吸い口(2012年4月27日)
ふと思い出した。
吸い口、である。
和食のお品書きというのは、洋食のメニューとは違う。
もちろん、サービスする側からいえば、それをみて、必要な器を準備し、客前に供するタイミングを計算する指示書である、という点では同じではある。あるいは、指揮者にとってのコンダクテッド・スコアであるという点では、同じである。
板長が品書きを書いてくれなくては、下の者は仕事の進め方が分かりにくい。
だが、メニューには何を書いて何を書かないかという思想が、フランス料理などと和食では違うように思う。
和食では、明らかにその椀の中で大きな分量を占めていたり、味の基本になっていたりするのに、なぜか品書きに書かない物も多い。
一般的に、和食ほど伝統に縛られていないと思われている洋食の世界のほうが、料理の素材や調理法を示すやり方が、保守的というか、パターン化されている場合が多いのは、不思議なことである。特にフランス料理には、その傾向が強いように思う。
別の言い方をすれば、和食の世界では、ソースや調理手順よりも、料理人が食材と対話し、場合場合においてそれを仕上げていくやり方に、重きを置くのかもしれない。
母と一緒に和食の店で食事したときのことである。
ある吸い物に、小さな小さな、柚の皮が一きれ入っていた。
爪楊枝の先端部分ほどの、ごく細い柚だった。
ところが、品書きを見ると、椀の名前が書かれたすぐ左側に、「吸い口 ゆず」と大きく書いてあるのだ。
わざわざ書くほど入ってないじゃないか。
と、私は思った。
そう母に言った。
すると、母は、
「これはね。こうして頂くのよ」
と言って、箸で吸い口を椀のふちに引き寄せ、そのまま、その吸い口に口を寄せるようにして、吸い物を飲んだ。
私は、そのまねをしてみた。
それまで、いささかの生臭さを感じさせた吸い物が、鮮烈なゆずの香りで満たされ、驚くほど豊かに、その味わいを膨らませた。
「ね。だから、吸い口っていうのよ」
そうだったのだ。
椀の中に入っている物を説明するためにではなく、どうやってその椀を味わうかを、その品書きは示していたのだ。
てっきり彩りのために入っているとおもったそのゆずを、よくよく見ると、ごく細く小さなそのゆずのまん中に、しっかりと一筋の切れ目が入っていた。おそらくは、香りをより引き出すために。
一グラムの何分の一にしかならないゆずは、食材費でいえば、その椀にとって、無きにひとしいものだろう。
だが、そのわずかなゆずは、食する者次第で、その椀のコンサートマスターにもなるのだ。
品書きというものは、存外おもしろい。
(2012年4月27日執筆)