3-13 ラウの追憶
始まりは、女の悲鳴だった。
薄暗く、香が焚かれた娼館の一室。
俺は全裸でベッドに浅く腰掛けていた。足の間には娼婦が跪き、丹念な奉仕を続けている。女は一度口を離すと、蕩けた目をして見上げてきた。
「素敵なお顔……まるで虎のよう……」
真っ赤な口紅に縁取られた唇から、熱に浮かされたような声が漏れる。男の脳をとろけさせるような淫靡な声だ。俺はニヤリと口元を歪め、女の唇に指を這わせた。
「見てくれだけじゃねえってとこを、今から分からせてやる」
「あら怖い。悪い虎にベッドの中で私は食べられちゃうのね」
「ああそうだ。骨まで残さずしゃぶりつくしてやる」
「じゃあ、じっくりと牙を磨いてあげなきゃ」
そういって、ふたたび頭をうずめる。柱に絡みつく蛇のような舌使い。男のツボをしっかりと心得ている。安い娼婦が嫌々やる、あの汲み上げポンプみたいなサービスとはワケが違う。さすが高級娼婦。今夜は楽しくなりそうだ。
右腕を伸ばし、薄いネグリジェに包まれた乳房を掴もうとした――その時だった。
絹を引き裂くような悲鳴がドア越しに響いた。
あれは女が尻を叩かれた程度の物じゃない。拷問を受けた者が最後に上げる断末魔だ。
女が演技も忘れてぎょっとした顔をした。
部屋の外が、にわかに慌しくなる。
ああくそ。なんだってんだ一体。
「ラ、ラウ様」
「続きは後だ」
足にすがろうとする女を引き剥がし、立ち上がる。
フロントに鉤爪を預けたままだが、まぁ問題ない。閉所なら拳で十分だろう。
俺はズボンを上げ、上半身裸のまま廊下へと踊り出た。細長い廊下には赤い絨毯が敷かれ、等間隔にドアが並んでいる。人だかりが出来ているのは、ペドロの部屋の前だ。思わず眉根をしかめた。また何かやらかしたな。
室内には6人の黒服の男がいた。
俺たちを歓待した組織の者たちだ。しかし出迎えた時の雰囲気は鳴りをひそめ、今は、殺気立ったものへと変わっている。黒服の他には、俺、ブルーノ、セリオス。そして、男に組み伏せられている血まみれのペドロだ。あの血はべつに怪我をしているわけではなく、ただの返り血だ。
ベッドの上には、全裸の女が両手足を投げ出していた。腹を割かれ、ピンク色のホースが床にこぼれている。おそらく悲鳴の主はこいつだろう。壁や床には、黒みがかった血糊が、べっとりと付いていた。
「おい相棒、こりゃなんの集いだ?」
難しい顔をして壁にもたれ掛かっているブルーノに声をかける。
「いつものヤツだ……」
そう言って、嘆息を滲ませながら説明を始めた。
俺は開いた口が塞がらなかった。
女に愛撫を笑われ、カッとなってこれをやったらしい。あの兄にしてこの弟か。なんともお上品な家系だ。
ただの娼婦ならどうとでもなったが、しかしペドロは運がなかった。
あの開いた魚のようになっている女は、相手組織のボスの一人娘だったのだ。大方、弟想いセリオスが、ペドロのためにこの場をセッティングしたのだろう。よろしくやって、つがいにでもなりゃあ良かったが、へへ、完全に裏目に出たようだな。
まず間違いなくペドロは終わりだ。マフィアの掟だかは知らねえが、ようは舐められたら終いの稼業だ。やられた分はきっちりとやり返さないと、看板を上げ続ける事ができない。金には金、命には命だ。ご愁傷様。
ペドロのマヌケ野郎は、顔を黒服の膝と床に挟まれながら、
「アニキィ、いやだぁ、しにたくねえ」
と、涙を流しながら助けを求めていた。
思わずブフッと噴出してしまう。隣のブルーノも手で口元を隠している。今のは最高に滑稽な泣きっ面だった。向こう数年は酒のつまみに困らなくて済みそうだ。面白がって覗きこもうとしたら、ブルーノに肩を掴まれて止められた。
この間、セリオスは一言も発しなかった。
弟の懇願にみっともなく取り乱すかと思ったが、意外だった。さしものコイツでも、こうなってしまった以上は手が出せないらしい。
「オラ、立て」
「ひぃっ」
ペドロが両腕を掴まれ、罪人のように立たされる。
俺は近くにいた黒服に「このマヌケの処刑は見学できんのか?」と尋ねた。何を言ってるんだという顔を返してくる。ケチケチすんなよ、こんな面白えもん見逃すと損だろ?
するとここで――
それまで微動だにしなかったセリオスが突然動いた。
ペドロの腕を掴んでいる男の喉笛を、いきなり後ろから切り裂いたのだ。
新たな血しぶきが壁紙に飛び散る。
室内にいる全員が両目を大きく見開いた。
流れる時間に、数瞬の空白が生まれる。
おいおいそこまで狂ってんのかよコイツ。さすがにこの展開は予想できなかった。
俺たちを見る黒服の目が、敵に向けるそれへと変わる。
どうやら……運がなかったのは俺たちのほうだったようだ。
黒服の一人が、弾かれたように駆け出し、廊下に続くドアを開けようとする。ブルーノが素早くテーブルの果物ナイフを掴み、振り下ろすように投擲した。シャッと鋭く風を切り、刃先が男の後頭部に深々と刺さる。
ほぼ同時。
俺はさきほど話しかけた男に、強烈な左ストレートを叩き込んだ。乾いた打撃音が響く。拳を引くと、顔の中心が丸く窪み、両耳から血が零れた。俺はすばやく男の懐からナイフを抜くと、ブルーノに投げて渡した。
ナイフを受け取ったブルーノは、目の前でナイフを抜こうともたついている男の腕を、片手で押さえつけ、逆手に握ったナイフで胸を4度突き、トドメに首を裂いた。
俺は部屋の真ん中で右往左往している男に、鋭い踏み込みからの下段蹴りを放つ。太いスネが、男の両膝を逆方向へと折り曲げる。ズボンが破れ、白い尖った物が飛び出した。前に倒れた男の頭蓋を、ブーツのカカトで踏み砕く。
最後に残った男の喉に、ブルーノの放ったナイフが刺さった。
こうして――。
坂を転げ落ちるような逃走劇が始まった。




