春を呼ぶ魚(2012年7月17日)
六月の下旬に仕事で明石に行った。
仕事は無事終わり、先方のスタッフが寿司屋に連れて行ってくれた。
その店の売りは穴子の押し寿司だという。
何か食べたい物があるかと聞かれたので、タコを食べたいと言った。
穴子もタコも大変おいしかったが、この日一番印象に残ったのは、その二つではない。
サワラなのである。
漢字では鰆と書く。
関東ではサワラは焼いて食べるのがポピュラーだろう。
そのまま焼いてもよいし、西京味噌を塗ったり漬け込んだりして焼くのもよい。
生で食べる地方もあるんですよと言ったら、気持ち悪いと返されたことがある。
サワラの生食が有名なのは岡山県だろう。
岡山ではサワラは高級魚だ。
時と場合によっては、その刺身はタイやヒラメより格上とみられる。
いわゆる祭り寿司には酢で締めたサワラが必須だ。
氏神様のご縁日にはサワラの値がすさまじい高騰をみせたりする。
まるで極上のトロのような柔らかさを持つのに、ぎとぎとした脂っぽさはまったくない。
ざらりとした上品な舌触りと、すうっとほぐれて溶けてゆく奥ゆかしさは、譬えるものもない。
和歌山県でもサワラの刺身を食べる。
しかし残念ながら、私が和歌山で食べたサワラの刺身はおいしくなかった。
たまたまだったのかもしれないが。
サワラというのは、身が崩れやすいし、異様に足が速い。
美味なサワラの刺身を得るには、いくつものハードルを越えなければならない。
くだんの明石の寿司屋である。
歓談に興じるまま、何の魚かも気にせず、醤油をつけて口に入れた。
うまさにびっくりして、何の魚だろうと、味をかみしめた。
サワラだ。
間違いない。
しかし、これがサワラ?
ゆるさ、というか、サワラ特有のヘタレ感がない。
ぴしっと引き締まっていて、それでいてその芳醇なほぐれ具合はサワラ以外のものではない。
二切れ目を箸で取り、しげしげと見る。
これは、もしかして。
食べてみる。
やっぱり。
カツオのたたきのように、皮を軽く焼いてあるのだ。
炙り刺身ともいう。
サワラの弱点をうまく克服しつつ、普段は味わいにくいサワラの長所を引き出している。
その長所は何かというと、噛みしめたり嚥下したりしたあとに、口腔の一番奥の上側に感じるある種の充足感だ。
ほどよく火の通った牛肉のかたまりを食べたときに感じる感触に似ている。
訊いてみれば、その地方では昔からある食べ方らしい。
無論相当な鮮度がなければ得られない味だが。
こうして私は、サワラの新たな魅力を知った。
どういうわけか、まだサワラの竜田揚げは食べたことがない。
近年サワラの漁獲量が急増している北陸地方では昆布締めも有名だ。
カラスミにする地方もあるとか。
ちなみに、肉の色をみるとサワラはどう見ても白身魚だ。
ところが成分からすると赤身に分類されるらしい。
言われてみて納得するものもある。
肉は好きだが魚はあまりうまみを感じないというかたには、サワラをお勧めしておく。
ただしおいしく食べられる場所で。
(2012年7月17日執筆)




