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 ……きつい。

 ……吐きそう。

 荒い息を吐きながら、僕は木に寄りかかっていた。

 運動する習慣のない僕にとって、この森を歩くのは、かなりの重労働だった。

 鳩尾が引きつったように痛い。

 おまけに底がペラッペラの上靴で歩いているもんだから、何度も足を滑らせて、腕も顔も傷だらけだ。登山靴がなんであんなに厚底なのか、身を以って知ることになった。

(……いっそここで横になっちゃおうかな)

 寝ていたら救助隊が僕を見つけてくれるかもよ?、と甘い誘惑が囁いてくる。

 でも、ここで止まっているわけにはいかない。

 いつあのハサミネズミに胴体をちょん切られるかわかったもんじゃない。倒木に巻き込まれる可能性もある。

 だいたいどうやって救助隊が僕を見つけるんだよ。

 とにかく今は、歩くしかない。

 ようやく息が整ったので、「よしっ!」と気合を入れ直し、再び歩き出そうとした。

 その時だった。

「わわっ!?」

 前につんのめり、スッ転んだ。

 数えるのもバカらしくなるぐらいの転倒に、「あはは」情けなくて笑ってしまった。

 また木の根に引っかかったんだろう。

 そう思って、何気なく足元を見て――凍りついた。


「グルルルル」


 それは木の根じゃなかった。

 大きな灰色の犬が、僕の右ふくらはぎに食らいついていたのだ。

 いや犬じゃない。

 そんな生易しい生き物じゃない。

 2mぐらいはあろうかという巨大な狼。その狼が、噛み付きながら恐ろしい形相をこちらに向けている。

 脳がいまの状況を理解した、次の瞬間、

「うわあああああ!」

 喉が裂けるほどの叫びを上げた。

 パニックを起こした僕は、狼から逃れたい一心で、反対側の足をデタラメに蹴りだした。そして運よく狼の鼻先を蹴ることに成功。その拍子に、大きな顎が右足から外れた。

 顎から解放された僕は、尻もちをついた態勢のまま、あわてて後退さる。

 噛まれた右足を見ると、ズボンの膝から下が真っ赤に染まっている。興奮しているからか痛みは感じないが、傷口あたりが、湯船につけたような異様な熱を持っていた。

 一方、狼はというと、

「グル、グルルル」

 蹴られた程度で逃げ出すなんてことはなく、その場にとどまっていた。

 低い姿勢を維持したまま、観察するかのように、じっとこちらを見据えている。

 再び狼と目が合う。その瞳は殺気に燃え盛っていた。

(どうしよう、誰か、誰か助けて)

 唇が震え、頬の筋肉が痙攣する。

 こんな時どうしたらいいか分からない。逃げようにも足を怪我してるから走れない。

 どうしたらいいんだよ!

 恐怖と混乱で体が硬直してしまい、僕はその場を動けなくなってしまった。

 鉛を混ぜ込んだような沈黙。

 その数秒後。

「グァウッ!」

 獰猛な声を発し、狼が覆いかぶさるようにして飛び掛ってきた。

 一瞬で視界が灰色の体毛で埋め尽くされる。

 死ぬ。

 迫り来る光景を前に、僕の頭はその言葉一色に染まった。

 ひぃぃっ!

 僕は反射的に腕を突き出した。喉を食い破ろうとした狼の口が、僕の左腕に阻まれる。

 しかしそれは防御じゃなかった。

 目の前で、杭のような牙が「ぞぶりっ」と腕の肉に食い込み、ズブズブと沈んでいく。

 狼に飛び掛られ、僕は仰向けに押し倒された。

「グルァウ! グルァウ!」

 狼が乱暴に頭を振り、そのたびに傷口が残酷に広がっていく。

 皮膚の裂け目から、今まで見たことも無かった自分の肉と骨があらわになる。それを目にして、悲鳴すら上げられなくなった。

 生暖かい液体が、僕の胸元を濡らした。

 血だ。

 僕の血だ。

 がっちりと食い込んだ狼の口が、腕の骨を砕こうと、さらに狭まっていく。上腕骨が軋み、ゆっくりと骨が欠けていくミシミシという音が耳に届く。

 このまま腕を噛み千切られたら、次は喉か腹を噛まれるだろう。

 そうなったら終わりだ。

 自分が壊れていく様を他人事のように見つめる。

 ショックが大きすぎて現実感がない。痛みすら感じられない。

 死ぬんだ。

 ここで、わけもわからず、狼に食い殺されるんだ。

「い、いやだ」

 震える唇から声が漏れる。

 待ってよ。うそだろ、こんな所で死にたくない。

 こんな死に方いやだ。

「は、離せ、離してよ!」

 腕を引き抜こうとするも、まるで溶接されたみたいにビクともしない。

 僕の血が、狼の顎をつたい地面に落ちる。

 いやだ。

 僕は死にたくない。

 だって、まだ高校生だよ。

 まだ自分の将来を決めていないんだ。

 これから先、何か、何かするはずなんだ。

「誰かたすけてえええ!」

 発狂したように叫ぶ。だが応答は無い。

 空いている右手でこぶしを作り、狼を殴るが、まったく効いていない。

 どんどん血が流れていく。腐葉土に、ドス黒い血溜まりが広がっていく。

 まっすぐ縦に伸びている腕の筋繊維が、狼の奥歯によって、ぐちゃぐちゃに噛み砕かれていく。どんどん取り返しの付かない怪我になっていく。

 体から熱が抜けていくのが分かる。

「いやなんだよ! お願いだから離してくれよお! なんで僕なんだよお!」

 自分で何か決めたいんだ。

 自分がしたいことを見つけたいんだ。

 恋愛だってしたいんだ。

 お金だってちゃんと稼ぎたいんだ。

 大人になって、自立したいんだ。

 親孝行だってしたいんだ。

 それを、なんで。なんでこんな狼に全部奪われなくちゃいけないんだよ。

 いやだ。

 いやだよ。

 死にたくないよ。

 こんな。

 こんな所で。

 殺される。

 ぐらいなら。


 …。


 ……。


 ……やる。


 ……してやる。


 ころしてやる。


 ブッ殺してやる。



 僕の中で、何かが壊れる音がした。



 僕は弾かれたように体を起こすと、目の前にある狼の鼻先に――噛み付いた。

 歯が肉に刺さる感触が、口いっぱいに広がる。僕は渾身の力で首を横へスライドさせ、狼の鼻先を食いちぎった。

「ィギャンッ!」

 突然の激痛に驚いた狼は、僕の腕から顎を離すと、悲鳴を上げて跳び退った。

 それを視界に捉えたまま、ベッと肉片を吐き出す。ヨタヨタと片足で立ち上がると、僕は狼を睨み据えた。

 そして腹の底から、感情を吐き出すように僕は吼えた。


「ブッ殺してやる!」


 いままで経験したことの無いほどの怒りが、恐怖を真っ赤に塗りつぶす。

 やりやがったな。

 よくもやりやがったな。

 殺してやる。

 絶対に殺してやる!

 鼻の次は目だ。目の次は耳だ。そして喉を食いちぎってやる。

 ぶっ殺してやる!

 アドレナリンが全身を駆け巡るのが、手に取るように分かる。

 心臓が大胸筋を押し上げるような勢いでドクンドクンと力強く鼓動する。

「どうした来いよ! こっちも噛んでみろよ!」

 無事な右腕を突き出し、狼を挑発する。

 足を引きずり、自ら狼に近づいていく。

 ショックから立ち直った狼は、再び姿勢を低くし、

「ガルルルル」

 さきほどとは比較にならない程のうなり声を上げた。細長い鼻に皺を寄せ、鋭い牙をむき出しにする。静電気を帯びたように、背中の毛を逆立てた。

 僕に手傷を負わされたことが、もしくは今の僕の態度が、よほど腹に据えかねているのだろう。突き刺さりそうなほどの殺気を向けて来る。

 しかしそれを前にしても、僕は怯むことは無かった。

 むしろさらに怒りが増した。

 ざけるなよクソ。怒っているのは僕のほうだ。

 お前に殺されるぐらいなら、何度だって噛み付いてやる。

 絶対に殺してやる。

 強烈な感情に引きずられるように、もう一歩進みだそうとした。

 そのときだった。

「っ!?」

 脳裏に、あるイメージが稲妻のように駆け巡った。

 すると次の瞬間、僕の体に異変が起こった。

 突き出していた右腕が、グリーンの光りを放ちだしたのだ。それはまるで、腕の血管にサイリュームが流れ、皮膚の内側から発光しているかのような光景だった。

 やがて光りは手の平に集中すると、光の糸となって外へと溢れ出てきた。

 糸は意思を持ったように渦を巻いて収束していき、何かを形作っていく。

 時間にして一秒にも満たない間のあと。

 僕の右手には拳銃が握られていた。

 ベレッタM92F。

 FPSゲームで一番気に入っている拳銃だ。

 実銃なんて触ったことも無いが、手の中にあるそれはズッシリと重く、確かな存在感があった。

 ひんやりとしたグリップの感触が、渦巻いていた感情の熱を吸い取ってくれる。

 急激に冷静さを取り戻していく。

 このままでは使えない。

 気づいた僕は、スライドを口で咥え、後退させた。ジャキッという小気味いい金属音が口の中に響く。初弾が薬室に送り込まれる。これであとは引き金をひけば撃てる。

 この行為が、まるで世界と僕とがカチリとはまったような瞬間に思えた。

 僕は腕を伸ばし、銃口を狼に向ける。

 狼は姿勢を落とし、いままさに飛びかかろうとしていた。しかし狼の足が地面に離れるより前に、僕は引き金をひいた。

 引き金と連動したハンマーが、弾丸の雷管を叩き、ベレッタM92Fの内部で小さな爆発が起こる。その爆圧に押されるようにして、9mmの弾頭が「バレル」とよばれるトンネルを通過して加速していき、音速を超える速度で銃口から飛び出した。

 ――弾は狼の右頬に着弾。

 パンッと肉が爆ぜ、眼球と骨の一部が跳ねた。

 薄い皮を裂き、頬骨を砕き、弾はそのまま内部へと侵入する。

 そして柔らかな筋肉組織と接触し、内部で大きな空洞が広がった。この残酷な現象により、血管と内臓が裂け、生命活動に深刻なレベルの傷を与えることとなった。

 生まれて初めて体験した発射音と反動に、思わず身がすくみそうになる。

 しかしそれを堪えて、僕は立て続けに引き金をひいた。

 乾いた発射音があたりに木霊する。

 計3発。

 1発は外したが、2発は狼を捉えることができた。

 反響音が消える前に、狼は崩れ落ちた。

 パックリと開いた銃創からは、ドス黒い液体が勢いよく流れ出ている。

 それはどう見ても致命傷だった。

 だが驚くべきことに、

「……グル……グルルルル」

 狼は弱々しく立ち上がり、威嚇の声を出したのだ。

 立ち上がった拍子に、傷口から内臓の一部が零れ落ちる。

 体の内側がメチャクチャになっているはずだ。それなのに、こちらを向くその瞳は衰えず、あわよくば一矢報いようとする裂帛の気合さえ漂っていた。

 死への恐怖は微塵も感じさせなかった。

(すごい……)

 その姿に僕は、なぜだろう、感動を覚えてしまった。

 殺されかけたというのに、その怒りも忘れ、思わず抱きしめたくなった。

 だから僕は、敬意を込め止めの一撃を放った。

 耳朶を打つ炸裂音。

 右手首にドンと響く反動。

 スライドが後退し、空の薬きょうが宙を舞う。

 放たれた弾丸は狼の眉間に吸い込まれ、頭蓋を叩き割り、後頭部からピンク色の中身が飛び出した。

 今度こそ、狼は絶命した。

 ――倒した。

 僕がこの化け物を倒したんだ。

 得もいえぬ充実感が湧き上がってくる。だが喜びを声に出す気にはなれなかった。

 かわりに僕は、

「ありがとうございました」

 そんな言葉を口にしていた。

 その礼の言葉にどんな意味が込められていたのか、僕自身よくわからなかった。ただ、そう言うべきだと思っただけだ。

 アドレナリンの波が徐々に引いていき、すこしずつ落ち着きを取り戻してくる。

 すると今度は、激痛が僕を襲ってきた。

「イィィィ」

 食いしばった歯の隙間から声が漏れ出る。

 経験したことの無い激痛に目の前がチカチカし、堪えきれずに銃を落とし、額をぶつけるようにその場に倒れた。

 痛い痛い痛い!!!!

 猛烈な痛みから逃れるように、僕は地面をのたうちまわった。

 痛みのショックで横隔膜が痙攣し、息ができなくなる。口に掃除機を突っ込まれたかのように体から酸素がなくなっていく。

 痛みと窒息感で理性がめちゃくちゃになっていく。

 もがき苦しみ、そして無意識のうちに土を引っかきまわした。

「――!?」

 すると何かの拍子で、右手が何かを掴んだ。見るとそれは水晶で出来た牙だった。

 次の瞬間、さらに驚くべき発見をする事となった。

 牙を握った右手の傷が、みるみるうちに消えていったのだ。

 おまけに痛みの波が、少しずつ引いていくじゃないか。

 傷が癒えた? 痛くなくなってきた? なんで? この牙のせい?

 呆然としつつ、酷い状態の左手に、牙を近づけてみた。

 すると思ったとおり、痛みはさらに引いていく。次いで開いた傷口が波打ち、ピンク色の肉が泡立つようにボコボコ盛り上がっていき――

「……うげ」

 正視に堪えない状態になっていった。

 しばらくして、そむけた顔を元に戻すと、そこには血で汚れただけの、まっさらな肌があった。傷跡すらない。

 左足にも同様の処置をほどこすと、やはり同じように回復していった。

 痛みは完全に消えた。

 しかし足を治すと同時に、水晶の牙は亀裂が入って砕けてしまった。

 まるで役目を終えたかのように、手のひらから砂のように零れ落ちる。

「……」

 見知らぬ森。

 見たことも無い生き物。

 手から生み出された拳銃。

 傷を癒す水晶の牙。

 もう、わけがわからない。

 しかしそんな僕の混乱をあざ笑うかのように、背後の茂みが、がさりと音を立てた。




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