2-12 弱虫の意地
赤毛の貴族の名前はアイザック・フリードマン。
アイザックは僕の隣のベンチに腰掛け、旅人に怪我の応急処置をしてもらいながら、これまでの経緯をとつとつと語った。
まるで事務室に座らされている万引き犯みたいなアイザックを見て、どうせ性懲りもなく悪さをしたんだろと思っていたのだが、話を聞くと、僕の予想とは違っていた。
彼はギルドで拘束を解かれた後、帰宅するため素直に駅馬車に乗ったらしい。
ちゃんと反省はしていたようだ。
しかしその帰り道、事件は起った。
乗り継いだ馬車が、運悪く山賊の偽装馬車だったのだ。
その時一緒にいたアイザックの弟アントンともども頭巾を被らされて、山賊の根城まで拉致された。そして弟を人質に取られ、アイザックだけは解放された。アイザックの役割は金の運搬係。身代金1000万ルーヴを実家まで取りに行き、翌朝5時に指定の場所に一人で持って行く。
つまりこれは、身代金目的の誘拐だ。
もし途中、アイザックが衛兵やギルドに助けを求めたら、弟の命はないそうだ。
なんでも町に仲間が紛れ込んでいるらしく、助けを求めればすぐに分かると脅されたそうだ。事の真偽は定かではないが、迂闊に行動できない。脅しとしては効果があるか。
一応、目立たないように周囲を確認したが、怪しい人影はなかった。
そして金の受け渡し場所に、アイザックが誰かを伴って来た場合も、弟の命はない。
「……うぅ」
薬を塗り終えたアイザックは、石を背負ったように、うな垂れていた。
そんなアイザックに、僕は当然の質問を投げかけた。
「実家に戻らなくて大丈夫なんですか?」
話を聞く限り、時間に余裕は無いはずだ。
頭を上げたアイザックは、眉を歪め、いまにも泣き崩れそうな顔をしていた。
その様子を怪訝に思いつつ事情を聞き――そして僕は唖然とした。
なんと殴られたショックと恐怖で放心状態になり、さらに自分だけ開放された事で頭が真っ白になってしまい、気付いたらここにいたそうだ。
なんじゃそら。
隣にいた旅人も呆れていた。
アイザックの実家はここから馬車を乗り継いで片道3時間。次の便は明朝。
どう考えても間に合わない。
駅馬車の管理会社に事情を話して送ってもらおうにも、乗り手が寝ている。おまけに夜に馬車を動かすことは、この世界では非常識とされている。夜になると活発になる野生動物が多数いるからだ。おまけに現代みたいに街灯が設置されているわけでもないし、ガードレールなんてものもない。
道にある落石に気付かずに石に乗り上げてしまう事故もあるらしい。
つまり――
「……」
「……」
僕と旅人は無言で見つめあう。
つまりアイザックが解放されて、すぐに実家に行かなかった時点で、もうこの話は終わっているのだ。
犯人は人選を誤ったようだ。
今さらどうしようもない。
その事を、本人もちゃんと理解しているのであろう。アイザックは背を丸めて座り、まるで肩を揺すれば首が抜け落ちるような、抜け殻になっていた。
自分のせいで、助かる命が助からなくなった。
その自責と絶望感に耐えられなくて、縮こまることしかできないでいるのだ。
「弟が……ウッ、ヒック、お、俺が弱いせいで……弟が……」
アイザックはしゃくりあげながら、自分の額に拳を叩き付ける。
そんなアイザックを見て「自業自得」という言葉は出てこなかった。
いまは同情すらしている。
トトリ峠の一件で、他の貴族たちはどうか知らないが、少なくとも、アイザックは自分でやった事の『ケジメ』はつけた。僕はちゃんとコイツの事を覚えている。たしか脛を折ったはずだ。健康な脛を折られることが、どれだけの苦しみを生むかなんて想像に難くない。
そして二度とトトリ峠に悪さをしないと誓約書も書かせた。
即刻帰宅することも約束させた。
そしてアイザックは、それら全てに従った。
アイザックのやった罪は消えないが、やったことの「落とし前」はこれでついたと僕は思っている。当事者とかだったら反論もあるだろうが、少なくとも僕の目にはイーブンになったと思う。
だから彼を助けようかと悩んでいるのだが……。
僕は思案しつつ、隣を見る。
ぽたり、ぽたりと石畳にアイザックの涙と涎が落ちていた。こうして泣きべそをかいているだけのアイザックを見ていると、どうしても決断が鈍る。
アイザックには――が足りない。
僕の胸に住まう狼も、一度は顔を上げたものの、いまは地面に腹ばいに寝そべり、前足を組んでその上にアゴを乗せ、リラックスの姿勢をとっている。あくびをして興味なさげにしている。しかしその尖った耳は、アイザックのほうを向いたまま。
僕もそう思う。同意見だ。
アイザックには決定的に――が足りない。
それを聞けるまでは動く気にはなれない。
いまは保留だな。
僕はアイザックを挟んだ向こう側に座る旅人に質問した。
「田舎から出てきたばかりで、よくわからないんですが、聞いてもいいですか?」
「だと思ったよ。で、何だ?」
「こういう誘拐の場合、町のみなさんはどう対処してるんですか?」
その発言が、なんとかアイザックの力になってやろうと心を折る善人という風に、旅人に取られたのだろう。彼は表情を崩しつつ、親切に教えてくれた。
すこし違うんだけどなぁと思いつつ、話を聞いた。
まず、誘拐された時点で、ほとんどの被害者は抵抗を諦めるそうだ。
向こうも商売でやっているのだから、金を出して穏便に事を収めた方がいいからだ。
なにせ天秤の片方に乗せられているのは、大事な肉親の命なのだから。
事を荒立てることは避けたいと考えるのが普通か。
あれ、でも。
「冒険者ギルドには誘拐の救出ってなかったですか?」
たしか人命救助の任務があるとステラさんに聞いたことがある。
「あるにはある。だが依頼に金が掛かりすぎる」と旅人。
犯人を殺すだけなら難易度はそれほどでもないが、人質を『安全』に救出する事が目的なわけだから、当然、それ相応の腕が要求される。
つまり人件費の単価が跳ね上がるのだ。
おまけにある程度の数を揃えないと、冒険者は引き受けたがらないのが常。
そんな大金を払うくらいなら、誘拐犯から要求された金を払った方が安くつく。
そして誘拐犯のほとんどがが、依頼料よりも低く身代金を要求してくるのだ。
どっちがいいかなんて、考えるまでもない。
簡単な引き算だ。
今回の場合、誘拐したのが貴族であるため身代金も高額になる。それでも1000万というのは、かなり良心的らしい。たとえば5000万でも貴族なら金を用意する事が出来るだろう。しかし5000万払うくらいなら2000万で一流の冒険者を複数雇った方がいいと判断する可能性が出てくる。この1000万は、そういった誘拐犯の計算が見え隠れする数字だと旅人は言った。
おまけに期限が短いというのも曲者だ。
相手に考える猶予を与えない。
そしてすぐに用意できる金額。
金の受け渡しは人質の一人。
目論見が失敗すれば即座に証拠(人質)を消して逃げる。
金への執着よりも、目的達成の徹底した姿勢が見て取れる。
誘拐犯の用心深さが、僕にもおぼろげながら見えてきた。しかしアイザックの心の弱さまで考慮していなかったのは、向こうの失敗だったようだが。
「でも、普通の誘拐ってここまで手が込んだ物なんですか?」
「いやここまでの代物はなかなか……もしかしたら……」
「何か心当たりでも?」
旅人は頷き、いまだ消沈したままのアイザックに尋ねる。
「根城に運ばれたと言ったな? それは馬車でか?」
アイザックはゆっくりと首を横に振る。
「……歩いて……袋を被せられて、ケツを蹴られながら歩いた」
「その馬車がどうなったか分かるか?」
「いや……見えなかったから……でも、後ろのほうで解体がどうとか言ってた……」
それを聞いた旅人があちゃーというように顔を歪めた。
僕は意味がわからず首を捻る。
「どういうことです?」
「間違いない。山賊バズだ」
そう断言する旅人。
バズと名を口にした旅人の声には、あきらかな畏怖と嫌悪があった。
どうやら相当にヤバイ連中らしい。
山賊バズ。
このあたり一帯で活動している6~7人の犯罪者グループ。
グループのボスであるバズ・ホルミノフは、数年前までカンニバル国陸軍に所属していた経歴のある元軍人らしい。
山賊バズは、痕跡を消す事を徹底していることで有名なのだそうだ。
さきほどの偽装馬車も、一度使ったら破棄するようだ。
そうすれば足がつかないからだ。
アイザックを襲った山賊は、アクション映画に出てくる頭の弱い雑魚ではなく、さながらサスペンスに出てくるプロの犯罪者だったわけだ。
「でもそんなヤバイ連中だと、軍とかギルドが討伐したりしないんですか?」
「実際に何度かあったらしい。だが全部失敗に終わったって話だ」
「ええ!? そんな強いんですか!?」
「いや、言っても連中も所詮はチンピラ集団だ。ろくな装備もないから、正面から来られたら太刀打ちできないだろうよ。だが、山賊バズは敵の接近を察知する術に長けているせいでな、近づこうとすると即座に逃げやがるんだ」
「察知って、魔法とかそういったものですか?」
「元軍人と言ったろ? 魔法なんて使わなくても接近を察知する術があるんだよ」
詳しくは知らないがな、と旅人。
おまけに山賊バズの活動拠点は森の中に点在しており、めったに人里に出ないから、足取りを掴むのも困難。
手下を生け捕りにしても、拠点がどこか知っているのはボスだけ。
なるほど。たしかに手ごわいわけだ。
可能な限り目撃者も殺す徹底ぶりだ、と旅人は吐き捨てた。
旅人のその言葉を聞いて、僕はある可能性に思い至った。
「アイザック、偽装馬車には、あなたたちの他に誰かいましたか?」
「……いた……老人の夫婦が……」
「そ、その夫婦はどうなったんですか?」
「わからねえよ! 頭巾を被せられる前に……馬車の外に引きずりだされたから……」
それを聞いた旅人の顔が曇った。それがすべてを物語っていた。
そうか、邪魔だから片付けたのか。
馬車と一緒に。
生きた人間を。
何の罪もない人を。……なるほどねぇ。
渦潮のごとく逆巻いているドス黒い感情を抑えながら、質問を続ける。
「アイザック、敵の居所がどこかわかりますか?」
「わからない。目隠しされていたから……」
「何でもいいんです。何か手がかりになるような、たとえば匂いとか音はありませんでしたか?」
数秒の沈黙の後、アイザックは答えた。
「……たしか、部屋がすげえキツイ匂いがした。鼻の奥が痛かった」
それを聞いていた旅人が、どれ、とアイザックの服を嗅ぐ。
すると何かが分かったのだろう。
今度は旅人が質問を引き継いだ
「その部屋ってのは、床板が腐ってなかったか? それか風が吹くだけで壁がギシギシ鳴ったりしなかったか?」
「えっ……あ、ああ、たしか、動物の鳴き声みたいな音が壁から……」
「わかった、そこは『棄てられた樹液蒸留小屋』だ」
わかるんですか? と視線を投げかけると、旅人はハッキリと首肯した。
なんでも旅人は路銀のために木こりをたびたびしているそうだ、。
そしてこの樹液蒸留小屋というのは、集めた樹液を蒸留、加工する作業場らしい。
ただ発生するガスで家屋が徐々に腐敗していき、やがて倒壊する恐れがあるため、数年経つと解体されるか、そのまま棄てられる場合がある。そういった小屋が、この辺りにはいくつかあるそうだ。雨宿りをして家屋の下敷きになるのは御免だから、旅人は手持ちの地図にマーキングし、おなじ旅人仲間に伝えているそうだ。
それが今回、役に立った。
アイザックが解放された地点のあたりと、旅人が記した棄てられた蒸留小屋のうちの一つがぴたりと一致した。
アイザックが拉致されたのはこの場所だ。
そしてこの場所は、まず間違いなくトラップだ。
わざわざ分かりやすいアイテムを開放した人間に記憶させ、自分たちのいる本拠地から相手の目を逸らさせる。これが短絡的な動機から来る犯行ならば考えすぎになる。でも相手はプロだ。
まず間違いなく、アイザックを開放したあと、別の場所に移動したはずだ。
そして遠くから、その蒸留小屋を見張っているはずだ。小屋の周辺に、人の接近を探知する、原始的な仕掛けをしている可能性も高い。
そうやって監視し、もし不振な人影が蒸留小屋に近づいた瞬間、作戦を中断する。
だが逆を言えば、その蒸留小屋から歩いて確認できる距離に、本拠地があるという事にもなる。夜中に人影を確認し、さらにそれを拠点のボスに伝達する必要があるため、遠くては意味が無い。夜の森で馬は使えない。人の足でとなると距離は限られる。
間違いない。
拠点はこの近くだ。
――ここでなら僕の『強み』が発揮できる。
旅人に聞けば、山賊バズは武装をほとんどしていない。いつかのラビットクローのときに襲ってきた盗賊と大差ないそうだ。だとすれば勝機は高い。
これなら何とかなりそうだ。
胸の中にいる狼が、体を持ち上げ、ブルブルと身震いしている。
もう心の中では救出を実行するつもりでいる。
だが、最後の「きっかけ」が足りなかった。
そのきっかけを与えてくれるはずのアイザックは、
「……う、うぅ、ごめんよぉ……ごめんよぉアントン……」
話し終えると、萎んだ風船のようになっていた。
もとから気弱な性格なのだろう。
こういった荒事を前にして、完全に萎縮してしまっている。
助けてくださいという言葉さえ出てこなくなった。そして誰かが何とかしてくれるのを、ああしてじっと待っている。自分で動こうとせず、終わるのを耳をふさいで待っている。まるで僕が、初めてあの森で襲われ、死にかけた時の様に……。
アイザックに同情はする。助けるつもりでもいる。
だが、このままではダメだ。
アイザックの本心を確かめる必要がある。
「……」
無言で立ち上がると、アイザックは涙でぐしゃぐしゃになった顔を向けてきた。
まるで救いを求めるかのように。
それを見下ろしながら、僕は告げた。
「弟の救出に、いくらお金を用意できますか?」
「……えっ」アイザックの濡れそぼった瞳が、みるみる見開いていく。
旅人がギョッとしている。
無視して話を続ける。
「冒険者としてではなく、個人としての契約になりますが」
「そ、それでいい! ほんとうに、い、行ってくれるのか!?」
「額によります。で、いくら用意できるんですか?」
アイザックは逡巡したのち、
「お、親に頼めば――」
「親はダメです。あなただけで用意できるお金です」
「じゃ、じゃあ100万ルーヴだ。なんでもする。借金だってする。だから――」
「わかりました。その100万ルーヴで手を打ちます。あとあの趣味の悪い剣は?」
「あ、あれはトトリ峠に置いたままだ。たぶんまだあるはずだ!」
「もう無用ですね。じゃあそれを売ったお金を、追加報酬に加算してください」
「わかったそうする。だから――」
「最後に」
すがりつこうとするアイザックにぴしゃりと言葉を放った。
金の話など、ただの前フリだ。
本題はここからだ。
「僕が行った時、すでに弟さんが死んでいた場合、それは僕の責任ではありません」
「あ、あぁ、わかっている」
「また交戦時に巻き込まれて死亡した場合も、僕はその責を負いません」
「……わかった」
「最後に、もし失敗して僕も弟さんも死亡した場合――」
「その場合、アイザック。あなたはどうしますか?」
「えっ!?」みるみる消沈していくアイザック「そ、それは……その……」
「アイザック、あなたの考えを聞かせてください」
「……」
僕の問いかけに対し、アイザックは沈黙で答えた。
そんな丸まった背中に、僕は鋭い目を向けた。
これが仕上げだ。
僕は俯きだしたアイザックの前髪を乱暴に掴み、その顔を強引に上げさせた。
そして鼻と鼻がつきそうなくらいの距離で、獰猛に睨みつける。
凍りつくアイザックに、噛み千切るような勢いで言った。
「お前、いつまで他人事みたいなツラしてんだよ」
鼻にしわを寄せ。
唸り声のような音吐で言葉を浴びせた。
「いま死に掛けているのは誰だ?
お前の弟だろ?
アイザック、お前は当事者なんだ。
いい加減、怖いからと目を背けるのは止めろ!
状況を悪くしたのは、たしかにお前だ。お前の心の弱さだ。
だが、そもそもこの状況を生み出した張本人は誰だ?
思い出せ。
連中の顔を思い出せ!
お前を卑劣な罠にかけ、弟を攫ったのは誰だ!
金が欲しいだけのウジ虫野郎共だろ!
それも自分の身を守るために老人を殺すような鬼畜外道だ!
そんな連中に弟を奪われて――
悔しいとは思わないのか?
怒りが湧いてこないのか?
なぜそれを僕に見せようとしない!
もし弟が死んだら仇を討つぐらいの気概を、なぜ見せようとしない!
そんな程度なのか? お前にとって弟という存在は!
取り乱して僕にしがみつくほどの価値もないのか!
救えないなら、せめてその無念を晴らそうという気にもならないのか!
お前にとって弟とはその程度なのか!
答えろ、アイザック・フリードマン!」
「ちょ、ちょっとあんた、いくらなんでも――ぃっ!」
旅人が口を挟もうとする。それを目線で黙らせた。
すみませんが少し黙ってていただけませんか?
石化したように沈黙したのを確認してから、アイザックに向き直る。
もとの口調に戻し、静かに告げる。
「アイザック。僕を動かしたかったら、それ相応の意思を見せてください」
言い終え、アイザックの瞳を覗き込んだ。するとそこには、さざ波のような感情の揺らぎが見て取れた。
それを確認した僕はアイザックを解放し、座りなおさせた。
ふたたびアイザックは俯く。
しかしその雰囲気は、先ほどとは全く違って、気弱さなど欠片も感じさせなかった。
腕が、肩が、背が、ぶるぶると震えだす。
その震えは恐怖からじゃない。
純粋な怒りからだ。大切な肉親を奪われた者が放つ憤怒だ。
ようやくアイザックは気付いたようだ。
自分が当事者であるという事に。
僕にも似たような経験がある。
この世界に初めて来たとき。
あの森の中、狼に殺されかけ、死ぬ間際になって、ようやく自分が当事者であることが理解できた。腕を噛み千切られる寸前まで、僕は他人事のように考えていたのだ。誰かが何とかしてくれると、無意識に目を背け、耳を塞いでいた。
さっきのアイザックみたいに……。
僕がわざわざアイザックを焚きつけているのにもわけがある。
これが冒険者の仕事なら、素直に請けていただろう。
しかしこれは違う。
これは仕事ではなく『人助け』だ。しかも命がけの人助けだ。
動くには、当然、それに値するだけの動機が必要になる。
トカゲと戦わせる決意をさせた帆馬車のビンズと母のような、あの動機だ。
それが必要なのだ。
しかしアイザックには、弟を助けたいと願う、その切実な気持ちが感じられなかった。
あるのは「あれをやってしまった」「これをやってしまった」という後悔ばかり。まるで、もう終わったことのような態度だった。
それが気に入らなかった。
助けても助けなくてもどっちでもいい人間のために、わざわざ自分の命を危険に晒してまで救助するつもりはない。アイザックが本当に心から助けたいと願っているのか、その意思の深さを確かめる必要があった。
面倒くさいと思われるかもしれない。
しかしこれが僕だ。
自分が納得するまでは動かない。
だからこうしてわざわざ発破をかけるような真似をしているのだ。
そして、その甲斐はあったようだ。
アイザックの体から震えが止まる。決心がついたようだ。
さぁアイザック。僕に示してください。
あなたにとって弟はどれぐらい価値のある人間ですか?
僕に、命を掛けて助けるほどの人間かどうか教えてください。
しばらくの沈黙の後、アイザックは顔を上げた。
その形相は、もはや別人だった。
濡れていた涙の筋は乾き。
戦慄いていた唇は固く引き結ばれ。
情けなく垂れていた目じりは吊り上り。
そして。
その瞳には、憎悪の炎が揺らめいていた。
内心で僕は笑った。
そうだよ、それだよ。最初っからその顔で頼んでいたら、こんな無駄話をせずに済んだんですよ。まぁ一応、聞いておくか。
「答えは出ましたか?」
「はい」
「聞かせてください」
「俺には弟を助ける力が無い。だから――オガミさん、あなたに頼む。この町に彷徨い着いたのも、強いあなたに頼ろうとしていたからかもしれない。オガミさん、お願いだ。俺の弟を、大切な弟を助けてくれ」
「もし失敗した場合は?」
「その時は……」
アイザックはギッと歯を噛み、決意をこめた視線を向けてきた。
「その時は、俺が弟の仇を討ちに行く」
「どうやってですか?」
「父と祖父を説得する。そして金を集めて、傭兵団を作って奴らを追う」
「もし説得できなかったら?」
「できないじゃない、するんだ! そのためだったら耳だろうが指だろうが、説得の場でナイフで切り取ってやる。オレがどれだけ本気か父や祖父に見せてやる! 俺の一生をかけても、最後の一人まで追い詰めてやる。そのためだったら何だってやる!」
「弟の無念を晴らすためだったら、この命だってくれてやる!」
「自分の命を掛けるほど、弟さんはあなたにとって大切な存在なんですね?」
「当然だ!」
絶叫に近いその断言は、演技でも、まして自暴自棄からくる妄言でもない。
本心だと理解できた。実際にやるだろうと確信した。
だから僕はこの依頼を受けることにした。
「わかりました、アイザック・フリードマン。弟アントン救出の任、申し受けます」
「ほ、本当か? 本当に受けてくれるのか?」
「二言はありません」
アイザックの瞳から再び一筋の涙がこぼれる。
それは悲しさからじゃない。悔しさからくる血涙だった。
「た、頼む……力のない俺の代わりに……アントンを救ってくれ……」
「この拝の名にかけて、必ず」
「頼む……」
血を吐くように呟くアイザックに、僕は静かに一礼した。
その様子を。
旅人は石像のように微動だにせず、見開いた眼で見ていた。




