黄金のトングを持つ男(2012年7月9日)
あなたの目の前に、一切れの特上ホルモンがあるとする。
皮の上にたっぷりの脂が乗った、処女雪のように白いホルモンだ。
そしてアルミ製の網が乗った七輪がある。
炭にはほどよく火が回っている。
あなたの心のなかには、はっきりしたイメージがある。
ホルモンの焼き上がりのイメージだ。
皮はかりっと。
脂には、控えめながらくっきりとした焦げ目。
これ以上焼いたら脂が炭に落ちてしまう、というぎりぎりのタイミングで、あなたはホルモンを網から下ろす。
透明感にあふれ、じゅうじゅうと音を立て、よい香りを放ち、ぷるぷると震えて恥ずかしがりながら、彼女はあなたを誘う。
あなたの目も耳も鼻も彼女に引き寄せられ、もはやあなたは彼女のこと以外考えられない。
早く。
早く。
震える手で彼女をつまみあげ、ちゃぷりとタレに浸して口に入れた瞬間。
あなたは至福という言葉の意味を知る。
はずだったのに。
今やあなたの目の前には、変わり果てたホルモンがある。
脂はすっかり抜けて、哀れなほどにしぼんだ姿で。
かみしめてみても爽快感はなく、ぐにぐにとしたしつこい歯ごたえばかりが口に残る。
こんなふうにするつもりはなかった。
ほどよく焼こうとするうちに、こうなってしまったのだ。
こんな悲劇が、毎夜日本中のあらゆる場所で起こっている。
毎日何千人という日本人が、焼きすぎたホルモンに涙している。
彼がいる場所以外では。
彼の名は言えない。
言う必要もない。
彼を街でみかけたとしても、特別なギフトを持つ人間だとは、誰も思わないだろう。
にも関わらず、彼には圧倒的なスキルがある。
ホルモンをおいしく焼き上げるというスキルが。
彼と店に行くとき、私は飲み物しか注文しない。
メニューも彼に任せるのだ。
彼は、自分が食べたい物だけを注文する。
つまり、彼の嗅覚が、これはおいしそうだと探り当てた品目だけを。
彼が適度に炎を調整する手際は、それだけで一つのショーだといってよい。
雑談に興じながらも、彼は七輪のコントロールを絶対に手放さない。
重要なイベントの企画案を協議していても、日程調整や役割分担を相談していても、彼はそんな些事に気を取られて焼き加減を誤ったりすることはない。
無論、彼といえど、たまには見込みを誤ることもある。
あ、これはもう少し強く焼いたほうがよかったかな、と感じさせることもある。
だが、そんなことはごくまれだ。
逆に、この肉からこういうおいしさが引き出せるとは!と感嘆せしめられることは多い。
しかも彼はお酒を飲まないので、ずいぶん送迎もしてもらった。
ああ!
彼の焼いたミノサンドを。
アカセンを。
テッチャンを。
ハラミを。
世の人々すべてに食べさせてあげたい。
彼が手にするトングは、黄金の価値を持つ。
(2012年7月9日執筆)