2-14 月が見ている
唯一気がかりがあるとすれば。
それは僕が、ちゃんと引き金をひけるかどうかだ。
感情的にならず、冷静に――人が殺せるかどうかだ。
噴水広場を後にした僕とアイザックは、ひとまず定住しているホテルへと移動した。
移動中、尾行を警戒していたのだが、やはり怪しい人影は無かった。
ホテルのオーナーに事情を話し、アイザックを保護してもらい、同時にカバンも預け、最低限の身支度を済ませると、僕はサルラの町を出た。
その際、リュッカさんに手助けしてもらおうか考えたが、却下した。
これは僕個人が請け負った「人助け」だ。
それに彼女を巻き込むのは筋違いだと考えたからだ。
きっとリュッカさんも同じ事を言って断るに違いない。
そういう厳しさと優しさを持った人だからね、リュッカさんって人は。
町を一歩外に出ると、そこはもう完全に夜の世界となっていた。
夜空には三日月がのぼり、その月明りがあたりを照らしてくれる。
街道を歩く分には支障は無い。しかしこれから僕が向かうのは森の奥。照明器具なしでは普通の人はまともに歩行できないだろう。
なのに僕はオイルランプの類を持って来てはいない。
必要ないからだ。
称号『一匹狼』の効果の一つ、知覚能力向上。
どうやらこの能力向上のおかげで、夜目が利くようになったのだ。
数日前、この変化に気付いた僕は、何度か近くの森で夜間歩行訓練をした。いまでは何の支障も無く、夜の森を歩くことが出来る。
おまけに耳もよく通り、いま鳴いた虫がどの位置にいるかわかるくらいだ。
アイザックの話を聞いていたとき『自分には強みがある』と思ったのがこれだ。
山賊はおそらく夜目が僕ほど利かない。
当然、移動にはランプが要る。
だが僕は夜の森を昼間のように歩くことが出来る。
つまり森の中でなら、相手に気取られずに、先に相手を発見することができるのだ。
まず蒸留小屋付近で待ち伏せし、見回りにきた敵を発見。尾行して、弟アントンが捕えられているであろう拠点まで行く。
しばらく街道を歩いていると、だんだんと周囲の景観が平地から山地へと変わっていく。それに伴って、吸い込む空気の湿度も変わる。森の匂いがしてきた。
やがて前方に三叉路が現れた。
僕はこの3つのうちどの道にも入らず、右脇にぽっかりと開いた4つ目の山道へと進んだ。すると木々の密集度が上がり、一気に視界が狭まる。
闇の濃さが増し、独特の雰囲気に全身が飲み込まれていく。
しかし以前のような恐怖や圧迫感はなく、むしろ安心感があった。
それに懐かしさ――むかし遊んでいた公園の前を自転車で通り過ぎたような、不思議な懐かしさが胸の中に湧き上がってきた。
帰ってきた。
そんな言葉がぴったりの気分だった。
僕は街道を歩いていた時よりも早いテンポで山道を進んだ。
旅人の情報と地図を頼りに進むこと30分――。
初めに気づいたのはニオイだった。
濃厚な樹葉と土のニオイに、血のニオイが混じっていることに気付いた。鉄さびと生臭さを攪拌(かくはん)したようなその匂いは、ある方向から漂ってきている。
僕は即座に対応できるよう体に緊張を漲らせながら、歩行速度を緩め、慎重に移動した。
やがて僕は、ある物を見つけた。
山道をすこし外れた獣道。その傍らに、折った枝葉で覆い隠された「何か」を発見したのだ。覆われた枝葉を除けると、そこには丁寧に解体された馬車の残骸が、乱雑に積み上げられていた。しかもご丁寧に、半透明の粘液の高い液体をかけられている。
おそらく馬車の塗料を自然に溶解させるための物だろう。
辛うじて残っている馬車の塗料は、アイザックの言っていた物と同じ色。
旅人が示した蒸留小屋は、ここからすこし歩いた場所。
そして証拠隠滅の痕跡。
間違いない、ここでアイザックとアントンは拉致された。そして――。
僕はいやな胸騒ぎを抑えつつ、さらに周囲をくまなく調べた。
どんどん血のニオイが濃くなってくる。
やがてニオイの正体を突き止めた。
「……」
ソレを見た瞬間、思考に空白が生まれた。
ごくりと息を飲む。
僕の視線の先には……二人の老人が折り重なるようにして倒れていた。
二人とも、すでに事切れている。
その亡骸は、思わず目を覆いたくなるような惨たらしいものだった。
上に覆いかぶさっている老人の損壊がとくに酷い。その背中は、まるで虎が爪を研いだかのように、無数の切り傷が縦横無尽に走っていた。
どれも傷口は浅い。
ほとんどが皮と肉を浅く切ったものばかり。
この傷を作った奴が『わざと』苦しむように剣を振った証拠だ。
足元をよく見れば、2筋の血痕が、彷徨うように糸を引いていた。
必死に逃げようとする……その背中を切り続けた……証拠だ……。
無意識に握り締めた拳、それを包むレザーグローブが、ミチミチと悲鳴を上げる。
老夫婦の背の中央には、拳ほどの穴が開いている。これが致命傷のようだ。そしてその穴は、下にいる老婆にまで達していた。
二人の指には、同じデザインの指輪。
ああそうかと思い至る。
この老人は、妻を守るために最後の最後まで、我が身を盾にしていたのか。
それを……。
それをやつらは……。
人の命を弄ぶように、なぶり殺しにしたのか。
証拠を消すためなら、ここまで傷つける必要は無い。むしろ不合理だ。
つまり……つまり遊びで……ここまで苦しめたのだ。
何の罪もない老人を、余興のために拷問まがいの激痛を味わわせていたのだ。
こんな惨たらしい目に……遊びで……。
きっと、笑っていたのだろうな。
老人が苦しみの声を上げるたびに笑ったのだろうな。
事切れるその時まで、笑い続けていたのだろうな。
耳の奥に、連中があげる笑い声の幻聴が木霊す。
全身が総毛立つ。
頭に血が上り、視界が歪む。
強く噛み締めた奥歯が軋みを上げる。
…………くそが。
……くそが。
くそったれがあああああああああああ!!!!!
引火した可燃性ガスのように感情が熱膨張を起こし、理性の留め金が外れかかる。
激情が全身を駆け巡り、細胞が叫びを上げる。ぶち殺せと咆哮を上げる。
クソ外道共が。
同じ目に合わせてやる! あいつらを同じ目に合わせてやる!
老人の苦しみをあいつらにも味わわせてやる!
生きている事を絶望するぐらいの暴力を与えてやる!
ブッ殺してやるぞクソ外道どもがああああ!!!
大胸筋を切り裂いて飛び出そうとする灰色の狼。
僕は際どいところで、その首につながれた鎖を掴み、全力で引いた。
堪えろ! と強く念じる。
だが灰色の感情はなかなか止まらない。止まろうとしない。
血管が浮き上がった右手が、ベレッタを生み出そうとする。グリーンの光を生み出しかけたその手を、左手で掴み、腹の辺りに押さえつけ、体を折るようにして抑え込む。
寒くもないのに体が震えだす。
発露の場を失った激情が体の中を駆け回っているのだ。
僕は右手を握りながら、さらに強く念じる。
今じゃない!
暴れるのは今じゃない!
今朝のように我を見失うな! 目的を見失うな! 今は堪えろっ!
理性を手放すな!!
歯の隙間から、ふー、ふー、と荒い息を繰り返す。
マグマのように煮えたぎった激情を、全身で包み込むようにして抑える。
「ふー、……すぅぅぅぅぅ、ふぅぅぅぅぅぅ」
鼻から息を吸い、口から吐く。
静かに深呼吸をする度に、脈拍数が徐々に減少していく。熱が引いていく。
ようやく落ち着きを取り戻した僕は、静かに姿勢を正した。
そして、ある事をはじめた。
自分の立つ位置から、すこし離れた場所。そこはちょうど木々の隙間から、月明りが零れ落ち、草葉を白く照らしていた。
僕はそこに、二人の遺体を運び、横に並べた。
そして恐怖と痛みで醜く歪んだ顔に、白いハンカチをかける。
離れていた二人の手を結ぼうとする。しかし死後硬直が進みすぎて出来ない。しかたなく僕は包帯代わりに持っていた布で、二人の手を巻きつけた。
けっして外れないように。しっかりと。
そして僕は遺体の傍らに座り、瞑目した。
自然と合掌の姿勢をとる。
僕は念仏を唱えることが出来ない。
だから代わりに、心の中で二人に語りかけた。
『――どうか。
どうか、この森で彷徨わないでください。
ここには何もありません。
あの月が見えますか。
あの月を目指して天に昇り、どうか冥土に向かってください。
お二人がこの世に残した無念は、この僕が断ち切ってみせます。
かならずや外道どもを討ち、その無念を晴らせてみせます。
だからどうか、迷わず成仏してください』
僕は合掌を解き、静かに立ち上がった。
最後に一礼し、歩き出す。
ゆっくりと、全身を森の闇に溶かし込む。
まったく熱を発しない怒りが、胸の中で殺意となって渦を巻く。
手に、冷たくなった皮膚の感触が残っている。
腕に残るのは、脱力した人間の重み。
灰色の狼が僕を急かす。
月が見ている。
僕は今夜、人を殺す。
そこに迷いは無い。




