第17話 顕現する夢魔<2>
悪魔の放った黒炎が、ミラの右腕あたりを無情に燃やす。猛烈な炎はみるみるうちに燃え広がり、彼女の持っている銃すら溶かした。
「いやああああっ!」
烈火を浴びたミラは、あまりの熱さに持っていた銃を取り落とし、その場に蹲る。
「ミラぁッ!」
リサが友人の名を叫び駆け寄ろうとするのを、ミラの「来ちゃダメ!」という言葉が制した。
「あたしは……大丈夫……だから!」
焼けつく痛みに涙と汗を浮かべながら、ミラは水の魔法を唱えた。生成された水でなんとか炎を消化するも、右の手首から肩にかけて、ひどい火傷が残っている。
「ふふっ……やっぱり、飛べるのと飛べないのでは大違いよね」
壁画を背にしてこちらを見下ろす夢魔に、アルフは全てを悟っていた。
ミラの撃った弾が背中に触れた瞬間、奴は宙を飛んで爆発を逃れたのだ。
それでも、魔力爆発の衝撃を完全には回避できなかったようで、悪魔の背中からは黒い血がぽたぽたと伝い落ち、石床の表面を汚していた。
「いつの世もそう。人間は弱さを認めず、あたしたちに抵抗してきた」
サキュイラは背後を振り返ると、壁画に描かれたリファ・ディールを、黒く長い爪で引っ掻いた。
「悪魔と人間のあいだには、圧倒的な力の差がある。弱い生き物は、強い生き物に首を垂れなさい。それが自然の掟よ」
笑みを浮かべてそう述べる悪魔を見上げ、アルフは忌々しげに唇を噛む。あんな高さに飛ばれては、サーベルが届かない。それがまるで、生物としての差をまざまざと誇示されているようで、黒い革製の手袋を嵌めた彼の拳がわなわなと震えた。
「強い者が治める世の中のために、急いでやらなきゃいけないことがあるの。このまま見逃してやってもいいけど……あんた、あたしの術が効かないみたいだから。厄介だし、ここで死んでもらうわ」
そう言うとサキュイラは、再び炎の呪文の詠唱を開始する。
……ロバンは眠り、ミラは戦線離脱。ここから打開する策は一つだけだ。雷魔法でやつを感電させ、飛べなくなったところを一気に叩く。
だが、雷魔法の詠唱には時間がかかる。アルフの実力ではおそらく、相手の詠唱速度に勝てないだろう。せめてこの場に、魔法の得意な誰かがいれば――
そう思い至ったところで、はっとした。
――いるじゃないか。アルフの背後に、偉大なる魔女の子孫が。
……だが、リサを戦わせていいのか?
彼女は王女だ。こんな戦いの場とはかけ離れた存在のはず。王女が人ならざる悪魔と対峙するなど、本来あってはならないことなのだ。
「アルフ」
迷うアルフの背後から、リサが呼びかけてくる。アルフは彼女を振り返ることなく返事をした。
「わたし、アルフが考えてること、きっとできると思う」
サキュイラに聞かれないように小さく、けれどしっかりとした声音で発された言葉に、アルフは目を見開いて驚く。王女の凛とした声は、この状況を少しも恐れてはいない。
後ろにいるリサの表情は見えない。それでも、アルフは確信していた。
リサの澄んだ瞳はきっと、決意を漲らせて輝いている。あの日の夜、アルフの研究室で見せたそれと同じように。
王女の小さな手が、アルフの背にそっと触れる。その瞬間、彼は全ての迷いを振り切った。
「君の魔法なら、きっとできる。合図をするから、雷の魔法を頼む」
――守ってみせる。必ず。
約束したのだ。リサが女王になる姿を、この目で見届けると。
それを、こんなところで破らせてたまるか。
サキュイラがこちらに向かってさっと右手を構えた瞬間、アルフは王女の名を叫んだ。
「雷の鉄槌よ!」
合図に反応したリサが短く呪文を唱えると、あたりに閃光が迸る。空気中を一直線に稲妻が伝わり、夢魔の全身を縛りつけるように駆け巡った。
想像を絶する感電の痛みに耐えきれず、サキュイラは叫び声を上げて地に墜ち、翼から大量の羽根が抜け落ちる。
「今だ!」
アルフは悪魔の正面めがけて一目散に走ると、全身を掻き毟るようにしてもがく悪魔の口元に、銀の剣を突き立てた。
「ううううッ!」
皮膚を破かれ舌と喉を潰されたサキュイラは、言葉にならない呻き声を上げてのたうち回った。アルフの狙い通りだ。
舌を潰せば、言葉を出せない。言葉が出せなければ、魔法を唱えられない。手袋をしているから自分が感電する心配もない。
アルフは更なる追撃を仕掛けようと、ぴりぴりとした電気を纏う夢魔の身体めがけて、大きくサーベルを振りかぶる。
――そのとき。
痛みに顔を歪めるサキュイラがリサをキッと睨みつけ、左手を前方に突き出した。すると、地面に落ちていたサキュイラの黒い羽根が数枚、ふわりと宙に舞い上がり――次の瞬間、鋭利な刃物となって王女に襲いかかった。
「リサッ!」
考えるより先に、体が動く。
アルフはリサの方へ走ると、彼女の体を抱きかかえ、羽根の攻撃をかわそうと横っ飛びした。
しかし、その全てを避けきることはできず、黒い刃のうちの一枚が左脚の脛にグサリと突き刺さる。
「――ッ!」
リサを抱きしめたまま受け身をとったアルフは、左脚を貫いた鋭い痛みに声にならない声を上げた。破れた衣服からは血が噴き出し、リサの水色のローブの裾を赤く染める。
「アルフ……!」
リサが起き上がって止血しようとするのを、ぎゅっと抱きしめて阻止した。
その間に、感電の痛みからようやく解放されたサキュイラが、背中と口から血を流しながらも広間の出口へ向かおうとする。
「待って!」
アルフの腕の隙間からリサが叫ぶが、もちろん夢魔は相手にしない。
夢魔の姿はどんどん遠ざかり、歩いた跡には黒い血痕が残る。
「アルフ、放して! サキュイラを追わなきゃ!」
「ダメだ! 危険すぎる!」
アルフは、腕の中でもがくリサをなんとか窘めた。
「先に……ミラの手当てをしてやってくれ」
少し離れた正面で、焼けた右腕に水の魔法を纏わせながら、石の壁に凭れかかるミラに目をやる。いつもは元気いっぱいで気丈な少女は、眉間に皺を寄せ苦悶の表情を浮かべていた。
「俺の……『母』かもしれない人なんだ。頼む」
アルフがそう懇願すると、リサは納得したように頷き、彼の腕から抜け出してミラのもとへ駆け寄った。
その姿を見届けたアルフは、這いずるようにしてレオンのもとへ移動する。
大広間を支える柱の陰に横たわるレオンは冷たく、微動だにしない。
嫌な予感がしたアルフは、彼の胸元に手を当てたが……心臓はもう、動いていなかった。
「くそッ!」
アルフは叫び、石でできた床に拳を打ち付ける。硬い石にぶつけられた骨がじんじんと痛んだが、構うものか。
いともたやすく眠らされ、傷つけられた仲間たち。
人の命をなんとも思わぬ、歪んだ価値観。
宙を舞う羽に、生物の頂点とも言えるであろう身体能力。
あんな生物が――ディールの国土に解き放たれてしまった。
人間では、どうあっても敵わないというのだろうか。ならば、誰が奴らを滅ぼせるのか。
両手をついて震えるアルフを、壁画に描かれた龍神王がじっと見下ろしていた。




