。どこまでも透き通った眼差しに、まるですべてを見透かされているような気分になるからだ。

 

 目の前のリサは、何かを言うか言うまいか逡巡しているようだった。


 ――なんだか、胸騒ぎがする。

 

 穏やかな春の夜。

 できることなら、どうか。平穏が乱されることなく、早くこの局面が終わってほしいのだが――。


 アルフのそんな願いも虚しく、リサはついに行動を起こした。

 意を決したように、彼女はこちらに近づいてくる。静かすぎるこの部屋では、衣擦れの音すらいやに目立つ。 


 やがてアルフの眼前に向き合ったリサは、彼の瞳を見上げ、はっきりと発した。


「アルフ、わたしを誘拐して」と。


「……はぁ?」


 リサの言っている意味が分からず、アルフは素っ頓狂な声を上げる。

 ――「誘拐」? いったい何を言ってるんだ、この娘は?


 王女の口から出てきた物騒な単語に、起きたばかりで冴えない頭が混乱する。

 

 それでもアルフは今、自分の心が柄にもなく波立っているのを感じていた。

 引っ込み思案で自分の意見を言うのが苦手で、いつも誰かの陰に隠れてばかりいるリサ王女。そんな彼女が、こんなに強い眼差しをしてアルフの前に立ったことが、いまだかつてあっただろうか?


「リ、リサ。何を言っているんだ?」


 アルフはリサの真意を確かめるために、彼女の両肩に手を置いて、その青緑の瞳を覗き込んだ。すると目の前のリサは、精巧な硝子細工のような瞳いっぱいに涙を溜めながら、けれどしっかりとした視線でアルフを見つめ返してきた。

 そして、こう言い放ったのだ。


「わたし、女王になりたいの」と。


「え、……は……、じょ、女王……?」


 リサの更なる衝撃発言に気圧されたかのように、アルフは思わず一歩後ずさる。


 ――どういうことだ。どうなってるんだ?

 リサは、マエル皇太子と結婚するつもりじゃなかったのか?

 「女王」になりたい? 未だかつて、この国には存在しなかったものに……なりたいというのか?


 混乱を深めるアルフをよそに、リサはなおも言葉を続ける。


「わたし、今の自分のままじゃだめ……。今のわたしのままじゃ、女王になんてなれるわけがない。だから城の外の世界を見て、そこで暮らして、胸を張って『女王になる』って言えるようになりたいの。でもそのためには、誰にも見つからずにここを出なくちゃいけない。だから――お願い。エヴァンでわたしを城の外に出してほしい。出してくれたら、あとはどこかに置き去りにしてくれて構わないから――」

「待て。ちょっと待ってくれ、リサ!」


 アルフは右の手のひらをリサに向かって突き出し、彼女の言葉を制した。


「リサ、いま自分がどれだけ無謀なことを言っているか、分かっているか? ずっと箱庭の中で大切に育てられてきた娘がいきなり外に出て、ひとりで何ができると言うんだ?」

「城の外の民は、わたしの顔を知らないわ。だからわたし、素性を隠して、お仕事に就いて、市井の中で暮らしてみたい。自分の力だけで生きてみたい。そうして世の中を学びたいの」


 曇りなき眼で発された王女の言葉に、アルフは思わずため息をつく。頭はぐるぐるだ。さっきまで心地よいまどろみの中にいたのに、リサのせいで台無しじゃないか。


 今にも泣きそうになっているリサを見つめながら、アルフは必死に思慮を巡らせる。

 この国の慣例の一つに、「ディールの王族は成人するまで、城外の民に姿を見せてはならない」というものがある。リサ王女は現在まで、この慣例を必死に守っていた……というか、守らされていた。

 だからリサの言う通り、王女が身分を隠して街に潜入することは決して不可能ではないだろう。


 だが、世界は彼女が思っているほど甘くないはずだ。

 

 アルフは、テラスの向こうに広がる城下町に目をやった。

 「望めば何でも与えられる立場にあった娘が突然、一般社会にその身ひとつで飛び込む」――アルフには、その先に待ち受ける結末を容易に想像できてしまう。「やっぱり、わたしには無理」――そう言って泣きべそをかく、王女の姿が。


「……とりあえず、リサが自分の現状を変えたいと思っているのは理解した。だが、何故それを俺に話す?」

「『城を出て市井で勉強したい』なんて言っても、執政官や大臣たちはきっと反対するから」


 その点に関しては、リサに同意できた。

 2年前にリサの父エリック王が病死した現在、この国の政治の実権は傍系王族が握っている。王国の伝統を重んじる彼らは、リサ王女には控えめで淑やかなままマエル皇太子の妻になってほしがっているのだ。


「確かに彼らの協力は得られそうにないな。だが、仮に城を抜け出したとして、自分の身に何かあったらどうするつもりなんだ。せめて、サウードには気持ちを話してついてきてもらうべきだ。あいつ、剣の腕だけは――」


 話の途中でリサが胸に飛び込んできて、アルフはそれ以上言葉を続けられなくなった。


「リ、リサ……?」


 リサに抱きつかれたまま、アルフは硬直する。

 入浴を終えたばかりなのだろう。王女の体温はやや高く、さらさらとした銀髪からは花のような良い香りが漂ってくる。


 しんとした夜の静寂の中、リサの息遣いだけが聞こえる。

 胸の中の王女は何も答えない。泣いているのを隠したいのかもしれない。


 いつの間に、こんなに身長に差がついていたのだろう。体つきもそうだ。一緒に勉強をしていたあの頃は同じような背丈で、同じような体つきだったのに。

 こんなに細くてか弱い娘が女王を目指すだなんて、やっぱり無謀なのではないのだろうか。

 こんな小さな背中に、あらゆるものを背負えるだなんて思えない。


 アルフはもう一度説得を試みるため、リサを引き離そうと彼女の肩に手をかけた。


 しかし――。


「わたし、あなたがいいの」


 まっすぐにこちらを見上げる水晶のような瞳に、アルフは自分が何を言おうとしていたのかを忘れてしまった。


「どんな罰もどんな責任も、すべてわたしが負う。あなたのことは必ず守る。――だから、お願い。わたしをここから連れ出して……」


 「あなたを守る」――それは普通、サウードみたいな男が女に言う台詞だ。

 だがアルフは驚いたことに、本当に目の前の少女が守ってくれるような気がしたのだ。月の光に、いや、少女の宝石のような瞳の光にあてられて、自分は馬鹿になってしまったのかもしれない。


「お願い。わたし、あなたがいい」


 白魚のようなすべすべとした指先が、徹夜続きでぼろぼろのアルフの指先に絡んでくる。その手のあまりの柔らかさに、あたたかさに、これまで覚えた数学の公式や物理の法則が吹っ飛んでしまう気がした。


 ああ――なんて愚かなんだろう。


 気づけばアルフは、リサの手を引いてエヴァンに乗り込んでいた。

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