第1話 物語のはじまり
「アルフ、わたしを誘拐して」
目の前の王女が発した言葉に、アルフレッド・ティンバーリアはしばし硬直した。
春の日の夜。アルフレッドの研究室の、テラスの一角で。
冬を抜けたばかりで、夜の外気はまだ少し肌寒いこの季節。
虫の声など聞こえるはずもない静かな夜に、王女の言葉が違和感だけを伴って浮かび上がっていた。
「……はぁ?」
ようやくアルフレッド――通称アルフ――が発せたその一言は、真夜中の闇に力なく溶けていく。それもそのはずだ。
ディール王国王女、リサ・ディール。天の川のような銀髪と、青緑の瞳を持つ目の前の彼女は、王国始まって以来の美女との呼び声高い。
城内での彼女の評判は、「内気」「大人しい」「淑やか」「ひかえめ」等々……。リサという人間は、「誘拐」などという物騒な単語を発する娘でないことは、幼馴染であるアルフが最もよく知っていた。
それでも、アルフは今、自分の心が柄にもなく波立っているのを感じていた。
引っ込み思案で自分の意見を言うのが苦手で、いつも誰かの陰に隠れてばかりいるリサ王女。そんな彼女が、こんなに強い眼差しをしてアルフの前に立ったことが、いまだかつてあっただろうか?
「リ、リサ。何を言っているんだ?」
アルフはリサの真意を確かめるために、彼女の両肩に手を置いて、その青緑の瞳を覗き込んだ。すると目の前のリサは、精巧な硝子細工のような瞳いっぱいに涙を溜めながら、けれどしっかりとした視線でアルフを見つめ返してきた。
そして、こう言い放ったのだ。
「わたし、女王になりたいの」と。
「え、……は……、じょ、女王……?」
リサの更なる衝撃発言に気圧されたかのように、アルフは思わず一歩後ずさる。
「『女王』になりたい」、だと?
未だかつて、この国には存在しなかったものに……なりたいというのか?
ずっと見ていると吸い込まれそうになる、緑柱石のようなリサの瞳。怖くなって目を逸らすと、テラスの向こう側に広がるディールの城下街が視界に飛び込んできた。
いつもは活気に満ち溢れており、人々の声や動物の鳴き声が歌うように木霊するディールの街。しかし今は深夜で、どの家からも明かりは漏れていない。城も街も、静かな眠りに落ちている。
だから今、こうして起きているのは――アルフとリサと、そして夜空に浮かぶ月と星だけ。
(な、なんでこんなことになってるんだ。なんなんだ、この状況は……)
涙をこぼすまいと必死に堪える目の前の少女を、もう一度見つめ直す。そうしながらアルフは、今日一日に起こったことを必死に思い返していた……。