2-08 先に折れることの本当の意味
「先に頭を下げてきなさい」
僕の相談に対し、斉藤さんの答えは実にシンプルだった。
でもその答えに、僕は納得できなかった。
つい反論してしまった。
僕だって酷い事を言われた。散々失敗を笑われた。向こうにだって非があるはずだ。なのになんで先にこっちが折れないといけないんですか?
でもでもだって。
それが見苦しい事だとはわかる。
でも、言い訳せずにはいられなかった。
何だかよく分からない意地というか変なプライドが、僕をそうさせるのだ。
「まぁ、そう考える気持ちも分かるよ」と斉藤さん。「でもね――」
「後か先かなんて考えているうちに、関係なんてあっという間に壊れちゃうんだよ」
「えっ」
虚をつかれたように驚く僕をその場において、斉藤さんはカウンターの奥へと引っ込んだ。数分後、湯気を昇らせたコーヒーカップを2つ持って戻ってきた。
「淹れて結構時間がたつけど、どうぞ」
「えっと、いただきます」
カウンターチェアーに向かい合うように座り、二人でコーヒーをすすった。
店内に、芳醇なコーヒーの香りが満ちる。
大きなガラス窓を通して、外を走る子供のはしゃいだ声が聞こえた。
斉藤さんが何か心の準備をしている。そう感じた僕は何も言わず、褐色の液体を味わいながら、斉藤さんの次の言葉を待った。
やがて 斉藤さんは意を決したように、口を開いた。
「最初に断っておくけど、僕の女性経験は1人で、しかも綺麗な別れ方をしていないんだ。おまけに、君にうまく言いたい事を伝えられる自信もない。そんな奴の経験談なんだけど、聞いてくれるかい?」
「はい」
僕はコーヒーカップを置き、神妙に頷いた。
そして斉藤さんは、アルバムをめくるように喋りだした。
「僕がまだ日本に居たころ、ある女性と付き合っていたんだ。
大学のサークルで意気投合して、そのまま付き合って、勢いで同棲したんだ。
その時は、何の根拠もないけど上手くいくと信じていた。
最初は浮かれてたから、相手のことがよく見えていなかったんだと思う。
いや、見ようとしなかったのかもしれない。
でも時間が経つにつれ、お互いの見えない部分が嫌でも目に入るようになった。するとそれに比例するかのように、互いの意見が衝突する回数が増えてきたんだ。
僕は、ぜんぶ頭で考えてから言葉を口にする人間なんだ。
神経質なんだよ。
そんな僕にとって、彼女の言動には、たびたびイラつかされていた。
すこし口論が熱くなった途端、感情ばかりを前面に押し出して、ちっとも筋の通った事を言おうとしない。
組み立てた理論に、感情をぶつけてくる。
それが許せなかったんだ。
心のどこかで、そんな彼女の事を馬鹿にしていたんだ。
頭の悪い女だと見下していたんだ。
酷い話だよね。僕の事を好きだと言ってくれた、最初の異性だったのに」
斉藤さんは、込み上げる感情を強引に嚥下するかのようにコーヒーを飲んだ。
そしてカップをカウンターに置いた。
力が篭っていたのだろう。ガンッという優しくない音がした。
「だんだんとね、熱が冷めていったんだ。
あれだけ大切にしていたワンルームが、月々数万も僕の財布から金を盗む害虫のように思えた。一緒に居るのが苦痛になって、がまんできなくなって。
そして喧嘩して、売り言葉に買い言葉で、アッサリと別れたんだ。
あの日の事をよく覚えているよ。
別れた日の僕は、彼女から解放されたような爽快な気分を味わっていたんだ。
深夜の自動販売機で買ったジュースで祝杯をあげたんだ。
自分が何をやらかして、何を失ったかを気付かないまま。
『どうして分かってくれないのよ!』
彼女の別れ際の言葉が、いまでも耳に残ってるよ。
僕が、その過ちに気付いたのは、この異世界に来てからなんだ」
相槌が打てない。
斉藤さんの一言一言の重圧が、僕の口を閉ざさせ、聞くことしか許してくれない。
まるで懺悔だ。
僕は聞き漏らさぬよう、斉藤さんの目を見ながら話に耳を傾け続けた。
「こっちの世界に来て、色々苦労したよ。
だって、誰も手を貸してくれないんだからね。
お金もないし、知り合いも居ないし、保護してくれる人もいない。
残飯を漁ったり、何日も野宿したり。
今日を生きることが、こんなにも苦しいことだなんて知らなかったよ。
繊細な僕には耐えられそうもなかった。日増しに生きる気力が無くなっていった。
絶望感だけしかなくて、自殺することばっかり考えてたんだ。
でも、そんな僕を支えてくれていたのは、彼女の感情的な言葉だったんだ。
おかしいよね。
言われた時は「何で今そんなこと言うんだよ!」「今それ関係ないだろ!」「気持ちじゃなくて筋道通してしゃべれよ!」って怒ってたのに、後になっていろいろ考えてみると「あぁ、そういう意図があったんだ」って気付くんだ。
後にならないと僕には分からなかったんだ。
彼女の優しさに。誠意に。
その言葉のひとつひとつの思い出に、僕は支えられ、死なずに済んだんだ。
もう二度と会うことができなくなった今になって、僕は後悔しているんだ。
あの時、先に謝っておけばよかったって。
そして。
そして、彼女の感情的な言葉の裏に、なにが隠れているのかを、分かろうとする努力をしておけばよかったって。
遅すぎるよね、気づくのが。もう謝ることさえできないんだから」
手からこぼれ落ちる水を眺めるように、斉藤さんは虚空を見つめる。
そのレンズの向こうにある瞳には、深い悔恨が浮かんでいた。
「オガミ君。僕たち男と、女性とでは、理論の組み立て方が違うみたいなんだよ。
誰かが言ったんじゃない。僕がそう学んだことなんだ。
考え方が根本的に違うんだよ。
それは馬鹿にするような事じゃない。とても素敵な違いなんだ。
でも、だからこそ僕たち男は、女性を一方向だけで見て、勝手に決め付けちゃいけないんだ。いろんな角度から見て、分かろうとする努力をしなきゃいけないんだ。
そのためにはまず、折れるしかないんだ。
そうじゃなきゃ、話が前に進まないんだ。
自分から折れて、歩み寄る勇気を持たないといけないんだ。
そうしなきゃ、相手が考えていることなんて分からないんだよ。
その人が大切なら、なおのことそうしないといけないんだ。
後か先かなんてどうだっていいんだよ。
人間関係で大切なのは勝ち負けじゃない。分かり合うことなんだよ。
相手に、彼女に弱みを見せるのが怖かったから、僕は謝る事をしなかった。
理論武装をして、正論を突きつけて、絶対に折れようとしなかった。
その結果がこれだ。
彼女の本心に気付くことさえできなかった。
そんな僕がこんなことを言うのも違うかもしれない。
でも、心に留めておいて欲しい」
「男だったら、先に頭を下げるくらいの気概を持たなきゃだめだよ」
僕は頷きながら、なぜか日本に居る父さんのことを思い出していた。
父さんは、母さんと喧嘩すると必ず先に謝っていた。
子供の目から見ても、母さんの方に非があると分かるような時でさえ、父さんは先に「ごめん」と謝った。そんな父さんを情けなく思っていた時期があった。そんな弱い父さんだから、気の強い母さんと相性がよかったんだろうな、とか考えていた。
でも、違ったのかもしれない。
父さんは、母さん以上に心の強い人だったのかもしれない。
自分の怒りを飲み込んで、相手に謝るなんて、よっぽど忍耐力がないと無理だ。
思い返せば、たしかに父さんが謝った後、2,3言葉を交わして、それで喧嘩が丸く収まっていた。僕の目にはそれで勝ち負けが決まったと見ていた。
でもちがうのかもしれない。
もしかしてそれが――
「どうするかは君が決めることだ。
僕は無理強いはしないよ。男でも女でも、クズはどこにでも居るからね。
謝った瞬間、その後頭部を踏みつけて高笑いする奴もいる。
その人に折れてまで歩み寄るだけの価値があるかは、君が決めることだ。
でも、もしそのリュッカちゃんが君にとって大切な人なら、謝りに行くことだね。
そして残り時間はもうあとわずかだよ。
次の機会なんて都合のいいものは一生やってこないからね?」
僕はカウンターチェアから立ち、斉藤さんに告げた。
「謝ってきます」
それは、自分で思っている以上に、すっきりした声だった。
それを聞いた斉藤さんは、その表情から沈痛な色を消し、笑顔をうかべた。
「うん、そうだね。そうした方がいいよ」
「相談に乗ってくださって、ありがとうございます」
「お安い御用だよ。あと、やっぱり悪いのはオガミ君の方だよ? 女性の容姿はとってもデリケートな話題なんだから」
「以後気をつけます」
「ははは、そうしたほうがいいね。じゃあ、明日の午後2時に」
「はい!」
僕は鞄を肩にかけると、はいっと頷き、そのまま店を飛び出した。
が、5歩目で足を止め、僕は180度ターンすると、再び斉藤さんのお店に戻った。
「どうしたの、なにか忘れ物?」
「えっと、もう一個お願いしてもいいですか?」




