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崩壊願望  作者: 修羅場ーバリアン
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殺してくれとは言えない



 この世で最も己を高揚させるものは何か――多少考えを巡らせる機会あがれば、一度くらいはそのことを想像したことはあるだろう。


 人は興奮というものを望む。娯楽とはまさにそういうものだ。スリルを求めて犯罪行為に走る者だって存在する。人は興奮を求める生物とすら言えるだろう。

しかし、興奮というものはこの世で最も再現性が低い。言葉にすれば同じでも、その内情は大きく異なるのだ。

同じシチュエーションでも、一度目の快楽に二度目の快楽は敵わない。何度最初の不意打ちの高揚を再現しようとしても、二度目移行の興奮は劣化したものだ。


 だからこそ、興奮のみを求める者はより過激に、苛烈になっていく。




「次! はよ来いやぁ!」


「うひゃあ……玉木先輩相変わらず強いぃ……」


「ていうか、強過ぎでしょ……息切れしてるとこ見たことない……」


「ほな、失礼!」


「うわ。またアッサリこかした」



 とある高校の道場にて無茶ともいえる連戦の組み手を行う少女もまた、興奮を求める人間である。


 煌めく黄金の髪の毛をショートボブにした少女は、170cm を超える長身と鍛え上げた四肢で相手を次々とこかしていく。

柔道というものは極論すれば相手をこかすものだが、その少女はそれはもう拍子抜けするほどアッサリ相手をこかす。相手が無抵抗に見えるくらいだ。

それを傍で見ている者達は彼女の圧倒的な力量に感嘆する。あまりにも綺麗に相手を転がすので、無理もないだろう。

不敵な笑みを浮かべる少女は、糸目である。その目が何を映しているのかは分からない。ただ、ひたすら相手をこかす。それはもう笑えるくらいアッサリとだ。


 周囲はそんな彼女に圧倒され、畏怖とも言える眼差しを向ける。



「あ、綾。そのくらいにしておこう?」


「んぁ? 終いか、桜?」


「組み合わせを変えた方がいいから」


「ほなそうすっか」



 部長らしき少女からの提案に、糸目の少女は頷く。


 これは、興奮を求める異常者の物語である。



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殺してくれとは言えない

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 玉木綾たまき あやは現在高校二年生である。


 彼女は警察官である父と児童相談所で働く母の間に生まれた第一子だ。

過去何度も引っ越しを繰り返した彼女は現在田舎からは都会と言われ、都会からは田舎と言われる絶妙に中途半端な地方で高校生活を送っている。もうすぐ大学受験を控えており、将来の分岐点の一つが近づいている。

一年半もすれば、大学受験。試験傾向が大きく変わるという話もあり、教師陣はその対応でてんやわんやである。そんな中でも、綾は特に揺らぐことなく日々を過ごしていた。

彼女は元々自分の道を決めており、そのために必要な学力は既に身に着けていたのだ。綾は周囲に文武両道と持て囃されているが、そう思われるだけの積み重ねをしてきただけである。


 そもそも、彼女の関心は他にあった。他の全ては彼女にとって細事だ。




「は~。次の模試が憂鬱……」


「あたしも~」


「なんや。志望校の判定厳しいんか?」


「う~。そうだよ。D判定とかどうすればいいんだろ……」



 昼休み、教室で仲の良い同級生たちと一緒に昼食をとりながら、綾は笑う。


 親友である新堂桜しんどうさくらを除けば、付き合いは表面的な部分も多いが、友達とはそういうものではある。

漫画などの創作物に出てくる熱く、堅い友情など現実ではほとんどない。現実の友情はとてもドライで脆い。しかし、そういうものなのだ。変に夢を見てはいけないのだ。

数十年前ならばいざ知らず、そこまで誰かに入れ込む余裕など現代ではない。個々が果たすべき役割は増え、求められる制約は増え、雁字搦めの毎日を生きる中、他人に構う余裕は前の世代よりも明らかになくなりつつある。

親子間の会話でもそれは如実に現れることを綾は知っている。彼女の親もそういう世代間の変化……言い換えれば時代の変化にしっかりついていっているのだから。


 父は警察官。母は自動相談所の職員。これでそういう情勢に疎くなるわけがない。

綾は今同世代がどういう傾向にあるかを実際に交流して感じ取り、両親との会話の中で外からどう見えているかも把握していた。

友達というものはかなりドライだが、それでも構わないと彼女は思う。綾が欲しているものはそんなものではないのだから。

彼女は幼い頃からずっと一つの探し物をしている。それを見つけること以外は、彼女にとって細事である。


 いつも不敵な笑顔を浮かべる彼女は、その雰囲気通りとてもドライであった。




「まぁまだ一年はあるけん。気にせんことね」


「綾はいつもA判定だよね……どこでも行けるっていいな~」


「うちは親が厳しいけんね。必死にやらんといけんのよ」


「相変わらず綾は色々な方言混ざってるね~」


「引っ越ししまくった弊害やなぁ。高校からは落ち着いたけどなぁ」



 友人たちとのやりとりの中、綾の方言は際立つ。


 綾は十七年で六回引っ越しを経験した身である。両親が飛び回る立場だったこともあり、彼女は色々な地方に引っ越した。短期間での引っ越しも珍しくなく、故郷と呼べる場所は彼女にはない。

生まれた場所が故郷だとしても、そこに住んでいたのは六年程度である。最初の引っ越しは彼女が六歳の頃だった筈なのだから。

高校に入ってからは両親も異動する気配を見せないが、両者ともにそれぞれの職場のエースである。必要があればまた最前線に向かってしまうだろう。

その時また引っ越すのか、それとも今の立場を継続するか。どちらであろうが、綾は自分の目的を達成できればいい。


 もっとも、その目的の達成がとんでもなく難しいのだが。




「綾って本当に怖いものなしだよねぇ。度胸あるし、柔道すっごく強いし、頭もいいし、かっこいいし……ヤダ、完璧超人?」


「確かに~」


「アホ言うなや。うちもただの人間やで。できることとできないことがあるんや。それに、あんま強なうてもゴリラ扱いされるけんね」


「まぁ、綾は身長高いし、男子ボコボコにできちゃうくらい強いもんね。本当の武道やってるんだっけ?」


「せやね」



 綾の173cm の身長は周囲と比べて明らかに高く、目立つ。


 男性であればもっと大きい人物は居るが、やはり綾の身長は高い。

高身長の女性はそれをコンプレックスに思い場合もあるらしいが、彼女はそう思ったことは一度もない。寧ろ頑丈な体に生まれて良かったとすら思っている。

綾は同世代の男子と比べても明らかに抜きんでており、喧嘩で負けたことは一度しかない。その一回の黒星を叩きつけた者こそが彼女が追い求めているものであるのだが、中々どうしてその機会は訪れない。

綾は確かに強くなった。武道を身に着けていく中で心身ともに強くなっただろう。それでも、その黒星の時の経験は彼女の心身に焼き付いている。


 綾はずっと過去の出来事で感じたものと現在の感覚を比較して生きているのだ。




「完璧超人といえば、うちのクラスの坂木さんも凄いよね」


「ああ。桜のクラスにそんなのおったなぁ。あの頭クルクルパーなのやろ?」


「あはは……確かに独特ではあるけど、ものすごく頭いいよ。テストで赤点とったかと思えば、追試で普通に満点とったりするから」


「でも運動ダメダメやん。この前の長距離走、ドベのドベやったたろ? 去年の持久走とか途中でコース外れて買い食いしてたらしいし」


「坂木は変人だからなぁ。去年同じクラスだったけど、やばかったわ。滅茶苦茶話し方ウザいし」


「まぁ、悪い人ではないよね。変人だけど」



 不意に桜がとある人物を話題に出した。


 坂木陽子。桜と同じクラスに所属しており、その変人っぷりで有名な人物だ。

頭はいいらしいことは綾も知っている。話を聞く限り、自頭の良さでいえば彼女よりも上であろう。しかし、陽子は運動オンチな上に、酷く自堕落だ。才能を発揮するのに誰かの献身が必要なダメ人間タイプだ。

綾は坂木陽子に興味などない。ああいうわざとらしい人間は、その実酷く脆いのだ。己を守るための仮面が必要なのだ。

両親の影響で人を見る目はある綾には、陽子が実際は臆病な人間であると察していた。それが事実であろうがなかろうが、彼女にはどうでもいいことだが。


 そんなことよりも、彼女は追い求めているものがあるのだ。




「変人といえば、あの坂木と仲良くしてる新条もアレだわ」


「新条? 誰やっけ?」


「ほら。あの視線だけで相手を殺せそうな感じのやつ。実際殺してそうじゃん?」


「ほぉ? そんなやつ居ったんか。何部?」


「帰宅部じゃない? 帰り道に小動物とか殺してそう」


「マジか。おもろいなぁ」



 坂木陽子の次に出てきた名前に、綾は興味を示す。


 どうやらこの変哲もない学校にも、彼女の興味を引く存在が居るらしい。

綾は新堂桜を始めとする友人達のことは嫌いではない。どちらかと言えば好きと言って良いくらいであろう。

しかし、響かない。全ては他愛ない時間に過ぎず、彼女が望むものには程遠い。彼女が本当に欲しい色はここにはない。

そんな退屈な日々に、異物が存在する。その異質さは綾が望む類のものかもしれない。そんなに凄まじい存在がここに居るなど、彼女は知らなかった。

知らないならば知らねばいけない。知りたい。知るのだ。


 綾は不敵な笑みを更に深めた。




「どこが! サイコパスじゃん!」


「ウチもちっさい頃はバッタ取ってたで。胴体もいで、暫く動くの観察しとったわ。トンボも手で握って弱ってくの見とったなぁ」


「ただの虫じゃん! 虫は別問題っしょ!」


「ていうか、あたし虫ムリだし!」


「あはは……綾は虫平気だもんね」



 苦笑する桜。呆れる同級生たち。


 綾は笑みを崩さず、そんな同級生たちをただ見る。

退屈な日々。それも悪くはない。悪くはないが、綾が欲しいものはここにはない。彼女はもっと刺激的なものが欲しい。

その糸口になるかもしれない名前が出てきたのだ。彼女としては自分の目的に即した存在なのかを知りたいところである。

もっとも、小動物がどうこうでは意味がない。本当にサイコパスなのだとすれば、彼女の願いは果たされない。彼女はかつて描かれたストーリーを再現したいのだから、それには燃え盛る炎のように熱い情熱が必要だ。身を焦がす程の怒りが必要だ。凍るような冷静さが必要だ。


 綾は己を満たしてくれる怪物を探している。




「桜、ご飯食べ終わったらそいつのとこ案内してな~」


「いいけど、何するの?」


「ん? 特に何もせんわ。見るだけやって」


「でも、綾が興味持つような人じゃないよ?」


「ええやんけええやんけ」



 綾は笑う。ただ己の望みを胸に抱きながら。








 新条大和は社会病質者の傾向がある。


 所謂サイコパスであるが、彼倫理観というものが希薄だ。

倫理とは経験によってのみ育まれるものだが、脳に異常があるとその発達は上手くいかないことがあるらしい。

彼は、己もそうなのではないかと思いながら日々を生きている。己は異常者なのではと思えれば、それは異常者ではない証拠という言い分もあるが、そんなもの実際に己がおかしいと感じる時には慰めにもならない。

そもそも“おかしい”の定義は社会規範からのズレである。こうあるべきというステレオタイプからのズレだ。昨今ステレオタイプは否定されつつあり、多様性の時代に突入したが、その影響からかズレが顕在化する者が増えたという。


 大和もまたその一人なのかもしれない。




「う~ん。やっぱり教室で食べるよりも、こういう静かな場所で食べる方がいいなぁ!」


「確かに静かな方がいいのは間違いない。だが、その発言は陰キャだぞ」


「この天才美少女が陰キャなわけないだろう! ただ、食事というものはだね! 静かで、救われていないといけないんだよ!」


「お前が静かじゃないけどな」



 通っている高等学校の昼休み、大和は体育館横にあるベンチに腰掛け、親友と言える坂木陽子と共に昼食をとっていた。


 いつもは教室で昼食を取るのだが、今回は陽子が場所を変えたいと言い出したのだ。

季節は真夏。例年であれば炎天下に晒されるものだが、今年は冷夏である。冷房が効いた部屋に居ると寒さを覚えることもあるくらいだ。

最近は木陰に居るだけで十分涼しいため、日頃は外に出たがらない陽子も場所を変えたいと言い出したわけである。彼女曰く、教室はうるさいらしい。

陽子は陰キャではないと自称するし、実際対面では明るい人物だ。悩みで曇ることはあれども、本来明朗快活な人物であることは間違いない。


 しかし、陽子は所謂陽キャなるものとの関わりを嫌がる傾向にあった。




「そうだ。今週末もお邪魔するよ。一緒に色々ドラマを見ようじゃないか」


「受験対策」


「うるさいなぁ。そんなもの、この天才美少女にかかればお茶の子さいさいだよ、きみぃ」


「ならひとりでやってろ。今後助けなんぞ求めてくるなよ」


「助けてください死んでしまいます」


「変わり身早いな」



 艶やかな烏羽色の長髪を揺らし、陽子が笑う。勝ち誇る。困った表情を浮かべる。


 その全てがとても眩しく思え、大和もまた笑う。

黒曜石を思わせる黒の眼は美しく、目鼻立ちの整った顔は容姿端麗と呼ぶにふさわしい。まさしく彼女は美少女である。

対する大和は切れ長の眼を細める。その色は赤みがかった茶色。日本人にしては色素が薄いが、そういう目の持ち主は存外居るものである。

目の色が違うと見える世界の色合いも異なるらしいが、大和と陽子では文字通り見えている色は違うのだろう。

日本人は黒目が多く、西洋人は碧眼などが多い。この場合、日本人から見て暗過ぎるものも西洋人には普通に見える。逆に日本人にとって丁度良い明度は西洋人から見て明る過ぎる。目の色で見える世界の色は変わるのだ。

陽子から見える景色は、大和の見ている景色と同じようで違う。認識を通して感じ方は変わる。


 陽子の見る世界が自分のそれよりも色鮮やかであって欲しい――大和はそう思う。




「まったく。こんな美少女にお願いされて断りなんてしないだろうね?」


「そんなつもりはなかったけど、その顔を見てると無性に断りたくなってきた。なんでだろうな。ムカつくから?」


「酷いなぁ!?」


「まぁ、断らないさ。それよりも、最近演劇の方はどうなんだ?」


「順調順調! 僕は天才美少女だからね! 元々演劇部でも一人突出していて浮くくらいの天才だ!」


「それはただ浮いているだけだろ」



 陽子が笑う。その笑顔は本当に容姿端麗故に目の保養になるのだろう。


 しかし、彼女の笑顔は時折下手くそと言えるものになる。

大和自身、上手く笑える人間ではない。しかし、彼は陽子が時折見せる笑顔の歪さに気づいていた。貼り付けた笑みを浮かべる時の彼女は本当にくすんでいる。輝きが見えない。

大和は上手く笑えない。だが、自然な笑いを知っている。陽子の自然な笑みは本当に綺麗で、大和はその笑顔を見るのが好きだった。彼女だけではない、彼がこれまで関わってきた人間全てに対して、彼は自然な笑顔を見たいと思った。見る度に癒された。

自然と出る笑顔は、周囲も笑顔にしてしまう。それは自然と伝搬し、共有される。大和はそれが好きだった。その光景を見るのが本当に心地よかった。

だからこそ、それを壊そうとするものを彼は嫌う。誰かが笑顔で歩む未来を徒に潰そうとする輩に対する怒りが炎となって燃え上がるのだ。


 大和はこれまでそうして生きてきた。




「その内本物の売れっ子役者になってみせるから、覚悟しておきたまえ!」


「何をだ」


「ラジオやイベントのゲストとして呼ばれる度に、僕の友人としてその弱みを日本中にバラまく!」


「やめろ。普通に迷惑だわ」



 陽子は役者としての道を進もうとしており、実際その演技力はずば抜けている。


 彼女が冗談めいて言った通り、同世代の演技力などでは歯牙にもかからない。よく映画やテレビで棒演技と言われている者達よりも余程上手い。

陽子は間違いなく天才だ。まだ伸びしろもある。大和はそんな彼女の成長を見守っている。それはまるで兄が弟や妹を見ているような気分と言ってもいい。

大和は長男である。弟との間に葛藤がない訳ではないが、兄としてやるべきことがあると感じている。たとえそれが後天的に得た習慣でしかないとしても、だ。

人というものは後天的に形成される。今の大和も、生後の様々な経験が作り出した人工的なものだ。自然と生じたものではない。訓練によってのみ人間は人間になるのだ。

大和という人間は兄として訓練され、その性質を他の者達にも向けてきた。彼自身はあまり自覚がないが、自然と彼を頼る者も出てくるのだ。


 陽子はそんな彼を頼る人物の典型例である。




「そう言われると余計にやりたくなるなぁ! 社会的に抹殺だな!」


「そこまでするなら、命を落とす覚悟はしておけよ」


「本気でやられそう」


「やるぞ」


「怖いなぁ。ならやめておこう」



 陽子と大和のバカみたいなやりとり。なんてことはない他愛ないじゃれあい。


 それが陽子にとって少しでも安らぎになればと、大和は思う。

彼には陽子の苦しみを真の意味で理解することはできない。そんなもの、同一人物ではないのだから不可能だ。人間は己の心すらも分からないことがある生き物だというのに、他人の心を理解できるわけがない。できるなど傲慢な物言いだ。

大和にできることは、ただ彼女が自然に笑える環境を用意することである。そして、そのためには彼はただいつも通りで居れば良いのだ。変に気を遣えば陽子はすぐに気づいてしまうのだから。

陽子は演技派だけのことはあり、拙い演技など瞬く間に見破る。大和自身、演技は上手くない。ならば、彼はただいつも通りであるべきなのだ。


 彼は彼にできることをするのである。




「あ。そういえば五限の漢文の宿題まだ終わってなかったな。やらないと」


「おや? おやおや? 君もそういうことがあるんだねぇ?」


「鬱陶しいな。あるに決まってるだろ。人間なんだから。食べ終わったら一旦ノートと教科書取って戻ってくるわ」


「了解!」



 陽子が笑う。自然に笑って、輝いていると形容できる姿を見せつける。


 大和にはそれだけで十分だった。










 陽子は大和によって生かされている半死半生の存在だ。


 彼女は生きることに飽きかけている。己の存在意義が見いだせず、ただ死んだように生きている。

大和という怪物が生み出す物語の続きを見たい、あまつさえそこに己も参加したいという欲望あってこそ、陽子は今日を生きることができるのだ。

両親からの愛など期待できない。ぶつかりあう姉妹も一人っ子故に居ない。胸の内を曝け出せる友人も居ない。彼女の弱さを真に曝け出せる相手など、彼女の弱さが拒絶してしまう。

弱さを打ち明けることができるか否かは、大抵の場合家庭環境で決まる。そういうものを受け止めてくれる誰かが居れば、人は己の弱さを打ち明けることができるように育つ。そして、それは精神的余裕に直結するのだ。


 陽子の両親はその意味では落第である。

双方ともに己の仕事にのめりこみ、夫婦間に愛などないと言える。間に生まれた陽子も愛されてはいないだろう。そんな家庭で一人っ子として育てば、弱さを曝け出せる機会など皆無だ。

姉妹の一人も居れば違ったかもしれない。だが、陽子にそんなものは居ない。居ないのだ。彼女は両親に親としての役割すらも期待できず、早熟であらざるをえなかった。

早熟と言えば聞こえはいいが、それは歪な変化である。ただ苛烈で賢しくなるだけで、心は小さな子どものままなのだから。

陽子はまさにその典型例だ。賢しさで周囲を翻弄してみせてはいるが、その実常に迷子である。彼女は道化でしかないのだ。


 陽子は誰かを受け入れるのが恐ろしく、しかし誰かに受け入れてもらうことを求めている。そんな我儘な人間なのである。




「んあ? おらへんやん」


「?」



 ベンチに座って空を見上げていた陽子は、不意に聞き慣れない声をとらえた。


 果たして、振り返った彼女が見たのは背の高い少女である。

身長が158cm の陽子に対して、その少女は170cmはあるだろうか。明らかに女性としては高身長である。肩幅が広く、何かしらの運動を習慣的にしていることが分かる。歩き方一つとっても体幹の良さがよく分かる程だ。

背丈もそうだが、何より特徴的なのはその表情である。糸目と不敵な笑みは、黄金の髪色もあってまさに狐である。

不気味な笑みを浮かべる少女は周囲を見渡すと、これみよがしに肩を落とす。物言いからして誰かを探しているようだが、目的の人物は見つからなかったらしい。


 態々そのことを言葉にするとは変人か?、などと己を棚に上げて陽子は思った。




「あんさん、坂木陽子よね?」


「そうだが、君は誰だい?」


「ウチは玉木綾。玉木でも綾でも好きなように呼びぃ。新条おらへん? ここに居るって聞いたんやけどなぁ」


「大和なら一旦教室に戻ったよ。すぐ戻ってくる筈だがね。どうやら入れ違いになったようだ」


「か~! マジか! 違う経路やったんかなぁ。しゃーない。ここで待たせてもらうわ」


「……で、君のような陽キャが陰キャの彼に何の用だい?」



 少女の名は玉木綾で、探し人はなんと大和らしい。


 陽子はそのことに驚きながらも、大和と綾が入れ違いになったことを説明した。

綾はその言葉を受けて、額を押さえて笑う。悔しそうでその実少しも悔しがっていない、わざとらしい仕草であった。間違いなく演技である。

陽子は大和に対して強がってみせたが、彼女は間違いなく陰キャなるカテゴリーに属する。そして、この綾と言う少女は陽キャである。少なくとも集団生活を一切問題なく過ごせる類の人間だ。

そんな人物が大和に用があるなど、考えにくいのだ。クラスメイトであれば、何かしらの縁でやりとりが生じることはある。しかし、陽子の記憶が正しければ綾はクラスメイトではない。


 いったい何の用だ、と陽子は単刀直入に聞いた。




「新条がほんまヤバい人間や聞いてな? 興味本位で来たんよ。まぁ話通りかは見てのお楽しみじゃね」


「……君、随分と色々な方言が混ざっているね。引っ越し回数多かったのかい?」


「正解! よくできました。花丸あげるわぁ」


「いちいち鼻にかかるなぁ」


「お互い様やろぉ。まぁ、ウチはその辺気にせんけどな?」



 綾は相手をおちょくるのが非常に好きらしい。


 陽子も他人をおちょくるのが常であるが、彼女の場合は己の弱さを隠すための演技である。

それに対して、綾のこの態度は違う。己の弱さを隠すためなどではない。そんな消極的なものではない。相手を攻撃することを忌避する良心が育っていない類の人間である。

大和に近い存在、と言えば分かり易いか。綾もまたサイコパスと呼ぶに相応しい片鱗が見える。人は誰しも悪意や攻撃性を持つものだが、綾からは悪意が感じられないのだ。

人間は己側が正義と感じればどこまでも残虐になれるものだが、綾はそういうものが関係ない世界の住人のようである。まさに大和と同類だ。


 しかし、陽子は綾に対して不快感しか抱けなかった。




「新条来るまでも暇つぶしに聞きたいんやけど、なんか人生に悩みあるん?」


「急に何だい? 人生相談か何かな?」


「まさか。暇つぶしや。暇つぶし。なんでそんな死にたそうな顔しとるん?」


「!?」


「あれか? 自分の人生が虚無に思えて未来を悲観しとる中二病ってやつかいな? 案外平凡なんやね」


「……」



 綾の言葉に、陽子は衝撃を受けた。


 読まれた。隠してきた筈の本質を瞬時に見破られた。土足で内側に踏み込まれた。

陽子はそのことに混乱し、芽を見開く。言葉を発することすらも忘れ、彼女は暫し綾の方を見た。彼女の黒目と綾の糸目が互いを見やり、不気味な静寂が生まれる。

綾は「死にたそうな顔」というストレートな表現で陽子の内側を表現した。それはまさに正解であり、これまで陽子が誰にも明かさなかった絶望である。

己の居場所をどこにも見出せない浮いた存在として彼女は日々を生きている。彼女はこのまま未来を悲観して消えるかもしれないのだ。今やは大和という刺激あってこそ生きようと思えるが、それすらも色あせてしまえば、彼女は彼に殺されることで怪物の物語に加わるしかないとすら思っていた。


 そんな彼女の本質を、一目見ただけで綾に見抜かれた。そのことが陽子には衝撃的である。




「ウチの家、結構そういう人間を見る機会おうてな? あんさんみたいにシニカルさで自分を防衛しとる奴は大抵自分が好きだけど大嫌いなんよ。本当は消えたいけど、同時に誰かに救い上げて欲しいって思っとるんやろ? 分かるわぁ。そういう奴沢山見てきたもんでなぁ」


「……親が精神科医か何かかい?」


「まぁ、当たらずも遠からずってとこやね。で、何で生きとるん?」


「は?」



 綾は実に楽しそうに笑い、言葉の刃を陽子に向ける。


 死にたがっている部分があると分かっている相手に対して『何故生きている』と問うなど、明らかに危険過ぎる。

その危険を平気で冒すのは、相手がどのような行動に出ても関係ないという無関心さ故か、それともそれすらも楽しめるというゲスの心理か。

いずれにせよ、綾は陽子のような類の人間と接する機会がありながら、その傷口を抉る言葉を選ぶ程度には他者の痛みに対して無関心なのか、逆に関心があり過ぎて楽しんでいるかである。


 楽しんでいればまだ分かり易いが、どうもそうではなさそうであると陽子は感じていた。




「死にたいならパーッと死んだ方がきっと楽しいで。やりたいことやりきるのが一番よ」


「……自殺幇助かい」


「んぁ? この程度突かれて死を選ぶような奴に言う訳ないやろ。アホちゃうか。自分案外ニブいなぁ。何はともあれ、本気で死にたくなった奴は黙って死ぬで。方向性はともかくとして、やりきった訳や。そこは褒めてやらんとなぁ。外野がとやかく言うもんやない」


「……自殺は逃げだ。やりきったと言っていいのか?」


「逃げきったという意味でやりきったやろ。逃げることも戦うことも中途半端な輩がその惨めさを隠して、自殺者のことをくどくど言うのよりは余程やりきっとるわ。少なくともウチはそう思うで。まぁ、死んでも言う程周囲に傷痕残らんしな。精々肉親くらいやろ」



 陽子はシャツのボタンを一つ明け、解放感を求めた。


 綾は大和と同じ怪物である。しかし、恐ろしい。窮屈で、背筋がゾワリとする。陽子は口の中の渇きすら覚えている。

陽子は大和の在り方に安堵すら感じているが、綾に対しては明確な恐れを覚えた。こんなに誰かのことを怖いと思うのは、彼女も初めてだった。

同じ怪物でもその在り方があまりに違う。大和は誰かの未来が潰えることを気にし、それを防ぐために怪物性を発揮する存在である。一方、綾はまるでその真逆のように思える。

綾がどういう人間なのかを陽子は知らない。存在すら先程知ったばかりなのだから、当然だ。陽子は周囲への関心は薄く、クラスメイトの顔も半分も覚えていない。他のクラスの人間など覚える気すらなかった。


 まさかこのような怪物が同じ学校に居るなど、陽子は夢にも思わなかったのだ。




「……」


「生きたいなら生きぃや。死にたいなら死にぃや。中途半端が一番あかんで。ちなみにウチは生きるわ。欲しいもんが手に入るまではな」



 陽子は綾の言葉の刃を受け、押し黙る。


 綾の言葉は正しい。人は存外他人に対して無関心だ。

それもその筈。再現なく心の内側に入れてしまえば、悲しみは増すばかりなのだ。どこかの誰かの死を毎回悲しんでいては、心の傷は耐えがたい程に増える。

だからこそ、人は己の観測範囲内の中でも一部だけを心の内側に入れる。そうせねば脳も心も事態を処理できない。そして、個々の余裕がない現代社会においては心の内側に入れる許容範囲は以前よりも狭い。

文明の成熟度は無駄をいかに許容できるかである。無駄を許容できなくなった社会は先細り、衰えていく。昨今のミニマリズムはまさにその典型例で、人の心も最小限になろうとしている。


 心に余裕がなければ、時に家族の死すらも心に響かなくなるのだ。況してやただのクラスメイトの死などに心動くことはないだろう。




「ん? 誰だ?」


「あ……大和」



 不意に聞き慣れた声が聞こえ、陽子は振り向いた。


 そこにいたのは大和である。宣言通り筆記用具と宿題用の教科書、プリントを持ってきたらしい。

綾への恐怖心に支配されていた陽子であったが、大和の顔を見ることで少しばかり安堵を覚える。大和であれば綾をなんとかできると思ったからだ。

そもそも綾の目的は大和である。その間の暇つぶしで陽子は玩具にされたに過ぎないのだ。綾にそのような気はないかもしれないが、傍から見れば陽子はサンドバッグそのものであった。

こんな時間が終わるのであれば、陽子は万々歳である。


 思わず安堵のため息をつくくらいには、陽子は安心した。




「――!……ほぉ! あんさんが新条大和かいな!」


「……そうだが、誰だ? 見ない顔だな」


「ああ、失礼。ウチは玉木綾や。いっつもテストで一位とっとるって言えば分かるかいな?」


「いや、英語と数学は大抵俺が一位だろ。テストエアプか?」


「あ、ウチが二位の時の一位はあんさんかいな。奇遇やね」



 綾は実に興味深そうに笑い、大和に話かける。


 ジロジロと大和の姿を観察する綾に、大和が眉を顰めて陽子の方を見た。

陽子は肩を竦めて首を横に振る。説明を求められても困るという意思表示である。大和も彼女の意図をくみ取ったのか、肩を竦め返して綾の対応に入った。

綾は何が楽しいのか、非常に嬉しそうだ。対する大和はさっさと宿題を終わらせたいのか、さっさと話を切り上げたいという態度が見え見えである。

どちらもサイコパスの片鱗があるというのにこうも正反対か、と陽子は驚く。


 やはり、この二人は似ているようで正反対なのだ。




「話なら放課後にしてくれないか? 今から宿題やりたいんだ」


「お。そうかいな。ええで。今日は部活休みやしな。放課後すぐそっちのクラスに行くから、待っとき」


「ああ」


「えぇ~……」



 大和からの待ったに対して、驚くべきことに綾は素直に従った。


 先程暇つぶしと言って陽子を散々攻撃していた人物とは思えない選択である。

そんなあっさり引き下がるようであれが、昼休みに接触することは諦めればよかったのに、と陽子は思いさえした。大和に念押しすることもないことに苦笑してしまう程である。

綾の態度は、約束が守られること前提のものである。彼女は良い家庭に育ち、約束は守られるものという認識でここまで生きてきたのだろう。育ちの良さが垣間見える判断である。

綾はおそらくそれなりにしっかりした家に生まれたのだ。怪物性は大和と比肩するかもしれないが、少なくとも親はまともなのだろう。


 大和もそうだが、綾も妙な所で常識人のような判断をしていた。




「ほな、放課後にな!」


「はいはい」



 こうして、暴風雨のような人物の来襲は終わりを告げた。








 放課後、綾は懐かしい道を歩いていた。


 彼女は何度も引っ越しをしてきたが、実は今住んでいる市は彼女が幼い頃に一度住んでいた場所なのだ。

家の場所こそ違うが、区は大きく変わっていない。白のスニーカーで石ころを蹴りながら、彼女は懐かしい道を進んでいく。

このまま真っ直ぐ進めば、幼い頃の生家がある。ずっと歩かなかった道を久し振りに歩きながら、綾は笑っていた。


 そんな彼女に遅れて歩く者が一人。




「こんな遠くまで来て何を話すんだ? もう廃れてるところだぞ」


「十年くらい前はもう少し賑わっとたんよ。覚えとる?」


「さぁ……どうだったかな」



 綾に遅れて歩く人物は、新条大和である。


 栗色の瞳は酷く無機質で、切れ長の目であることも相まって威圧的だ。

そんな姿を見て、綾は笑う。カマをかけてみれば、大和が期待通りの答えを返してくる。彼女のさりげない探りはより一層確信を強める答えを引き出し、彼女の足取りを軽くする。

河川敷を歩き、川の流れを見ながら綾は歩く。かつてここは彼女の通学路であった。彼女は今でもそのことを覚えている。そしてきっと、彼も覚えている。

綾は一つの期待を胸に、懐かしい道を進む。この一帯はすっかり廃れてしまい、少し先に見える橋の上を走る車はほとんどない。たった十年程度でここまで変わるのだ。


 綾はよく喧嘩をした場所である河川敷を歩き、笑う。




「なぁ、新条。あんさんもこのあたりに昔住んどったやろ?」


「はぁ? そんなことないぞ。昔、友達がこのあたりに住んでいたのは間違いないし、多分来たことはある。だけど、それだけだ」


「なんや。そうやったんか。その友達って、よく女々しいってバカにされとったやつやない? 身長低くて顔も女っぽかったもんなぁ」


「?……確かにそうだけど、なんで知ってる?」


「ははぁ。やっぱな。うん。ウチの記憶は正しかった」



 新条大和を一目見た時、綾はもしかしたらと思っていた。


 そのもしかしたらが、少しずつ「おそらく」「多分」「きっと」――そうして、少しずつ確かなものへと変わっていく。

綾は懐かしい河川敷のど真ん中で立ち止まり、背伸びをする。昔、この河川敷で綾はよくケンカをした。いつだって彼女は勝った。相手が年上でも、男子でも、彼女は一度だって負けたことはない。そんな彼女に一度だけ黒星を叩きつけた者が居る。

彼女はその日を今でも覚えている。今でもその時の相手を探し続けている。その時の興奮を求めている。彼女の世界を一変させた瞬間の再来を望んでいる。

綾は敗北を知りたいのではない。そんなものに意味はない。彼女は幼い頃ここで彼女の人生を一変させた瞬間に戻りたいのだ。


 そして、その役者は揃った。




「新条大和。ウチが坂木陽子を死なせる言うたらどうする?」


「は? 何言ってるんだ。控えめに言って頭おかしいぞ」


「そやなぁ。でもなぁ、あれが死にたがってるのはホンマよなぁ? ウチ、一目で分かったわ。今は踏ん張っとるけど、少し背中を押したら案外簡単に逝くかもしれんね。あんさんもそう思うやろ?」


「……おい。それが用か?」


「どうやろねぇ。でも、マジで簡単に背中を押せるで? 数日あれば終わるかなぁ」



 綾は心にもないことを口にし、大和の怒りを誘う。


 綾は陽子を自殺に追い込むつもりなどない。

端的に言って、彼女にとって陽子が死のうが生きようがどうでもいい。死んだように生きているならば、どちらか白黒ついた方がマシくらいに思っているくらいだ。

だからと言って、彼女は陽子を死に追い込みなどしない。そんなことをしても楽しくないからだ。彼女が欲しいスリルはそこにはない。そんなものは中途半端な者達がやるマヌケな遊びである。

綾が欲しいのは、他者の痛みではない。そんなもの、欲しい者が勝手に欲しがっていればいいのだ。綾が欲しいのは、最高の興奮。最高のスリル。最高の怪物。


 綾の言葉を受けて豹変する大和を見て、彼女の心が躍る。




「あいつにはあいつの未来があるんだ。本気で言っているなら、容赦しないぞ」


「へぇ。本気やったらどないするつもり――」


「お前の未来を潰す」



 大和の言葉を受けてヘラヘラと笑う綾であったが、不意に視界がひっくり返る。


 彼女が気付いた時には、既にその体は河川敷の芝生の上に横たわっており、その首を大和がガッチリ掴んでいた。

ギリギリと綾の首を締め上げながら、大和がその色素の薄い栗色の眼を歪める。その姿を見て、綾は懐かしい感覚に襲われる。

彼女はいつだって喧嘩で勝ってきた。当然だ。彼女には武術の心得があり、才能も積み重ねもあったのだから。そんな彼女を圧倒したのはただ一人。

名前も知らないその誰かと、目の前の少年の姿が完全に一致する。その目元などまさに本人そのものである。


 やっと見つけた――そう思って綾は笑う。




「はは……凄いなぁ……ウチをこんな簡単にこかすなんて、お師匠はんくらいやで」


「どうなんだ? 本気でやるつもりか?」


「へへ……あんさん次第やねぇ……」


「ふざけるな。このまま首をへし折るぞ」


「やってみぃや。できるもんならな」



 綾の大和への賞賛の言葉は本心からのものだ。


 また彼女は一方的に負ける。かつてと同じように、何が起きたかも気付かずに、だ。

達人というものは相手の動きの起こりから次の動きを予想できるものであり、綾も部分的にそこに達しつつある。相手の予備動作を見れば次の行動が分かるのだから、余程実力差がない限り負けることはない。

しかし、綾は大和の起こりは感知できなかった。彼女が未熟だとしても、反応すらできないことは異常である。こんなにアッサリと彼女をこかすことなど、彼女の師匠くらいにしかできない。

それに、今ギリギリと綾の首を締め上げる大和の握力といえば、尋常ではない。綾の握力は年代平均の三倍近くある70Kgだが、彼の握力はそれを遥かに超えている。


 彼が宣言通り綾の首をへし折ることは不可能ではない。そう確信させる筋力がある。




「ならお望み通り」


「ぐ……げ……」



 大和は綾の挑発を受けて、腕の力を強めた。


 綾は気道が塞がれる感覚を覚え、笑う。

そう。これだ。あの時もそうだった――そう思いながら彼女は大和を真っ直ぐ見た。恐れなどない。ただ興奮だけが彼女にはある。

背筋が震える程の冷たさ。燃え上がるような殺意を実行に移す氷の意思。奇跡的なバランスで成り立っている怪物の姿。かつて、彼女はそんな怪物と出会った。怪物に負け、言い知れぬ快感に溺れた。

綾はいつぶりかの興奮に体を震わせ、大和を見る。その姿を目に焼き付ける。これこそ求めていたものだと、心を震わせる。


 この怪物こそ、彼女が求める最高の興奮を覚えさせた存在だ。相手が覚えていなくても、綾は覚えている。あの時の興奮を。あの時の衝撃を。全てが一変した瞬間を。




「ふ……ふへ……へへ……ははは!」


「……やめた」


「……は?」



 思わず変な笑い声が出てしまう綾であったが、大和が不意に首を解放する。


 突然首を解放された綾は困惑し、思わず声をあげる。

何故途中で止めてしまった。何故続けない――そんな身勝手な考えすら抱きながら、綾は大和を見上げる。

大和は冷たい眼差しで綾を見下ろしながらも、綾から距離をとる。彼がまとう空気は今尚冷たいが、先程までの激しさはそこにない。


 何故やめてしまったのだという怒りを胸に、綾は跳ね起きた。




「半端もんが! 何やめとんや!」


「黙れ」


「――!」


「お前の遊びに付き合うのはごめんだ」



 綾が珍しく衝動的に放った拳を、大和はするりと回避した。


 いくら衝動的だったとはいえ、彼女の拳をこうも簡単に回避するのは困難を極める。

それを容易く成し遂げた大和は、まさに天賦の才の持ち主ということであろう。綾の師匠並みの先読みをしているに違いない。

綾がこうも己の行動の起こりを読まれるなど、まずないことだ。本物の達人である師匠相手ではいつもあることだが、それを同年代が実践するなどまずありえない。

そのありえない筈のことを大和がしたのだ。そして、それは約十年前の再現である。当時も綾は動きを完全に読まれ、大和に敗北した。彼の異常性を一身に受け、全てが一変した。


 やはりこの男だ。間違いない――そう綾は確信した。




「お前みたいな奴が陽子を死なせても何も得はない。楽しくもない筈だ。だから、冗談だって分かる」


「本気になれば、話は別やね」


「もしも本気で陽子を死なせるつもりなら――死ぬのはお前だ」



 大和の言葉は正しかった。


 綾には陽子を自殺に追い込むつもりは全くない。そんなことをする必要も理由も興味もない。

陽子が死にたければ死ねばいい。生きたければ生きればいい。ただ中途半端にフラフラするその様が綾から見て最高に愚かだと思うだけだ。そこに外力を加える気など、彼女にはない。

本気になれば話は別と言いこそするが、そうなることはない。ありえない。それは綾が欲しいものとは真逆だ。

綾の間合いにぬるりと入り込み、耳元で呟く大和にこそ、彼女が求めるものがある。その禍々しい殺気こそ、彼女を燃え上がらせる。


 その殺気こそが、彼女の人生を狂わせた原因。彼女をこんなにも歪に育てた始まり。




「今回は見逃す。だが、次はないぞ」


「あっ。待ちいや……」



 大和はするりと綾の間合いの外に出て、そのまま去っていく。



 綾はその後を追おうとするが、足が震えて上手く歩けない。

恐怖からによるものではない。興奮が彼女の体を痺れさせているのだ。大和に向けられた殺気は今も綾の脳裏にこびりつき、何度も反芻される。

凄まじい快感。背筋が震える程の興奮。全身を駆け巡る衝撃。それこそ綾がずっと求めてきたものだ。武道をずっと続けてきたのも、その時の感覚をもう一度体験したかったからだ。

しかし、どんなに強い相手と戦っても綾はその時の感覚を再現できなかった。彼女に新しい世界の扉を開かせた興奮は、二度と訪れなかったのだ。


 その感覚が今、綾の全身に広がっている。

気を抜けば失禁しそうな程の興奮。いや、もしかしたら既にしているかもしれない。そう思える程に綾の脳は蕩けている。

そう。これだ。これを待っていた――そう思いながら彼女は笑う。遠ざかっていく大和の背中を見続ける。

やっと見つけた。あれが探していた人間だ――そう心の中で叫びながら、綾は笑う。狐のように笑顔は傍から見て不気味だろうが、彼女は純粋に喜んでいた。


 熱い吐息を吐きながら、彼女は口を開く。




「あぁ……最高や……あんさんに殺されたら……最高やろなぁ……」



 綾が望むものは、最高の死だ。


 彼女は死にたいわけではない。だが、死ぬならば最高の死に方が欲しい。

耐えがたい興奮に包まれ、絶頂の中で逝くことができればどんなに幸せだろうか。高みに上り詰め、天に己が達するのではないかと思いながらの死は、きっと甘美なものであると彼女は思うのだ。

かつて幼い頃、綾はその快楽を知った。知ってしまった。死は恐ろしいものではないのだと知ってしまった。あまつさえそれを快楽に変える怪物の存在を知った。

彼女を変えたのは、大和という怪物だ。彼女が偶然出会った怪物が、その異常性で彼女を変えてしまった。


 綾は笑う。ただただ笑う。燃え上がった欲望の炎を胸に、彼女は怪物の背中を真っ直ぐ見つめるのだ。




「殺してくれなんて言わへんで――純粋なその殺気でウチを壊してくれたら、それでえぇんや」



 彼女の望み――それはあの怪物がもたらす興奮の中で死ぬことであった。



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