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食エッセイ  作者: 支援BIS
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のどぐろ(2017年1月18日)

 一月十三日、島之内一陽という割烹で祝杯を挙げた。

 五人のメンバーで四年半かかってまとめた本が、無事その日納本となったのだ。

 私はそれ以前に約十年間資料収集にあたったので、私自身にとっては、十五年分の努力の結晶である。

 そこで、一陽を予約した。

 予約の取れないことで有名な店で、今まで何度も予約に失敗している。

 電話したのは一か月前だったが、本当にぎりぎりで席が取れた。

 

 本の確認整理と寄贈分の仕分けに手間取ってしまったが、それでも予約の時間ちょうどに、タクシーは一陽に到着した。

 乾杯はシャンパンだ。

 前日に、2002年のドンペリを持ち込んで、冷やしてもらっていたのである。

 こういう儀式じみた乾杯に、ドンペリは本当によく似合う。

 フリュートグラスを満たす黄金の酒のなかを、泡がのぼってゆく。

 ふるふると踊る泡をみつめていると、長年の苦労が溶けてなくなってゆくような気がする。

 疲れが癒される瞬間の心地よさは、言葉では表現できない。


 苦労を共にした同志と酌み交わす酒はうまい。

 ののしりあい、喧嘩しながら議論を戦わせたこともあった。

 怒りのあまり、原稿を床にたたきつけたこともあった。

 けれども不思議と最後には、皆が納得する作品ができた。

 誇りをもって仕事を終えられることの、なんと幸せなことか。

 皆、最高の気分で料理と酒を楽しんだ。

 サービスも細やかででしゃばらず、目立たないが行き届いている。

 こんな日は、酔わないものである。

 いや、最初から酔っていたのかもしれない。


 料理は何もかも素晴らしかった。

 そのなかでも最も印象に残った料理のことを書く。

 のどぐろである。

 のどぐろを半身に割いて塩焼きにした、シンプルな料理だ。

 一昨年、あわら温泉に行ったときも、のどぐろは食べた。

 それと比べても圧倒的に大きなのどぐろである。

 うまい料理というのは、みただけでごくりと喉が鳴る。

 これは、まさに喉が鳴る料理だ。

 ふわりとしたねばりけのある身を箸でつまんで口に運べば、舌触りは甘やかだ。

 暴力性のまったくない味、というものがあるとすれば、それはこのような味をいうのだろう。

 皮の部分にはごく微量の塩味がするのだが、身の部分は、まだ塩味がしみていないかのような、無垢で清純な味わいだ。

 いや。

 そうではない。

 今まさに、振りかけられた塩は身に到達しようとしている。

 その出会いの瞬間を、私は食したのだ。

 のどぐろの身と、塩。

 その二つの出会いの瞬間に立ち会わせようという、板前さんの演出を感じた。

 感動にひたされたまま、箸を進めると、ひと箸ひと箸、微妙に塩かげんがちがう。

 骨が多く、くせの強い部位では、塩味もまた確然としている。

 冒険心たっぷりに、そんな部分にかぶりつけば、先ほどとは打って変わって輪郭のはっきりした塩味が、私の舌を導いてくれる。

 白身と塩のさまざまなコントラストを、私は堪能した。

 なんと豊かな白身であることか!


「こりゃ、味薄いな」


 突然、向かいに座っている大先輩が、ポン酢をのどぐろにちょろちょろとかけた。

 なんてことを。

 いや。かけるなとは言わない。

 言わないが、自分の皿に取り分けてからポン酢をかければよいではないか。

 なぜ、のどぐろ本体にポン酢をかけるのだ。

 と思ったが、口にはしなかった。

 この大先輩には、会議ではいろいろと失礼なことを申し上げた。

 それでもにこにことして意見を出してくださり、文章を調整し続けてくださって、最後の最後には、全体を丁寧に見直し、大きなミスを発見するという功績を挙げてくださった。

 お世話になりました。

 ありがとうございました。

 この夜だけは、どんな事柄にせよ、この人を責めるような言葉を口にしたくなかった。

 私は黙って、ポン酢のかかったのどぐろの身を口に運んだ。

 それはそれでうまかった。



(2017年1月18日執筆)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 唐揚げにレモンでも問題になりますが、ポン酢はあらかじめかけるように添えられていたわけではなさそうで
[一言] 悪気はなかった。
[良い点] 前話から一気に投稿日が飛びました。 この当時はお仕事の方が大忙しだったのだなと推察するとともに、長年の仕事に決着がついたという喜びが溢れていると感じました。 のどぐろというと、仕事関係で富…
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