おまけ1 小さな来客
それは不思議な夢だった。
僕は一匹の猿になって、空を見上げていた。
雲ひとつ無い。じっと見ていると吸い込まれそうになるほどの、突き抜けた青い海原が、目の前に広がっている。
毛むくじゃらの手を伸ばす。
そうすると指の先が、太陽の輪郭に触れられそうだった。
僕はどこかの民家の軒先で、大の字に寝転んでいた。
そして――
ウスドンにお腹を押しつぶされていた。
あぁこれ猿蟹合戦だと、なんとなく理解した。
悪役の僕は、ウスドンに向かって必死に命乞いをはじめた。
やめろ、やめるんだウスドン!
こんなことは間違っている! 復讐に何の意味があると言うのだ!
STOP、悲しみの連鎖!
っていうか、たかが甲殻類じゃないッスかー。
いやだなーもー旦那、マジになっちゃって。流行らねッスよ、そういうの。
だいたい……旦那、いいんですかい?
このままオイラを殺しちゃって。
旦那がふかふかのソファーに腰を下ろすたびに、口から内臓をにょろんと出したオイラを思い出して、陰鬱な気分になるんですよ?
夜景の見えるレストランに彼女と行って、半年前に予約した席に笑いながら座った瞬間、オイラの圧殺死体を思い出すんですよ?
果たして笑顔のままディナーを終えられるんですかねぇ?
いやでしょー? 最悪でしょー?
今もちょっとお尻のあたりがムズムズするでしょ?
やめましょうよ、ね?
あんな、裏返したら地球外生命体みたいな気っ持ち悪ぃ生物のために、そこまでしてやる義理はないでしょ? ねっ、ねっ、旦那。
じゃあほら、こんな無駄なことはやめて、オイラと一緒に、仕返しに来たバカな連中に地獄を見せてやりましょーよ。
栗と蜂と牛糞?
ハッ、まとめてタッパーに入れて埋めてやんよ。
キーッキッキッキッキー!
ハッと目を覚ました。
純白の天井紙。見覚えのある照明ランプ。
あぁなんだ夢を見てたんだと、そこで実感した。
すこしだけ開けた窓からは、清涼感のある風が吹き込み、カーテンをさざ波のように揺らめかせている。鼻から入ってくるのは朝の匂い。耳に届くのは小鳥のさえずり。
冷たい朝風を頬に受けていると、徐々に意識がハッキリしてきた。
そしてゲンナリした。
なんだよ今の夢。めちゃくちゃハマリ役だったじゃん、僕。
ああもペラペラと喋られるもんかねぇ。
自分の狡猾さに、すこし引いてしまった。
あんな大人にはなりたくない。夢でよかった。
いや、でも、夢にしてはまだお腹あたりに重みを感じるのはなぜだろう?
僕は不思議に思い、視線を天井からお腹のほうへと移動させた。
そして固まった。
なんかいた。
「んー、ん、んー、ん、ん」
黒いワンピースに、真っ白なカボチャパンツ。
腰からはフサフサの尻尾が伸びている。
そして音程がよくわからない鼻歌。
えーっと、なんだっけ。
僕はこの物体を知ってるはずなんだけど、まだ上手く頭がまわらない。
「えっと、あの……ウスドン?」
とりあえず声をかけてみる。
すると、謎物体は鼻歌をピタリと止め、くるりと方向転換。
両手で包み込めそうなほどの小さな顔。
澄んだ泉を思わせる、透き通った瞳をむけて来た。
そして小首を傾げつつ、鈴が鳴るような声で答えた。
「ウスー、ドン?」
ウスドンの正体は、ピチカだった。
なんと僕に会いに、わざわざ来てくれたそうなのだ。
北の森からこの町まで、かなりの距離がある。その長い道のりをたった一人で!?
それを聞いた瞬間、ちょっと感動して泣きそうになった。
子供が初めてお使いに行くTV番組を見るたびに、父さんが涙ぐんでいたが、その気持ちがちょっとわかった。たしかにこれは、グッと来るものがある。
感極まった僕は、
「ピチカえらいね、よく迷わずに来られたね、えらいねピチカ」
目じりをグニャングニャンにしながら、その頭を撫でまくった。
ピチカも撫でられるのが好きなのか、
「んーっ」
目を細め、背伸びして、僕の手につむじを押し付けるようにしていた。
そんな、おりこうピチカの話を聞くと、なんとサルラの町に、あの「おばあちゃん」が来ているそうなのだ。
ピチカ曰く、
「おばあちゃん、悪いことした。ピチカ、とっちめる」
という事らしい。
とっちめる、とか穏やかじゃないな。
心なしか、ピチカに怒っているような雰囲気も感じられる。
二人に何があったかは分からない。
とにかく一度ちゃんと挨拶をしておきたかったので、ピチカに頼んで、一緒に会わせてもらうことにした。約束は昼前。噴水広場のカフェテラスにて。
それまではピチカと色々遊ぶことにしよう。
そう提案すると、銀髪の上に乗っている犬耳がシャキンッと反応した。
「んっ、あそぶっ」
言うな否や、ピチカはテテと部屋を横切ると、ベッドにピョンッと飛び乗り、マットのスプリングをお尻で軋ませて、体を上下に揺らしだした。表情は1mmも変化が無いが、かなりテンションが上がっているようだ。
そんな小さな来客に微笑みつつ、僕は洗面所で身支度を整えることにした。
ザッと顔を洗い、髪を整える。
そして軽く歯磨き。この歯ブラシはラビットクローの軟骨が使われている。
何度も殺菌消毒してから加工されているのだが、解体場面を何度も見ている僕としては、その、あまり気持ちのいい代物ではない。
あの耳を口の中に突っ込んで……おぇ。
って、何してんだ僕は。
吐き気を追い出すためにもう一度顔を洗い、部屋に戻った。
そして頭を捻った。
「何してるの? ピチカ」
ピチカは部屋をうろうろしながら、しきりに鼻をスンスンと鳴らしていた。
そして足を止めては「んぅ~」と可愛く唸っている。
様子が変だ。
「どうしたの?」
もう一度声をかけると、虚空を見つめていたピチカが振り返った。そして、
「シンゴ、知らないメスの匂い………………だぁれ?」
声に抑揚が無いのはいつも通りだが、少しだけ緊張が混じっているように感じた。
まぁそれはさておき。
メスって言うと……リュッカさんしか居ないよな。
分類学上はメスだ。人間に分類されるかは謎だが。
最近あの人は、何かにつけて僕の部屋を訪れる。目当ては買いだめしている僕のお菓子。麻薬犬みたいに隠しているお菓子を見つけては、イナゴのごとく食い尽くす。遠慮なんて一欠けらもない。それはもう、入院患者そっちのけで見舞い品をむさぼる親戚のおっさんみたいな図々しさだ。
ひどい時など、飲み物持参で来る始末。
ここを餌が手に入る場所だと認識してしまったようだ。
そろそろドアの前に水入りペットボトルを並べたほうが良いんじゃないかと思う。
その話をすると、
「……」
ピチカは無言で、窓を開けだした。
まだ少し肌寒い風が、部屋の空気を掃き清める。
よくわからないが、リュッカさんの香水の匂いがダメだったんだろうか?
窓を全開にしたピチカは、次いで、そのプニプニのほっぺを、テーブルの角や壁に、スリスリと擦りつけだした。な、なにあの行動、めっちゃくちゃ可愛い。思わず鼻血を吹きそうになった。
傍から見ればスーパーラブリーな絵面。しかし、やっている本人は真剣そのもので、気軽に声をかけていい雰囲気ではなかった。
まぁやりたいようにやらせてあげよう。
そう思い、僕は僕で、着替えを済ませることにした。ウォークインクローゼットを開け、Tシャツとズボン、そして昨日受け取った洗濯済みの靴下を履く。
すると、謎儀式を終えたピチカが、右脇からぴょこっと顔を覗かせてきた。
「これ、なぁに?」
小さな指が示す先。
そこには木箱に詰まったた9mmマガジンと5,56mmマガジン。そして実験資料として、強化ガラスケースに収まっている弱装弾や割れやすい弾頭などが、展示品のように並んでいた。
さながら弾薬庫だ。
幼いピチカには好奇心をそそられる代物なのだろう。
ピチカは、そっと手を伸ばし、「触ってもいい?」という視線を向けてくる。
僕は静かに首を横に振り、ピチカの手を自分の手で包んだ。
「ピチカ、これはとっても危険なものなんだ。だから触っちゃだめ」
「んっ、わかった」
ピチカはその短い言葉で全てを納得し、こくんと頷いて見せた。
おりこうさんだ。
あれだけ好奇心旺盛なのに、僕の言う事にはちゃんと従ってくれる。
それが嬉しくて、またピチカの頭を撫でた。
しばらく綿毛のようにふわふわした髪を堪能していると、「くぅ」とピチカのお腹が鳴った。
あれ、もしかして。
「ピチカ、朝ごはんまだなの?」
「……ん」
銀髪をゆらして頷く。その声はすこし弱い。
今はまだ6時にもなっていない。
ということは、出発したのは夜明け前ぐらいってことになるよな。
「じゃあ、いっしょに朝ごはん食べよっか?」
「んっ!」
声の調子が強くなった事に頬を緩ませながら、僕はピチカの手を引いて、一階のキッチンへと向かった。
追加注文とか、融通が利くといいんだけど。
ま、ダメなら外に食べに行けばいっか。それはそれで楽しそうだし。
そんな僕の心配は、杞憂に終わった。
にしても、凄い物を見てしまった。
いまでもちょっと信じられない。
あの、滅多に表情を見せない、歴戦を生き抜いた古兵のようなコック長が、
「ピチカも、クレープ、ちょーだい?」
この一言で秒殺された。
鉄板のような顔が、一瞬で溶けたバターのようにフニャフニャになり、蕩けた目じりで了承してくれた。その様子を見ていた内弟子の若者が、戦慄して皿を割っていた。
にしても、すごい威力だなピチカの可愛さは。最強じゃないか。
この小悪魔ちゃんめ。
「よかったね、ピチカ」
「んっ」
手を繋ぎなおし、部屋へと帰還した。
そして僕らは鏡餅になった。
部屋のテーブルを隅に片す。
開いたスペースに、まず僕がうつ伏せに寝た。
そして僕の背に覆いかぶさるようにして、ピチカがうつ伏せになる。
まさに鏡餅。
ピチカの頭にみかんを乗せれば完成だ。いや、それはしないけど。
僕らが何をはじめたのかと言うと、クレープが出来上がるまでの間、朝練でもと話をしたら、ピチカが手伝ってくれると申し出てくれたのだ。
というわけで、腕立てのウェイトになってもらうことにした。
女の子なので、重石だということは伏せている。
姿見に映る自分たちを見て、思わず笑ってしまった。
鏡餅というより、まるで親子カエルだ。
背中の子カエルは、その目の輝きから、かなりご満悦だということがわかった。
「ピチカ、準備はいい?」
「ん」
「サルラの荒馬と呼ばれたこの僕を、見事、乗りこなすことができるかな?」
どんとこいっ! と片手をあげるピチカ。
そんな様子に口端を曲げつつ、腕に力を入れ、体を持ち上げる。
背中越しに、ピチカのワクワクが感じられた。
「それじゃあ、カウントよろしく」
「ん。いーちっ」
声に合わせて、ゆっくりと体を沈めていく。鼻先がつくと、再び持ち上げる。
ピチカの体は驚くぐらい軽いから、動作に何の支障もない。
調子も良いし、このまま新記録が狙えそうなくらいだ。
「にーいぃ」
そこで。
ちょっとイタズラ心が芽生えた僕は、急なスピードで体を持ち上げてみた。
すると、
「ぅっ!?」
油断していたピチカが、ギュッと背中にしがみ付いてきた。
そしてそんな僕の後頭部をポカッ。
「ふざけちゃ、めっ」
「ごめんなさいピチカ。今ので目が覚めました。僕、まじめにな生きます」
「わかれば、よろし」
後ろ髪をさわさわと撫でる手の感触を楽しみつつ、腕立てを再開。
そんな陽気な腕立ては、しかし回数が10回を迎えたあたりでおかしくなった。
「はーち……きゅーう……じゅーう………………………………」
「?」
ピチカのカウントに空白が生じる。
鏡を見れば、ピチカは両手をグーにしたまま、コテンコテンと頭をかしげていた。
あぁそういうことか。
「ピチカ。10の次は11だよ」
「んっ」ピチカはメトロノーム運動を止め、「じゅーち」
その声に合わせて、体を下げ、上げ。
そして、
「……」
再び空白。
「あの、ピチカさん?」
「…………」
「11の次は――」
「言っちゃ、ダメ」
ピチカは僕の言葉を遮ると、必死に指を折りながら11の次をひねり出そうとしていた。その健気さがなんとも愛らしいんだけど……ちょっとキツくなってきた。
僕の二の腕が、筋繊維の限界という電気信号を着信し、さっきからブルブルとバイブレーションしているのだ。
「こ、このままだと潰れちゃうから、いっしょに数えない?」
「ん~」
「そっちのほうが楽しいよ?」
「でもピチカ、じゅーちのつぎ、知ってる…………もん」
すこし拗ねた声。
それを聞いた瞬間、後頭部を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。
だーもーチクショウかわいいなこんにゃろめ!
このままひっくり返って、ラッコの如くギュッとしたくなる。
その衝動をなんとか理性で堪えつつ、
「もちろんだよ。でもピチカが数えているのを見ているうちに、僕もやりたくなったんだ。だから、ね? 一緒に数えよ?」
「……ん、わかった」
口をもにょもにょし、やがて、ピチカはコクンと頷いた。
どうやら納得してくれたようだ。
「じゃあ行くよ? 12」
「じゅーに」
「13」
「じゅーさん」
「14」
「じゅーよん…………ぴゃっ!?」
「あはははは」
油断した所で、さっきの急に体を上げるヤツを仕掛けたのだ。ビックリして変な声を出してしまったピチカは、尻尾をピンッと立てて、ポカリ、ポコッ、パカン。両手で僕の頭をドラムのように叩きだす。
「シンゴ、わるいこっ、めっ、めっ」
「あははは」
「笑うの、だめ」
「ごめんピチカ、もう笑わないよ。次からはマジメに働きますから許して」
「だめ、おしおき、めっ」
後頭部に軽い振動が続く。
めったに変化を見せないピチカの頬が、ほんの少しだけ紅潮していた。
よっぽど恥ずかしかったらしい。
僕らの楽しい運動は、オーナーが扉をノックするまで続いた。




