119番
4月10日土曜日の午後4時過ぎ。夫の充一が出ていってからまもなくだった。
どんどんどん。
いきなり玄関の扉が叩かれた。
「誰かいますか。急いで」
男の声だった。夫ではない。
住田陽子はその音と声に飛び上がりチエーンを掛けたままで、そっと扉を開けてみた。
年のころは三十の半ばか、ぼさぼさの髪に無精髭の顔が隙間にあった。
「奥さん。隣で女の人が血を流して倒れてます。至急、119に電話してください。110番にも伝えてくれといって。大至急お願いします。いいですね」
男の顔が消えた。陽子は震える手でチエーンを外すと、サンダルをつっかけて怖々と外に出てみた。東隣の扉が大きく開けられていて、陽子がそっと近づいて覗いてみると、すぐそこにさっきの男が背中を向けて屈んでいて、脇から裸の白い脚が見えた。血で真っ赤になった新聞が傍らにあった。
陽子は身震いした。男は陽子の気配を悟るとふり返り、
「まだしてないんですか。早く早く」と急かせた。
陽子は、膝ががくがくして腰から下が自分のものでないようで困ったが、壁を伝うようにして自分の部屋にもどった。
――火事ですか。救急ですか。
大きく元気のいい声が受話器から返ってきた。
「き、救急です。女の人が刺されて血を流して倒れてます」
――わかりました。落ち着いてくださいね。現場の住所がわかりますか。
「わ、わかります。えと、埼玉県F市柵来町五ー二ー一 富木コーポです」
――あなたの名前と住所を教えてください。
「住田陽子。同じアパートの、と、隣の部屋です」
――わかりました。救急車手配します。
「あ、あの、110番にもそちらからお願いできますか」
――了解しました。すぐに行きますからね。
陽子の膝はまだがくがくしていた。
そのフーテン風の男は逃亡した男を見たという。その人相風体を入間南警察署の兵藤が聞き取っていた。
年令25から30の間。身長は172~5。体重は60~70。濃紺の野球帽に空色の半袖シャツ。長髪で髭はきれいに剃っていた。
男がぽつぽつとそれを語った時、兵藤は正直なところ疑心を持った。咄嗟にそれだけの観察がよくできたと思ったのである。
「あんた。確かだろうね。間違いだと困るんだよ。わからんところはわからんでいいんだから」
「ああ覚えていることだけいってるよ」
「そう。顔の特徴をもっといえますかね」
「いえる」
男はそういって薄く笑った。
「なんとかというタレントに似てるんだよ」
「ほう。だれ?」
「名前はわからない」
「テレビに出る?」
「二、三度見たことがあるよ」
「それじゃね。テレビ番組の雑誌などを用意するから、それから探してくれるかな」
「ああ、いいよ」
「緊急配備するからざっとだけいって。面長とか丸顔とか」
「刑事さんと俺の中間かな」
男は細面で兵藤はやや丸めだった。
「普通だな。下は? ズボンと靴」
「紺色の宅配の運転手なんかがよく履くような、ここにポケットがあるやつ。靴は紐付きのスニーカーというやつかな。白に黒っぽい縞が入ってた」
「わかった。一応、そこまででいいよ」
「あのね。ひょっとしたら本職かもしれないけど、そういうふりしてここの人にドアを開けさせたのじゃないかな」
「ほう」
兵藤はあらためて男の全身を眺めると、少し離れてから、署で待機している課長の坂崎に連絡を入れた。
「ええ、そうです。一見宅配便のドライバーというような風体ですね。ただし帽子は地面に落としていきました。この付近の聞き込みは田代たちがすぐに始めますが、彼氏は署に連れて行きます」
――そいつがホシじゃないか?
「いや、態度なんかからしてちがう気がします。しっかり確保はしておきますが」
――そうか。それじゃ雑誌はこっちでそろえておくから。あと、鑑識からでも帽子とジャンパを貸してもらって。
「了解」
――それと、浦和から畑中調査官がそちらに向かってる。われらノンキャリの星だ。知ってるな。俺も手配が終わったらすぐいく。
「あ、丁度ご到着のようです」
知らいでかい。45才で警視になったなんて、そんなノンキャリ他にいないよ。年度最優秀警察官二度、つど特進だもんな。




