3-08 灰かぶりの掟
カンニバル国が保有する広大な領土には、多くの森林地帯が存在する。
鬱蒼とする森には、実にさまざまな動植物が生息しており、またそれらを主食とする魔物も数多く存在している。さらには遺跡・地下迷宮由来の大型魔物などもこの食物連鎖に加わる。
これらの生態ピラミッドは、俗に神と呼ばれる『大精霊』によって、そのバランスがコントロールされており、森独自のルールに従って生命が循環している。
しかし神不在の森も存在する。
その内のひとつ。
商業都市ナンバーの近くにある、ナンバー森林区。
そこは大型動物も魔物も居ない、静かな森だ。魔物に襲われる心配が無いため、安定した木材の採伐場所として、ナンバーを支える重要な財源のひとつになっている。
その森の奥。
未だ開発の手が入っていないこの場所では、林道は途切れ、かわりにシダ植物の絨毯が敷かれ、木々がのびのびと枝葉を広げている。すぐ傍で、チロチロと小川が流れていた。
時刻は昼過ぎ。
高くなった太陽から暖かな陽射しが降り注ぎ、枝葉から零れた光りが、水面に反射してキラキラと煌いている。一匹のトカゲが水辺の石に張り付いて、日光浴をしていた。
「!?」
近くの茂みがゆれ、驚いたトカゲがさっと逃げた。
道なき道を歩き。
胸ほどもある笹原を掻き分け。
ようやく目的の沢を見つけた。
ブルーノ兄貴に水汲みを命じられた俺は、相棒と連れ立ち、この獣しか知らないような沢に来ていた。俺の後ろで、桶を引きずるようにして歩いているのが相棒のマウロだ。
川べりに屈み、さっそく水を汲む。
「……」
ふと、桶の中に映し出された自分を見て――俺は辟易とした。
ひどい姿だった。
垢まみれの顔は、まるで野良犬の足の裏だ。おまけに浮浪者の寝床を巻きつけたかのような汚い身なり。洗っていない髪は泥汚れと皮脂でモップのようにボサボサ。全身から酷いニオイを放っているはずなのに、もはや鼻が慣れてしまって、何も感じない。
体に合っていない安物の甲冑を長時間着けていたため、体中いたるところに靴擦れのような皮膚潰瘍が生じ、じくじくと痛みを発しては、俺を悩ませ続ける。
なにが戦闘員だ。
そう呼ばれて浮かれていた過去の自分が、腹立たしくて仕方なかった。
苛立ちに舌を打つ。
その時だった。
「ざっけんなよチクショウーーッ!!」
それまで何をするでもなく呆然と立っていたマウロが、突然、爆ぜるように怒声を上げた。
「なんで! なんでこんな目に合わねえといけねえんだよ! 俺が何したってんだよ!」
頭を掻き毟り、気が狂ったように喚き続ける。俺はやるせなさに唇を噛んだ。
こいつがこうなるのも無理なかった。
ここ数日、まともな睡眠も食事も取っていない。おまけに、いつ襲われるかというストレス。まったく先の見えない不安。そして極めつけはペドロの『アレ』だ。
知らず知らずのうちに腕が震えだし、桶の水面に小波がたつ。
こいつだけじゃない。
俺だって我慢の限界だった。
「それもこれも、あのクソガキのせいじゃねえか! そうだろドメニコ! 黙ってねえでなんとか言えよ!」
「……」
「悔しくねえのかよ、なあ!!」
「……んなわけ……あるかよ」
ミヂリ、と。
それまで自分を強く締め続けていた『何か』がネジ切れた音がした。
とうとう堪えきれなくなった俺は、思いきり桶を地面に叩き付け、
「悔しいに決まってんだろうがあ!!」
あらんかぎりの力で、胸のうちを吐き出した。
「あいつのせいで! あいつらのせいで! いったい何人仲間が死んだよっ、ええっ! ジャンも、アントニオも、ジョズエも、みんなくたばった! あの臆病者のガキを生かすために無駄死にさせられたんだ! 犠牲に『させられた』んだ! 次は誰だ? 俺か? それともお前か? あいつらさえよけりゃあ、俺たちはどうなってもいいってのかよ! 使い潰しの奴隷として買われた覚えはねえぞクソッタレがああ!」
いままでセリオスという恐ろしい存在が近くにいたから、俺はどれだけ悔しくても、どれだけ悲しくても、無理やり気持ちを飲み込み続けるしかなかった。そうして腹の底に溜まりに溜まった感情を、俺は悔し涙を滲ませながら吐き出し続けた。
わかっている。
いま自分が口にしている言葉が相当マズイことくらい。ファミリーに背信を抱く者には、血の制裁が下される。陰口で死んだ奴を何人も見た。しかし一度堰を切った感情は、自分ではどうしようもなかった。
やがて、
「――ブッ殺してやる」
そう言い捨て、マウロは腰のナイフを抜き放った。
ナイフを凝視したまま、まるで何かに憑依されたかのように「殺してやる」と繰りかえす。その様子に俺は寒気を覚え、出かかった言葉を飲み込んだ。明らかにさっきと様子がちがう。俺は怒りも忘れ、マウロに声をかけた。
「オ、オイ、マウロ?」
「……俺はブルーノ兄貴に心底惚れてんだ。このままあのクソガキに濡れ衣着させられたまま、黙ってなんかいられねえ。俺は……兄貴のためだったら俺は……」
「オイ、お前まさか」
マウロの肩を掴む。
その手を払いのけ、マウロは声を張った。
「うるせえ! 俺が殺ってやる! あのペドロのクソ野郎を今からコイツでブッ刺してやる!」
「よせマウロ、止めろ!」
慌てて止めようとした。
だが。
手遅れだった。
「『弟を』どうするって?」
唐突に発せられた第三者の声に、俺たちは動転した。
声のほうへと振り返り、そして顔を青ざめさせた。
そこにはセリオスが立っていたのだ。
おそらく先ほどの会話を聞いていたのだろう。しかしセリオスの表情に怒りはなく、それどころか柔和な笑みが浮かんでいた。しかし俺の目には、その微笑が、血を凍らせるような禍々しい物に映った。その心臓を握りつぶすような迫力に飲まれ、俺たちは身動きが取れなくなった。
セリオスはゆっくりとマウロの前に立つと、素早い動きでナイフを取り上げ、
「もしかして、こういう事をしたかったのか?」
「!?」
何の躊躇も無く、マウロの鳩尾にナイフを突き入れた。セリオスは笑みを崩さず、ドアノブに鍵を挿して回すかのように、ナイフをぐりぐりと捻った。その度に傷口がミヂミヂと横へ伸び、真っ赤な染みが広がっていく。
血液が気道を逆流し、「ゴボッ」マウロの口から溢れ、痰のようにヌラヌラとした粘度の高い血が、アゴを伝い、滴り落ちる。
マウロは目を限界まで剥き、ヒクヒクと頬を痙攣させていた。
その様をセリオスは目を細めながらじっくりと観察し、嗜虐的な笑みを強めた。
「どうした? ちがうのか? じゃあこうか?」
一度ナイフを抜くと、今度は刃を水平にし、わき腹、肋骨の隙間へと差し入れた。
凶刃が一気に肺まで達する。
「あギっ!?」
金属を擦り合わせたような短い悲鳴。
衝撃にマウロの体が跳ねる。
「どうなんだ? ちゃんと教えてくれ」
「ぃいだっぃい! やっ……やべで……でっ! やべでぐだ……いいっ!」
「それともこうか?」
「ぎぃ!!」
涙を浮かべ懇願するマウロを無視し、セリオスは腕を動かし続ける。
何度も、何度も、丁寧にナイフを刺し続ける。
ジャッチュ。
ジャッチュ。
耳にこびり付く、おぞましい粘着音。血が飛び散り、草を揺らす。
足もとには、あっというまに血の溜りが出来上がっていた。
「……あ、ああ」
俺はいつのまにか腰を抜かし、地面に尻をつけていた。そして相棒が切り刻まれるのを、ただ口を開けて見るしかなかった。
永遠のような地獄の時間が流れる。
「ん? なんだもう死んだのか?」
とっくに事切れていたマウロを、まるでゴミのように投げ捨てると、セリオスは俺のほうへと振り向いた。
「じゃあ次はお前に聞くとするか」
「ヒッ、ヒィィィイイ!」
べっとりと血が付いたナイフを見た瞬間、俺は喉を引きつらせるように悲鳴を上げた。
自分も同じ目に合う。
そう実感した瞬間、股間が生暖かくなった。
い、嫌だ。絶対に嫌だ。あんな目に会うのは絶対に嫌だ。
俺は必死に立ち上がろうとするが、しかし腰が抜けて思うように動けない。なんとか足を踏ん張ろうとするも、踵で地面に引っかき傷を作るだけだった。やがて セリオスは俺の傍まで歩み寄ると、撫でるようにナイフで俺の脚を摩りながら――息を吹きかけるように、こう囁いた。
「そうだな、まず両足の腱を切ってやろう。もう歩かずにすむぞ? あと胃も切ってやる。もう腹を空かさずにすむぞ? 目も抉り取ってやる。もう眠る心配をする必要もないぞ?」
どうだ嬉しいだろ、とセリオスは笑った。
三日月のように開いた口から、白い歯が覗く。
その顔は、亡者の頭を噛み砕き、脳をすする地獄の鬼のように歪んでいた。
恐怖と絶望に思考を真っ黒に塗りつぶされ、俺は命乞いどころか、息さえできなくなった。ただ、がたがたと震える事しかできなかった。
と、その時だった。
「その辺りで十分では?」
後ろから近づいた男――ブルーノ兄貴が、セリオスの肩を掴んだ。
一瞬、セリオスの顔に濃い怒りが浮かぶ。
しかし次の瞬間には、静穏な表情へと戻った。
「……そうだな」
セリオスはナイフを捨てると、部隊が居るほうへと戻っていった。
兄貴は複雑な表情を浮かべたまま、その背中と、そしてマウロの亡骸を見た。
「……」
俺は一人その場に残り、割れた桶の残骸を使って、土を掘り続けていた。
兄貴に命じられ、マウロの墓を掘っているのだ。
辺りにはまだ、濃厚な血の匂いがただよっている。
粗末な布で包んだ遺体には、夥しい量の血痕が浮いていた。巻いたのは俺だ。あの肉の塊が俺の相棒だったなんて、とても信じられなかった。そして……自分が生きている事も信じられなかった。
「……」
大人一人が入るのに十分な穴を掘っても、尚、俺は手を止めなかった。いや、止められなかった。鼓膜にこびり付いた『あの音』を、ザッザと土を掘る音で打ち消そうとしていたのだ。でも、ダメだ。肉に深々と刃物が刺さる、あの粘着音が耳から離れてくれない。
俺はセリオスの恐怖から逃れようと、一心不乱に腕を動かし続けていた。
やがて、頭上に何者かの影が覆いかぶさってきた。
気付き、首を巡らせる。
「あ……にき?」
するとそこには、先に戻ったはずのブルーノ兄貴が立っていた。兄貴は無言のまま、手に持った『何か』を投げてよこす。受け取るとそれは、つまみ用の干し肉だった。
「……これは?」
「マウロの好物だったろ。一緒に埋めてやれ」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
しかしやがて、
「あ、兄貴……あにきぃ……」
干し肉を握った手が震える。
恐怖で引きつったまま凝固した頬にヒビが入り、やがて俺はボロボロと涙を流し始めた。
そこでようやく。
自分がブルーノ兄貴によって助けられたのだと実感した。