罰より愛が欲しいと言おう
新条大和は異常者である。
彼は己にサイコパスの気があることを自覚しており、概ね周囲からの評価も同じだ。
彼は己が共感能力に欠ける人間であることを知っている。時に怪物と呼ばれることもある。しかし、可能であればその怪物性を誰かのために発揮したい。守るために使いたい。
ここで1つの問題が生じる。誰かのため、あるいは守るためとはどういうことなのかだ。何をすれば誰かのためになるのだろうか。どうすれば守ったと言えるのだろうか。
本当に誰かのためになったかどうかなど、分からない。もっと言えば、ある者にとっては破滅と言えることがある者にとっては救いとなる場合もある。
そんな不確か状態で、何をして他者のためになるというのかを見極めるのは非常に難しい。
「お前は何がしたいんだ」
誰が何を望んでいるかを確認する手っ取り早い方法の1つに、本人に直接聞くというものがある。
大和が今まさにしているように、だ。
しかし、これには大きな問題がある。聞かれた本人が素直に答えるとは限らないし、何なら本人も本当の望みを自覚していない場合があるということだ。
仄暗い願望を持つ者は、それが露見することを恐れる。下手にそれを周囲に悟られると、妨害あるいは迫害を受ける可能性があるからだ。
異常者とて異常者に生まれたかったわけではない。なりたかったわけでもない。そうなってしまっただけだ。生まれ持った性質と環境が生み出した思考パターンからは逃れられない。
それでも望んでしまう。それでも欲してしまう。その仄暗い欲求を誰かに明かすことなど、そうできるものではない
問われた白髪の少女が果たして欲求を明かせる者なのかどうかは、誰にも分からない。
「私はね。罰が欲しいんですよ。先輩」
彼女の言葉は果たして嘘か本当か。答えは彼女にしか分からない。
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罰より愛が欲しいと言おう
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田沼幸子という人間は、新条大和にとって未知の存在であった。
ドラマのオーディションで出会った同世代の俳優志望は、彼の親友である坂木陽子とはまた違った不透明さがある。
昼休み、大和はいつもとは違う場所で食事をとっていた。場所は1年1組の教室である。彼の隣の席には、幸子が居る。眠そうな目をしているが、それは見ようによっては不敵さに見えなくもない。
実際彼女は不敵である。そうでなければ、大和は今ここには居ない。2年生である彼が1年生の教室でご飯を食べるなど普通は気まずいのだから、当然だ。
しかし、幸子は彼にそれをさせてみせた。彼女はなんだかんだ言って、押しが強いのだ。
「私、思うんですよ。サカキとエンジュの初対面のやりとりって、単体だと意味不明じゃないですか。あそこだけ読んでも面白くないですよ」
「そりゃそうだろ。本番はサカキがエンジュに答え合わせをする部分なんだから。全ての意味が変わるやりとりのために、あの一見よく分からないやりとりが必要なんだろ」
「そうなんですけどねぇ。私、エンジュあまり好きじゃないんですよ」
「そうか」
「そうか、って……それだけですか? もっとこう、色々気になったりしません? 可愛い後輩のこと知りたくなりません?」
「ならない」
大和はご飯を口に運ぶと、咀嚼する。
どうやら幸子は彼女自身が演じることになったエンジュという人物が好きではないらしい。
確かに彼女の言う通り、エンジュとサカキのファーストコンタクトの場面は初見では意味が分からない。原作小説3巻の中盤で明かされるファーストコンタクトの種明かしは、同じ巻の終盤で行われる。
結局エンジュはただの人間で、サカキは人間の形をした怪物であることが分かるやりとりがそこに描かれているのだ。
幸子が出演する予定の映画では、原作3巻相当の事件を扱う。他の巻の情報も小出しするのだろうが、基本は3巻部分だ。既に1、2巻は実写映画になっており、その主役は続投らしい。
大和は他人事気分だが、彼もサカキ役でオーディションで採用されてしまっており、目下お断り中である。
「冷たいですね……共犯者になる仲なのに」
「ならない。俺は断った」
「でも、向こうは断られたことを断ってますよ。春休み頃に撮影する気満々ですよ」
「しつこい……そもそも俺なんてド素人なんだから、もっと上手い人他に居ただろ。それか人気芸人にでもやらせとけ」
「この人だとピンと来た人以外には任せたくないらしいです。あと、私が好きな作品で人気芸人に作風壊されたら刺殺したくなります」
「物騒だな、おい」
大和は元々オーディションに受かる筈がなかった。そもそも彼は陽子の付き添いでオーディションに参加したからだ。
それが蓋を開けてみれば、陽子は不採用で彼が採用されてしまった。運命の悪戯だとすれば悪趣味である。
謝罪と共にお断りの連絡を入れた大和であったが、生憎承諾されていない。どうも監督達は撮影する気満々らしい。サカキの出番は原作ではほとんどないので、大和に短期間だけ頑張らせる作戦なのかもしれない。
それにしたって、もっとはまり役が居る筈だ。大和のようなズブの素人を起用する意味がない。大和からすれば、彼を採用したのは明らかなミスに思える。
『人気芸人にでもやらせておけ』と横着なことを言えば、幸子がジト目でありえないと否定してきた
大和は今ここに居ない陽子のことを考え、どうしたものかと悩む。
「そうだ。今日から一緒に演技の練習しませんか? 共演で練習した方がやりやすいですし」
「他の誰かにやってもらえ。演劇部なら幾らでも適任が居るだろ」
「演劇部? 私は違いますよ」
「違うのか? なら、あの演技の巧さはなんだ」
てっきり幸子が演劇部かと思っていた大和だったが、どうやら違うらしい。
どちらにせよ、練習相手など演劇部に幾らでも居るのだから、そちらに頼んだ方がお互いのためになるのは間違いないのだが。
陽子の陰に隠れがちだが、この学校の演劇部は全体的にレベルが高いのだ。
「私、昔から子役で俳優やってますので。もっと言えば、実の両親も俳優です」
「ふぅん」
「リアクション薄いですね」
「有名人なら、もっとキャーキャー言われているもんじゃないのかと思っただけだ」
「私が出るのは基本マイナーなものなので。有名になっても、ウザい連中に絡まれるだけですし」
「……成程」
やはりと言うべきか、幸子は陽子と同類のようだ。
大和は幸子が静かに暮らしたい類の人間であることを改めて認識し、肩を竦めた。
「練習相手なら、演劇部の坂木陽子がいいぞ。あいつはお前くらい演技うまいし、『終わらないロンドの中で』もちゃんと読んでる。一発でサカキの役をやりきるだろうな」
「私、大和先輩とがいいです」
「下の名前で呼ぶな。馴れ馴れしい」
「おなしゃす、新条パイセン」
「何故ひっくりかえした」
陽子にとっては自分を蹴り落として採用された幸子に手を貸すのは癪であろう。
しかし、大和が考える限りこの学校で一番演技が上手いのは陽子だ。陽子にやらせるのが一番であることは言うまでもない。
「陽子に相談してみて、断られたら俺が代わりにやる。それでいいか?」
「はい。ありがとうございます。大和パイセン」
「名前で呼ぶな。馴れ馴れしい」
「ちょっと興奮してきました」
「するな」
いったいこの人間は何がしたいのだろうかと思いながら、大和は幸子との会話を続けた。
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陽子にとって、その話は青天の霹靂だった。
まさか彼女を蹴落としてオーディションで採用された人間が同じ学校に居て、その人物と演技の練習をして欲しいと大和に頼まれるとは思っていなかったのだ。
承諾こそしたものの、陽子は何かひっかかるものを覚えていた。
「ふぅん。君がねぇ。なんか白いね」
「はい。そういう先輩は黒いですね」
「シロとクロかぁ。犬か猫みたいだなぁ」
田沼幸子。1年1組に居る白髪の少女。これまで存在すら気づかなかった相手。
まさかこんな身近に陽子に並ぶ演技力の持ち主が居たなど、それだけでも青天の霹靂である。
しかし、それ以上に幸子が大和に既に接近していたことも、陽子が一緒ではない時に何かと付き纏うようになったらしいことも、全てが驚きだ。
大和は基本的に怖がられる。身長が高めなのもあるが、何より目力が強い。顔つきは悪くないが、猛禽類のような目で見られて身を竦めない者の方が少ないだろう。
大和本人は存外穏やかな人間だが、彼には独特の圧力がある。それは彼自身自覚しているように、所謂サイコパスの気があるからだ。
玉木綾のような異常者でもない限り、大和は恐怖の対象になりがちである。それに好き好んで近づく幸子は明らかにおかしい。
「……君さ。もしかして、僕と同類?」
「同類って何ですか。坂木先輩みたいな死にたがりって意味ですか?」
「……君の方が死にたがりの顔してるけどね」
「そうですか」
陽子はもしやと思い、幸子に同類ではないかと問うてみたが、半ば肯定に近い返答を受けた。
幸子はおそらく陽子と同じく、消極的に生きている人間だ。
陽子は生きることに積極的になれず、いつかは大和の手で殺されたいと思っている。せめて死ぬならば彼女の好きなように死にたいと考えているのだ。
もしかしたら、この幸子という後輩もまた同じではないかと彼女は思った。そして、幸子の反応を見るにそれはどうやら当たりらしい。
きっかけは不明だが、幸子は大和という怪物と出会ったことで己を終わらせてくれる理想的な存在を見出したのだろう。エンジュとサカキという二人組はまさにサカキがエンジュを終わらせる役目であった。幸子がエンジュであれば、大和がサカキといったところか
いずれにせよ、陽子としては幸子に死なれても困る。大和は彼女専用の怪物であって欲しいからだ。彼女自身を殺すための切り札だからだ
「私、『終わらないロンドの中で』のエンジュがお気に入りなんです。好きではないですけれど。私、サカキは好きです。お気に入りです。とっても怖くて、でもつい探したくなるんです。それで、見つけたんです。あの日、私の隣に居たんです」
「……サカキは最後エンジュを殺すが?」
「いいじゃないですか。あれは、サカキがエンジュを終わらせてくれたんです。願望器が願望に応えたんですよ。サカキは確かに怪物かもしれないけれど、優しいんだなって思いました。あれはきっと、本気でエンジュのためにやったことだと思うんです」
「……大和にそれをさせるつもりなら、許さないぞ。あいつにはあいつの人生があるんだ」
「あれ? おかしいなぁ。坂木先輩も同じこと考えているんじゃないですか?」
「っ……ふざけないでくれ。僕だって――僕……だって……?」
幸子の願望を否定した陽子は、己の中にあるものに驚く。
幸子の言う通り、陽子は大和に己を殺させようとしている。しかし、それは最後の手段だ。
そして、彼女は彼女自身が思っている以上に生きることに前向きだった。いや、死ぬことに否定的だったと言うべきか。幸子はまさに陽子と同じことをしようとしているのだと分かった瞬間、最初に感じたのは『バカなことを』という感情だったのだ。
自分は大和を利用して自殺しようと考えている癖に、同じことを幸子がしようと企んでいることを察知して最初に否定的な感想を抱くのはおかしい。
確かに自分のためでもあっただろう。先に幸子に大和を利用されたら彼女が死ねないという思いも確かにあっただろう。
しかし、それ以上に陽子は幸子の危うさに呆れていたのだ。
「とにかく、僕並みに演技ができるなら十分生きていけるだろう。僕を蹴落としてエンジュの役に選ばれたくらいなんだから、凄いことさ。それでも生きることに希望が持てないってことは……『自分がない』ってことかな?」
「……流石に鋭いですね。鏡合わせと言った方が近いのかもしれませんが。いずれにせよ、その推測を肯定しましょう。先輩がそうなった経緯は知りませんが、私のは至って単純ですよ……家族が死んで、一人になった時に誰も助けてくれなかったんです。弟が病死して、両親が事故死して、私を引き取ってくれた家でもギクシャクして、他の子たちと上手くいかなくて……明らかに家庭環境に難ありです。もう無茶苦茶です」
「……消えたいと、思った?」
「ええ。本当はこんなペラペラ話すようなことではありませんが……ここまで来ると逆に普通に話せるものなんですね」
「いや、それは君がおかしいからだと思う」
幸子の境遇を聞き、陽子は幸子がエンジュのような境遇であることを悟る。
幸子がエンジュに妙に感情移入してしまうのも、サカキのような存在である大和に接近したのも、きっとそういうことなのだ。
陽子は幸子がかなり頭のイっている人間だと理解した。本来こんなペラペラと自分の辛いことを話せはしない。もっと隠したくなるものだ。こんなあっさり話されたら真っ赤な嘘だと思う。
陽子は幸子が己と似た傾向の環境で育ったことを予測できたので、真実だろうと直感したが、普通はそうは思わない。
陽子は幸子が己よりも精神的に重症であることを感じた。己はまだまともなのだと重症者を見て理解したのだ。
下には下が居るという言葉が似合う状況であった。
「……大和のことは好きかい?」
「好きですよ。ぼっちの私にも普通に話してくれますし。話していて楽しいですし。それに……私を罰してくれる人ですもん」
「……君はエンジュじゃないし、あいつはサカキじゃないよ」
「そうですね。でも……あの人は本当に凄い化け物です。初めて見かけた時、ゾワッときました。全身に電流がビリビリ走ったのかと思いましたよ。先輩もそうでしょう? 初めて見た時見惚れたんじゃないですか?」
「……」
幸子の言いたいことは、陽子にも分かる。
陽子は初めて彼の怪物性を目の当たりにした時、戦慄したものだ。
世界にはこんな凄まじい怪物が実在するのかと、心の底から驚き、惹かれた。その飽くなき怪物性をいつまでも見ていたいとすら思った。
彼女が大和と仲良くなろうと思ったのも、全ては彼の怪物性に魅入られてしまったからに他ならない。いつか排除されてもおかしくない怪物は、しかし上手に潜み、彼女達を助けた。
陽子は大和という不思議な怪物の物語を楽しみたい。あまつさえその物語に役者として参加すらしようとしている。一つの物語を描こうとしている。
彼女の目下の生きる理由はそんなものであった。しかし、それだけで彼女は生きることが楽しくなる。それだけでよかった。
「なら、大和を生きる理由にすればいいじゃないか」
「……はい?」
「僕はね。あいつが居るから今こうして生きているんだ。あいつが僕の世界に色をくれるから本気で笑えるんだ。あいつが居なくなったら、多分死んじゃうだろうけどね」
「……その大和先輩を自殺に利用しようとしているとか、人でなしですか?」
「人でなしで結構。これが僕なんだ」
「はぁ。そうですか」
陽子自身、己の発言に驚いた。
大和を生きる理由にする。それはただの依存だ。自分の存在理由を他者に押し付ける卑怯者の考えだ。
しかし、それが陽子だ。幸子の言う通り人でなしだとしても、陽子にはそうすることしかできない。今の彼女にはこれが限界だ。誰かを存在理由にすることでしか生きたいと思えない。
そして、幸子はそれすらできていない。綾のように生きたいように生きて死にたいように死ぬような身勝手さもなく、陽子にように誰かに依存してでも生きようとすることもしない。
それは良く言えば潔く、悪く言えば毒にも薬にもならぬ生き方であった。
もう少し足掻いたらどうだと、陽子は言いたいのだ。彼女自身消えたいと思っている癖に、だ。
「僕は生きるよ。だから君も生きなよ」
「……よく分からない人ですね」
「そうかいな? ウチからすれば分かり易いけどなぁ」
陽子の言葉を聞き、幸子が首を傾げる。
よく分からないと言った幸子に対して、第三者の言葉がかけられた。陽子が振りむけば、そこに居るのは黄金の狐を思わせる少女。
「玉木綾……」
大和とは別の方向性を持つ怪物がそこに居た。
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玉木綾は最高の死に方を求める異常者である。
彼女は幼い頃に新条大和との喧嘩で味わった恍惚を再現する日を夢見て生きている。
彼女は生きたいように生きて、死にたいように死ぬ。そういう我儘な性格だ。基本的に周囲からは寛容だと思われているが、それは関心が薄いからである。
綾とて興味がないわけではない。退屈な日々もけして悪くない。友達とのやりとりも楽しい。それはけして嘘ではない。彼女の本心だ。
しかし、彼女が求めるのは最高の死だ。最高の絶頂の中で死ぬことだ。彼女にとって死とは逃げではない。死ぬならば最高の快楽の中でと思っているくらいだ。
だからこそ、田沼幸子という人間の出現に彼女は呆れた。
死にたいのか生きたいのかよく分からない人間がまた一人大和の傍に増えてしまったからだ。
「陽キャ先輩……」
「はは。なんや、それ。それよりも、あんさんらまだ生きるか死ぬかの話しとるん? いいかげん好きに生きて好きに死ぬようにしいねぇ。どうせ死ぬなら楽しく死ぬ方がえぇで。死ぬまでの時間も楽しい方が絶対にえぇわ」
「陽キャ特有の根拠のない楽観的発言……」
「ウチはもう死に方は決めとるし、それに向けて一歩一歩進んどる。死ぬなら楽しく気持ちよく死ななあかんで」
「楽しく死ぬ?……そんなの無理です」
「なら生きぃや。死にたくないっちゅーことやろ」
田沼幸子の言葉は綾には少しも響かない。
彼女は警察官である父と児童相談所で働く母の間に生まれた第一子だ。
幸子や陽子のようなタイプの人間は沢山見てきたし、そういう話も両親から何度も聞いてきた。綾は昔からそういうことに興味があったのだ。良識ある両親は最初こそ話そうとしなかったが、彼女の熱量に負けて個人名を伏せて色々な事例を教えてくれた。
綾は図太い神経の持ち主だと言われることが多いが、実際のところサイコパスなのである。彼女自身それは自覚している。だからこそ、今もズケズケと言葉が出てくる。
本来であればもっとオブラートに包んで話すべき境遇の者達だろうが、彼女には関係ない。
この二人が死のうが生きようが、彼女にはどうでもいいのだ。
「生きたい?……そんな筈ないじゃないですか。私は消えてしまいたいんです。だから大和先輩に……それを邪魔するつもりですか?」
「知らんがな。あんさんの生死なんぞどうでもえぇや。本気で死にたいなら勝手に死ねばいいわな。ただ、この坂木陽子みたいに実は誰かに生きろと言って欲しいワガママちゃんと同じなら、生きるべきやね。後悔するから」
「誰がワガママちゃんだ」
「死にたきゃさっさと死ね。生きたけりゃ生きろ。それだけのことさね。中途半端なのが一番ダメやわ。ウチはそういうの嫌なんやよ。そのメリハリあってこそ気持ちいいんやわ」
綾とて悩まないわけではないが、ずっと悩み続けるような性質でもない。
彼女は考え、決める。今はまだ決断すべきでないと判断すれば先延ばしにすることもあるが、それは状況好転を期待してのものだ。
玉木綾は退屈な日々を生きているが、それを楽しんでもいる。けして消極的に生きているわけではない。彼女なりに楽しく生きているのだ。
そんな彼女にとって、幸子の意見は随分とつまらない。幸子には幸子の価値観があるとはいえ、綾からすればつまらないことこの上ない。
生きたいのか死にたいのか分からないなら、足掻いてみせろと彼女は思うのだ。
「……訳分からないです」
「誰が分かれなんて言うた? 自分が本当に何をしたいのか確信がないなら、もう少し迷ってみればえぇやない。その結果死のうが生きようが、どうでもいいわ。ほなな」
綾は幸子に言いたいことだけ言うと、その場を後にする。
大和の周囲に面白い変化があったと聞いて様子を見に来た彼女であったが、思いのほか退屈だった。
ただの坂木陽子の同類であれば、どうでもいい。綾にとっては無価値だ。勝手に生きるなり死ぬなりすればいいとさえ彼女は思っている。
彼女は自分のしたいように生きて死ぬだけでよかった。それだけで十分だったのだ。実にシンプルで、我儘だが、それが彼女だ
綾にとって、陽子も幸子もただの退屈の一部である。
「まったく……」
時間を無駄にしたと思いながら、綾は部活に向かった。
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大和は演劇部の練習会場へと向かっていた。
幸子に陽子と練習をすればいいと言ったとはいえ、上手くいくとは思わなかったからだ。
とっくに二人は面倒ごとを起こしており、今更行ったところで意味はない可能性もある。それでも完全に放置するよりはマシであると判断し、大和は二人が居るであろう場所に向かっていた。
すると、彼は曲がり角でバッタリ幸子と鉢合わせた。
「あ、大和先輩」
「田沼。陽子とはちゃんと話せたのか?」
「まぁ……そこそこです」
「そうか」
幸子は何とも言えない表情を浮かべていた。
陽子と明確に対立こそしなかったが友好的な関係にもなれなかった、といったところであろう。
後で陽子から話を聞く必要があるが、まずは幸子が先である。
「今日はこれからどうするんだ?」
「今日はもう帰ります。やっぱり練習は大和先輩としたいですし」
「そうか……まぁ、場合によってはそれでいいぞ。とりあえず、家まで送ろう。家が近いんだろう?」
「……送り狼になるつもりですか?」
「妖怪かよ。こけたら起こすだけだから安心しろ」
幸子はもう帰るらしいので、大和は彼女を家まで送ることにした。
幸子の家がどこであろうが彼の知ったことではないが、この目立ちやすい容姿では面倒ごとも多いだろうと思ったのだ。
「大和先輩……生きたいって思ったこと、あります?」
「……毎日思ってる」
幸子の問に、大和は正直に答えた。
彼は毎日生きたいと思っている。思わない日はない。生きたいという願いがあるからこそ、彼は毎日を大切に生きたいと思っている。
「そうですか……大和先輩をひとまずの生きる理由にしてもいいですか?」
「……そういうのはペラペラ話すことじゃないんだよ」
「いいですか?」
「……好きにしろ」
幸子の問は酷く身勝手だ。最高に自分勝手で、他人に己の命の重さを押し付ける最低と言える行いだ。
大和は好きにしろと言ったが、その裏には幸子への一種の諦めがあった。もし本当に誰かを生きる理由にせねば生きていけないならば、どこかで尽き果てる。
ここで彼がどう反応しようが結果は変わらないだろうとすら思ったのだ。
「……帰りましょうか」
「お前を家まで送ったら、俺はまた学校に戻るさ。演劇部が荒れてそうだからな」
「大和先輩、演劇部でしたっけ?」
「いや。でも友人は多いぞ」
大和は幸子と並んで歩きながら、今後のことを考える。
やらねばいけないこともやりたいことも多い。無限大の可能性とは言えないが、彼の行動次第で今後は変わる。
彼は彼が望む道を進むのだ。
「……手、繋いでもいいですか?」
「厚かましいぞ」
「えへへ……」
「何がおかしい」
「なんでもありません」
陽子の件。綾の件。そしてこの幸子の件。
大和は高校卒業までのこの3件にひとまずの区切りをつけねばならない。中々どうして苦戦が予想されるが、彼は己の最善をつくすだけだ。
それでいいと思いながら、彼は歩く。
「あ! よければ先輩の家にあがってもいいですか!?」
「お前話聞いてたか?」
考え、感じ、行動する。その基本を忘れるなと己に言い聞かせながら、大和は進んだ。