3-25 山猫と人食い虎 後編
「……うぅう」
「ぐうぅぅぅ」
言葉にならないうめきを上げ、俺たちは地面にうずくまっていた。反撃どころか、起き上がることさえ出来ない。痛みで体がバラバラになりそうだった。
終わった。
もうどうすることもできない。
死を覚悟した俺であったが――――しかしリュッカは、止めを刺そうとはしなかった。リュッカは俺たちの前を通り過ぎると、ダイナマイトを拾い上げ、不思議そうに観察をはじめた。
やがて、
「クフッ、アハハ」
その美しい横顔に、たのしげな笑みが作られた。
どうやら仕掛けに気付いたようだ。
あのダイナマイトには雷管が抜いてある。だから点火しても、導火線が燃えつきるだけで、爆発はしない。つまり俺たちは、アレを使って一芝居うったわけだ。付き合いが長いと、アイコンタクトだけでこういう事が出来る。うまく意表を突くことはできたが、しかし、俺たちでは軽い手傷を負わせるのが精一杯だった。
俺は草に顔をうずめながら、そばにいるラウに向かって言った。
「……こんなことなら、いっそお前ごと爆破させておけばよかったな」
「……そりゃねえぜ相棒」
弱々しく笑い合う。
このやりとりが、俺に不思議な活力を与えた。いまなら起き上がれそうだ。
「ぐうぅぅ」歯の隙間から声を漏らし、俺は体を起こした。体のいたるところから悲鳴が上がる。足もとがふらつくのを、なんとか気力でこらえた。次に倒れたら、たぶんもう起き上がれない。同じようにラウも、体を痙攣させながら立ち上がった。
お互いボロ雑巾だ。
だが立てた。
もう一度、笑い合う。
俺たちに気付いたリュッカは、こちらに向き直ると、轟然と声を発した。
「クズにしてはなかなか面白いことするじゃない。褒めてあげるから光栄に思いなさい」
そのあまりに乱暴で、居丈高なもの言いに、
「フッ」
「へへ」
俺たちは怒りを感じるどころか、思わず笑ってしまった。
まるで独裁国家の王女が、玉座から見下ろしているような態度だ。しかしその態度も、ここまで容姿が優れていると、かえってそれが自然なことだと思えてしまうから不思議だ。
「どうせ下らないゴミ掃除だけかと思ってたけど、どうやら少しは楽しませてくれそうね」
そう言ってダイナマイトをポイッと投げ捨てると、上機嫌だといわんばかりの顔を俺たちに向けてきた。明らかにこの状況を楽しんでやがる。
リュッカは思いあがった振る舞いをしている。それこそ、先日の落伍者と同じような態度だ。しかし、あの見た目に惑わされてはだめだ。
この女はウソばかりだ。
力を振り回すだけのバカな剣士をよそおって、その実、基礎を磨きあげられた”一流の拳闘士”だった。リュッカの動きは本物だ。決して与えられた力だけによる借り物の強さではない。それを証拠に、リュッカは一度として膂力に頼った攻撃をしなかった。ひたすら小さく、そして正確無比。動きのひとつひとつから、地道に重ねてきた努力がにじみ出ていた。
ヤツの本質に気付いた頃には、大抵の相手は死んでいるだろう。
本当に性質の悪いウソだ。
もしかしたら、あの言動も偽りのものなのかもしれない。
リュッカが、胸をそびやかせながら尋ねてきた。
「あんた達、名前は?」
唐突な問いに、俺とラウは顔を見合わせ、それぞれに答えた。
「ブルーノ・コートネイ」「ラウ・スーイェン」
「流派は?」リュッカがさらに訊く。
「ドロンフォード陸軍戦闘術」「我流だ」
「そう」リュッカは、聞いた言葉を嚥下するように、ゆっくりと頷いた。「私はリュッカ・フランソワーズ。我流よ」
そこでいったん言葉を区切り、リュッカは浮かべていた人間らしい表情を消した。目の前の少女が、ふたたび化け物に変わる。
俺は無意識のうちに、息を呑んだ。
額から流れ落ちた汗が、ぽたりと落ち、ブーツに当たって弾ける。
「いまから言う事を心して聞きなさい」
リュッカは、背にした風景を歪ませるほどの殺気を発しながら言葉を紡いだ。
「あなた達を戦士と認め、いまから本気で相手をしてあげるわ。ブルーノ・コートネイ。ラウ・スーイェン。『あなた達の名を覚えたわ』。これであなた達が死んでも、その名は永遠に残る。フランソワーズ家が名誉と誇りをもって討ち果たした敵として、その名が永遠に刻まれるわ。いいこと――」
「己の名に恥を残さぬよう、死力を尽くして私に立ち向かいなさい」
まるで大聖堂で鳴らされる鐘の音のように。
その言葉が、静かに、重く、俺の胸を打った。
刹那。
俺の肉が、ざわりと騒ぎだした。
静かな海原に、一条の白波が立つように、俺の肉が脈動をはじめた。
どくん、どくんと鼓動が早くなる。首の後ろが熱くなる。
大量のアドレナリンが分泌され、痛みが薄らいでいく。
リュッカは俺たちを、ただの賊ではなく、全力で戦うに値する戦士だと認めた。この化け物に、俺たちの実力を認めさせたのだ。その事実が、『俺の肉に火を灯した』。とっくの昔に捨てたと思っていた戦士としての誇りが、俺の内側で「オオオオ」と雄たけびを上げている。まるで鬨の声のように、俺を内から揺さぶり続ける。
俺は驚いていた。
自分の中に、こんな熱い物があるとは思わなかった。
ラウも同じだった。
その体が小刻みに震えている。あれは恐怖ではない。
それを証拠に、ラウの唇がニイッとめくれ、長い犬歯が覗いていた。
「ここまで言われたとあっちゃあ、しかたねえ。やってやろうじゃねえか」
と、ラウ。その声は若干震えていた。
「まったくだ」
俺の声もまた、震えていた。
「私の支度が終われば、はじめるわよ」
そう言い終えると、リュッカは剣を鞘に収めた。
チンッと鈴のような音が鳴る。そしてリュッカは、おもむろに腰から鞘を外すと、まっすぐ地面に突き立てた。ポールスタンドのように立ったそれに、脱いだスカートを引っ掛ける。次に腰当てを外し、これも同じように引っ掛けた。甲冑と同じ色の、黒のインナーズボンに包まれた、すらりと長い足があらわになる。
その行動の意味はわからない。
だがリュッカが、全力を出すための準備に入った事はわかった。
俺は前を向きながら、声をひそめてラウに尋ねた。
「ラウ、アレはできるか?」
「ああ、できるぜ。向こうさんも、はなっからそれが目当てだったんだろうよ」
「やはりそうか」
おそらく早い段階で、リュッカは、耳と尻尾の無いラウを、ワータイガーだと見抜いたようだ。さらに奥の手があることまで見抜いていた。だからあえて手加減し、真偽を見極めようとしていたのか。どこまでも底の見えない化け物だ。
リュッカは淡々と作業を続けている。
漆黒の胸甲板がはずれ、その下から、ぴったりとした黒のインナースーツに包まれた肢体があらわになった。光沢のあるスーツを、下から押しあげる形の良い乳房。三日月を思わせる、脇から腰にかけてのライン。蜜のたっぷり詰まった桃のようなヒップ。
「……」
馬鹿馬鹿しいことに。ほんの一瞬だが、俺は目を奪われてしまった。
隣のラウが、へへ、と笑った。
「こんなベッピンさんが最後の相手たあ、男冥利につきるってもんだな」
「ああ同感だ」俺は痛みに引きつる頬を、無理やり笑みの形にして答えた。「だが、どうせなら道連れなんてどうだ?」
「おー、そいつあ気が利いてるぜ相棒。あの姉ちゃんと一緒なら、地獄に落ちるまで退屈せずにすみそうだ」
「なら決まりだな」
不思議なものだ。
ここまで絶望的な状況にあっても、こいつと一緒だと、何とかなりそうな気がしてくる。たとえこの後『上手くいっても、いかなくても、自分達の死が確定していたとしても』。陰気臭くならずに済む。ありがたいことだ。
リュッカは篭手と脛当てだけを残し、他の装甲はすべて取り外した。
まるで闘技場で戦う拳闘士のような格好だ。
おそらく、あれが本来の姿なのだろう。高くなった陽の光をあび、リュッカの肢体が煌びやかに輝く。金の細工が施された黒真珠のような美しさがあった。
リュッカは長い金髪を、後頭部の高い位置でひとつに纏め、ポニーテールにした。風に揺れる金の後ろ髪を、なんとなしに見る。そして自覚する。残り時間はあと僅かだ。
「ラウ、そろそろだ」
「みてえだな」
「これは、今だから言う事なんだがな」
「あん、なんだ?」
「お前と一緒にいた時間は、なかなか悪くなかったぞ」
「……」
数瞬。
ラウは言葉を見失ったかのように口を開閉させた。
「へ、へへ、泣かせる事を言ってくれるじゃねえか、相棒よお」
「最後だしな。こういうのも良いだろう」
「へへ」
「フフ」
俺たちは視線を合わせずに話をしていた。
合わせる必要が無かったからだ。目を合わさずとも、心が強く結びついている。互いの血管が繋がっているかのような連帯感のなかに、俺たちはいた。
最高の気分だ。
「じゃあ『またな』」
「おう、『向こうで会おうぜ』」
最後まで目を合わせぬまま、別れの言葉を交した。
ラウが一歩前に出る。木綿のインナーシャツを破り捨て、上半身裸になった。
そして、
「ぐがっ、がああぁぁああぁあぁあ」
背中を丸めてうずくまり、苦しげな声を上げはじめた。
その声が徐々に”人間離れしたもの”へと変化していく。
両腕を抱くようにして屈んでいたラウの後ろ髪が、まるで意思を宿したかのように、ざわざわと揺れ動く。そして突然、ラウの体が『膨張』した。僧房筋が、広背筋が、上腕二頭筋が、目に見える筋肉のすべてが、まるで空気を入れたかのように一気に膨らんだ。
変化はどんどん加速していく。
人間の皮膚が、”動物の毛皮”へと変わっていった。その様は、まるで羽虫が皮膚を這い上がっていく様なおぞましいものであった。
不意に、ラウの顔が持ち上がった。
太い鼻筋。前に伸びた顔。口端から覗く獣の牙。
……それはもうラウではなかった。
ラウに似た、虎の化け物だった。
『獣化』
それがラウの切り札だった。
ワータイガーなどの獣人種の、ごく一部の者が使える禁術。実行すれば筋肉や骨格が何倍にも増強される。『鬼族の戦闘部族』と同等の身体能力を得ることができるとさえいわれている。
だが獣化には、大きな代償を伴う。
獣化すると、精神に相当な負荷がかかるのだ。並大抵の精神では、あっという間に自我が崩壊し、体だけでなく心まで獣に変わってしまう。獣化の原動力は魔力であり、増大した身体能力を維持させるのにも魔力が消耗される。もし体から魔力が無くなれば、そのまま魔力欠乏症を引き起こして衰弱死してしまう。
人間に戻る術はあるが、それには準備が要る。
条件が整わない状況で行えば――――それは自殺とおなじだ。
つまりラウは、魔力を使い果たすまで暴れ、そのまま死ぬ事を自分で選んだのだ。
俺は静かにラウから離れた。
獣化が完了すれば、もう敵味方の区別すらつかなくなる。それに巻き込まれて死ぬ事を、俺も覚悟している。だがどうせ死ぬなら、リュッカとの決着がつくのを見てからにしたい。
「グ、ガ、アアア」
大きく見開かれたラウの瞳。その白い部分が黒く塗りつぶされていく。暗い、井戸のような目。そこに理性的なものがあるとは到底思えなかった。面影など、もう何もない。胸がすり潰されるような思いがした。
やがて膝をついていたラウが、のそりと起き上がった。
身の丈は2m以上。
腕と足の筋肉が異常なまでに発達している。
全身を黄かっ色と白の体毛で覆われ、黒い縦じまが走っている。
俺の前に、虎と人間を足して2で割ったような化け物が現れた。
グル、グルルルル。
ラウは、獣が喉の奥でたてるような音を発した。
血に飢えた獣のように首を巡らし、その顔がリュッカを捉えた瞬間、うなじの体毛が針金のように逆立った。カッと口を開き、長い牙を剥き、ラウは恐ろしい咆哮をあげた。
グルア゛ア゛ア゛ア゛オ゛オ゛オ゛オ゛オオォォォォォ。
膨大な音の波が、びりびりと大気を震わせる。
鼓膜から入ってきたその声は、生物としての根幹を握り潰される様な、本能的な恐怖を掻きたてるものだった。歯を食いしばっていないと尻餅をつきそうになる。
そのプレッシャーを前に、リュッカは平然としていた。
風でも浴びるように立ち。
そして笑っていた。
「グルルルル」
ラウはすぐに飛び掛かろうとはせず、警戒するようにリュッカから距離を取った。理性が働いたわけではない。ラウの高められた野性の勘が、リュッカをひとかたならない猛者であると見抜き、不用意に踏み込むことを避けたのだ。
ラウは浅く腰を落とし、両腕を広げ、野性的なフォームをとった。
対するリュッカは、両腕を上げて軽くたたみ、左足を半歩前に出したフォームをとった。そして爪先で、トントンと軽妙なステップを刻んでいる。
両者は、わずかな間合いを挟んで睨みあっていた。
双方が踏みだせば手がとどく、そんな距離だ。
だが、動かない。
空間が縮まらない。
膨大なエネルギーを孕んだ緊迫感が、周囲のすべてを飲み込む。
息苦しい。両者の発する殺気が、まわりの酸素を取り込んでいるかのようだ。
「……」
「……」
ラウも、リュッカも、きっかけを欲していた。
張り詰めた膜に針が刺さり、パッと爆ぜるような、そんなきっかけを。
そしてそれは、唐突に訪れた。
ピイイィィィ。
遠く、斜面の向こうから、笛の音がとどいた。
その音が、きっかけとなった。
土石流のような勢いで両者が間合いをつめる。
先手を取ったのは、リーチで勝るラウだった。
大きく一歩踏み込み、その長い腕を、フックのように振った。腕の先からは、獣の爪が伸びている。リュッカはバックステップでこれを避ける。「グルアアッ!」リュッカの後を追いかけるように、ラウが反対の腕を振り下ろす。これもリュッカはステップで回避した。偶然そこにあった部下の死体に、ラウの爪がかする。瞬間、バターに焼けた鉄を押し当てたかのように、何の抵抗もなく、板金が切り裂かれた。ただの爪による引っ掻き攻撃も、獣化したラウが繰り出すと、凄まじい威力を発揮する。
リュッカはサイドに回り込み、しなるような下段蹴りを、ラウの太股に撃ちこんだ。しかしラウの肥大した大腿筋が、蹴りを跳ね返した。リュッカは蹴った足をすばやく引く。引くのと同時に、反対の足を跳ね上げ、上段蹴りを繰り出した。風を切るような蹴りを、ラウは片腕で事もなく防いでみせた。
リュッカの眉がちいさく跳ねる。
蹴り終わったところを狙って、ラウが腕を振るった。
ごお、と大気が逆巻くような音を立てる。
リュッカはその爪を、小さな体の動きだけで避けた。紙一重。唸りを上げたラウの爪が、ギリギリのところを通過する。当たればただではすまない。風圧でリュッカの後髪が舞い上がる。リュッカの動きが小さかったのには意味があった。避ける動きが、そのまま攻撃に繋がっていたのだ。
リュッカは半歩踏み込み、左ボディ、左レバーブロー、そして右ストレートを放った。
ボディは当たった。
レバーブローも当たった。
しかしストレートは空を切った。
なぜならリュッカの眼前から、突如、ラウがその姿を消したからだ。ラウは一瞬で地面すれすれに身を伏せ、右ストレートを避けた。そして素早く起きあがり――――同時に、下から掬い上げるように爪を繰り出した。その動きがあまりにも早かったため、リュッカに退がるだけの暇はない。
「チッ」唇の端を鳴らし、リュッカは両腕を畳んで壁をつくり、ラウの攻撃を正面からガードした。
ドンッという衝突音。
ラウの爪は、リュッカのガードを切り裂くことはできなかった。
しかし。
「カハッ」
リュッカの口から、僅かな血が吐き出された。
効いたのだ。
ラウの一撃が、リュッカのガードを通り抜け、臓器に傷をつけ血を吐かせたのだ!
俺の体が、熱く打ち震えた。
いける、いまのラウなら、あの美しい化け物を葬ることができる!
衝撃を受けて、リュッカの体が横に泳ぐ。ゼロコンマ何秒かの無防備な時間がうまれる。すかさずラウは腕を突きだした。爪ではなく、『拳』だ。人の頭をゆうに越える拳骨を、リュッカの一番避けにくい胴の中心に打ち込んだ。
直撃。
だが恐ろしいことに、リュッカはこの拳を食らいながらも、カウンターを放った。
インパクトの瞬間。
リュッカは、まるで水車のように腰を回転させ、ラウの拳を体の中心からずらし、真半身になって、ダメージの分散を図った。さらに腰の動きを連動させ、大振りのフックを、外側からラウのこめかみに叩き込んだ。
骨に金属がぶつかる恐ろしい打撃音が鳴り響く。
両者の間合いが爆ぜるように広がった。
ラウは上体を横に反らしつつも、特に目立った外傷は見られなかった。普通の人間なら頭蓋がひしゃげるような一撃を受けたというのに、ピンピンしている。リュッカも、あの大木をへし折りそうな拳が腹に当たったというのに、大してダメージを負ったように見えなかった。
「……」
人の域を超えた戦いを前に、俺はただ黙って見る事しかできなかった。いざという時は、隙を生むために犠牲になるつもりでいたが、そんな瑣末な事が通用するような攻防ではなかった。
「ああ、楽しい。なんて楽しいのかしら」
リュッカは爪先でリズムをとりながら、まるで歌うように言った。
「乾いた喉が潤されていく。滞っていた血流が流れはじめていく。なんて気持ちいいのかしら。ゾクゾクしちゃう。ねぇ、この幸福がアンタにわかる?」
答えなど求めていない。そんな口調で言葉をつむぎながら、リュッカは笑っていた。まるで年頃の娘のように、笑っていた。
ラウは一度ブルブルと頭を振ると、リュッカを睨みつけ、グルルと喉を鳴らした。
「わかるわけないわよね。この飢えが。この渇きが。この孤独が。どれほどの苦しみなのか、アンタなんかにわかるわけないわよね」
と、ここで、リュッカに変化があらわれた。
サファイアのような碧眼が、まるで透明な水に血のしずくを落としたように、赤く変色を始めたのだ。その赤は、バラよりも鮮烈で、血よりも濃い。見る者の心を燃え上がらせるような紅蓮だった。
リュッカの瞳が赤に変わったことで、リュッカの中で何かが膨張したのが分かった。筋力か、魔力か、わからない。だが、明らかに何かが膨れ上がった。強靭になった。
ラウが、その赤い瞳に引き寄せられるように、一歩近づく。
リュッカの笑みが壮絶なものへと変わる。
「もっと、もっとよ。ここまで私を期待させたのよ、全身全霊で私を殺しに来なさい。次の一撃に己の全てをかけなさい。さあはじめるわよ。本当の戦いを。本当の殺し合いを」
「簡単に死ぬんじゃないわよ!」
その言葉を合図に、両者は同時に飛び出した。
黒い目に、黄かっ色と白色のケモノと。
赤い目に、漆黒と金色のケモノが。
「シャアア!」「グオ゛オ゛ア゛ア゛!」
雄々しく吠え、正面からぶつかり合った。
拳が拳を弾く。
拳が拳を反らす。
拳が拳を跳ね返す。
突きが、蹴りが、肘が、爪が踵が膝が噛みつきが引っ掻きが頭突きが貫手が。
2人の間にある空間を、両者の攻撃がめまぐるしく交差する。
両者の手が伸びるたび、血の雫が空中に舞う。
互角の戦いがしばらく続いた。
そして唐突に、展開はスピードを上げた。
仕掛けたのはラウだった。
リュッカが脇腹を狙った中段蹴りを放った。
ラウは横からくる蹴りを、腕で受けるでも、下がって避けるでもなく――――垂直に跳躍して躱した。猫科の猛獣らしい発想だった。ヒザを抱えるように飛んだラウは、空中で、畳んだヒザを伸ばすように両足を突き出し、リュッカを斜め上から蹴り飛ばした。
不意をつかれ、リュッカのガードは間に合わない。
激突。
リュッカの体が、後方へと弾き飛ばされた。一見派手にやられたように見えるが、しかしダメージはあまり期待できない。リュッカは蹴られる寸前、数cm、両足を浮かしていた。ワザと吹っ飛ばされるように仕向けたのだ。そうすることでエネルギーが分散される。現にそれほど大きな打撃音ではなかった。
リュッカは空中で、軽業師のように伸身宙返りをすると、難なく着地。
「オ゛オ゛オ゛オ゛」
その着地を狙って、ラウが右の拳を突きだした。
リュッカは強く地面を蹴り、サイドステップで拳をすりぬける。
避けるのと同時に、リュッカは右上段蹴りを放った。
ラウはその予備動作を見切り、地面に伏せて躱そうとする。
だがその蹴りはフェイントだった。
上に向いていたリュッカの足が、急激に軌道をかえ、下段蹴りに変化した。斧のように斜めに振り下ろされた蹴りが、低い位置にあるラウの頭部に直撃した。
凄まじい音。
太い首によって支えられたラウの頭部が、顎を支点に半回転した。普通の人間なら首が千切れ飛んでいたような一撃だ。そのえげつない蹴りを側頭部に叩き込まれ、ラウの意識がかるく飛ぶ。
「シャア!」
リュッカが鋭く吠え、地響きのよう音を立て一歩踏み込み、強烈なアッパーをラウの下あごに叩き込んだ。漆黒の拳が、ラウの顔面に食い込む。骨が砕ける音がここまで響いてきた。屈んでいたラウの体が、まるで吊り上げられたように縦に伸びる。横に揺らされたラウの脳が、今度は縦に揺らされてしまった。
ラウの体が、ぐらりと傾く。
その動きにあわせ、リュッカは後ろ廻し蹴りをラウの頭部に叩きこんだ。直撃。鉄靴のカカトが、側頭骨に突き刺さる。反対側の耳から血が飛び出した。ラウの巨躯が、風にあおられた穂のように揺れた。
大きな隙が生まれる。
紅蓮の眼が、ギラリと鋭い光を発した。
リュッカは大きく踏み込み、ラウの懐に入った。
そして地に根を下すように、深く腰を落とす。
左腕を軽く前に。
右腕は拳を作って脇の下に置き、腰を捻り、弓を引くように大きく「溜め」を作る。
そして、
「シッ!!」
鋭い呼気と共に、前に出した左手を戻す。
戻す動きにあわせて腰をまわす。
腰を回転させたことで発生した遠心力を、右腕に乗せ、前に伸ばす。
拳を180度螺旋回転させて――――強力な正拳突を、ラウの体の中心に捻じ込んだ。
激突。
おもわず目を閉じてしまうような、すさまじい打撃音が鳴り響いた。
激烈な衝撃がラウの体を突き抜ける。その背中から、無数の『白いモノ』が、肉を突き破って外に飛びだした。それは、折れたアバラや背骨だった。ラウの毛皮が、リュッカの腕を中心に、渦のように巻き込まれていた。
リュッカが腕を引き抜くと、ラウの体が、ストンと垂直に崩れ落ちた。
うずくまったまま、ぴくりともしない。
ラウは口を半開きにさせ、そこから長い舌を出して――――事切れていた。
「……ッ」
おおきく取り乱しかけた心を、俺は奥歯を噛んでこらえた。
命を掛けてまでしても、リュッカを倒すことはできなかった。
だが、まだだ。
まだ終わりじゃない。
俺が残っている。