欠片
1
外の空気がやけに旨い。雨のあと、屋根裏の箱みたいに仄かに黴の匂いが立ちのぼると、子どもの頃の僕がふいに戸を叩く気がする。今日は妙に身体が重い――薬のせいで朝から鉛を抱えているみたいだ。空気を吸い込むたび、心臓の鼓動が一瞬遅れ、ほんの一拍だけ現実から切り離される。それなのに、具合は決して良くならない。むしろ、いよいよ悪化しているような気さえする。今日も世界は僕を無視するかのように明るく輝き、否応なく朝を連れてくる。だが僕の目にはその光景が一切届かない。世界はとても眩しく光を放っているのに、僕の眼は全部を鉛の裏側として見ている。ただ灰色の幕がかかっているばかりで、遠くの景色も人の顔も皆同じ色に沈んで見えるのだ。
僕が生きる価値のない人間だということは、幼い頃から理解していたつもりだ。生きることに悩む幼子などどこにいるだろうか――そう自問しながら。周囲の子供たちが遊びに夢中になる間も、僕はひとりで死について考え込んでいた。友達をつくるよりも前に、孤独というものを知ってしまったせいで。そうして気づけば、背中に目に見えぬ棺桶を背負いながら歩いているような感覚に取り憑かれていたのだ。
今日の僕はことさら酷い。昨夜飲んだ睡眠薬のせいで、朝から体が鉛のように重くて、布団から抜け出すだけでも一苦労。起き上がるたび関節が軋むし、歩こうとすれば膝が泥の中に沈むようで呼吸さえもぎこちなくなって――まるで壊れかけた歯車の動きを繰り返しているようだ。僕はとうとう人間ではなく、ただそこに据え置かれた鉛の塊になってしまったのだと錯覚する。
そんなときに限って父の怒鳴り声が部屋に響き、僕は渋々立ち上がらざるを得なくなるのだ。二十歳を過ぎた身でなお僕の暮らしは独房のようであり、そこから押し出されるたびに自分がいかに無力であるかを思い知らされる。成人したというのに僕には自分の一日すら支配する権利がないらしい。心の中で、ああ、僕はもう大人なのになあと呟く。しかし呟きは虚空に消えるだけで誰の耳にも届かない。僕の会話は、他者と交わす言葉ではなく常に独白でしかなかった。動物や虫ですらもっと豊かに音を交わし合っているように思える。
光にばかり目を晒していたせいで視力はどんどん落ちていっていた。ブルーライトを浴び続けた眼は焦点を結ぶ力を失い、遠くも近くも曖昧にしか映さない。形は歪み輪郭は滲み、結局のところ僕が見ている世界はスクリーンの光の中に閉じ込められている。現実の肉体はすでに薄れ、代わりに仮初めの光だけが僕を形作っているのだろう。
それでも僕は待っている、死期が訪れるのを。待ち遠しいものを抱える子供のように、クリスマスの朝を夢見る子供がそうであるように、僕もまたその時を愚かしいほどに待ち焦がれている。今日ではなく、明日でもなく、ただ遠いどこかにある「終わり」を。そんな時、僕は精神科の待合室にあった古びた時計の針を思い出す。秒針の進む音がいつも以上に遅く、けれど確実に命を削っていく――鬱病と告げられてから六年が過ぎていた。六年という年月は祝辞のようであり、記念碑のようでもあった。僕はその時点でようやく理解したのだ。これは一過性の災いか、生涯の伴侶か――もはやこれは治らぬ病であり、ただの持病などではなく僕の生涯を彩る本性そのものなのだと。そう考えるのは幼稚か、それとも悟りに近いのか。答えはわからない。ただ一つ、わかっていることがある。
――生きるとは、僕にとって死の練習に過ぎぬということ。死を夢見て生を擦り切らし、なおも呼吸を繰り返す愚かなる生物。それが僕の正体だ。
2
僕の一日は、起床と薬から始まる。薬。アルバイト。薬。そして帰路をとぼとぼと辿り、部屋に戻れば本を開いて、飯を口に放り込み、薬を飲んで眠る──その繰り返しだけが僕の世界だ。休日とて同じ輪で、起きることと横になることの差異は薄れ、時間はただ水平に転がり続ける。楽しいことなどなくて平坦で、引き籠りの病人の生活としか名付けようがない。
朝食の皿はいつも白く、白いまま舌の上で、それに含まれていた糖が溶ける感覚がする。薬は胃の奥で砂を撒き散らし、食欲は削ぎ落とされてゆく。鉋で薄く削がれるように、味は層を失いやがて何も感じなくなる。睡眠欲と性欲──そう呼ばれる二つの残照すら薬の陰に沈み欠片さえ見えなくなった。いつからか僕はそれらの感情を思い出せなくなっている。
僕は人を信じられない。自己肯定という言葉は辞書にしか存在しない単語のようで、僕の胸にはその分ひとつ空席があるだけだ。自分を卑下することで他人とやりとりを成立させるのは僕にとって習慣のようなものだった。その習慣のせいで、最も大事にしていた友の胸の傷を抉ってしまったこともある。僕らは互いの傷を指でなぞり合い、いつの間にか裂け目を広げてしまったのだ。許してくれると僕は祈るが、祈りはいつも空を渡って戻る事はない――
頭のなかには、いつかの僕が種を蒔いた、僕を孤独へと誘う設計図が生えているらしい。誰かと距離を詰めようとすると、せこせこと壁を積み始める自分がいる。相手を等しく見られぬと疑い、手を引かれる前に自ら引く。そうして愛した人は静かに去ってゆく。去る背中に言葉を投げかける余地もなくただ残響だけが部屋に残る――人間関係は難解な方程式だ。僕はいつも解を間違える。
僕の体験した過去の恋愛は全て毒を含んでいた。ある女は頸動脈にナイフを突き付け、ある女は追う影となり、ある女は強要の曇った夜を作った。そうした出来事が、僕の内部に大きな亀裂を刻んだのだ。友情もそうである。それが原因で今は敢えて嫌われに行くようになってしまった。言い訳は鬱の所為だと胸に掲げ、それを盾に、先に傷つけて先に去らせるのだ。無意識のうちに僕は仮面を被りその仮面が本心を覆っていた。心の中の「本当の僕」は遠く、現前するのは鬱病に蝕まれた亡骸に過ぎない。
日々の小さな出来事が大きな雷鳴のように地を鳴らす。返信のない連絡、視線の一瞬の逸れ、いつもの席に空いた微かな沈黙──これらが証拠となり、僕の胸を抉る。雑談に乗れぬ僕は弱さの烙印を押されたように感じ、誰かの冗談に笑えぬことは心の温度を失った証拠に思える。だが外界は無邪気に存在し、光は何も知らぬ顔で差しているだけだ。僕の内側で意味の渦が生まれ、現実は和紙のように薄く、透けていく。
そして夜はより一層僕の心を殺ぐ。本の頁を捲ろうとしても文字は揺れ行を追う視線がしばしば滑る。栞は単なる記録係で、携帯の音は遠景だ。蛍光灯の冷たい白が部屋の角を削り、テーブルの油染みを白く浮かび上がらせる。食卓に座っても箸先が震え、味は往来の風景だ。咀嚼の律動の間に思考はいつも別の牢へと移転し――また明日も同じ。そう言う諦念が胸を満たすばかり。
たまに記憶が隙を狙って襲ってくる。笑い合った夜、他人の温もり、小さな約束を立てた瞬間の心地良いぎこちなさ。そうした記憶は刃のように鋭く、現在の冷えた空気を裂く。僕は記憶箱の蓋を力任せに閉めるのだが、古い止め金は外れやすく匂いや音を切っ掛けにまた跳ね上がり――記憶はいつの間にか洪水の様に流入して、息もできず僕は過去の深みに溺れそうになってしまう。
結局は薬と反復の連鎖。薬は潤滑剤でありながら色を奪っていく。感情の彩りと引き替えに、歯車は静かにそして滑らかに回る。誰もその小さな軋みの音を聞かない。なぜなら僕の独房の壁は厚く、窓は曇り、声は外へ届きにくいからだ。
それでも時折、矛盾した小さな火が灯る。誰かと無邪気に笑う日が来るのではないか、夜の街灯が優しく見える朝が来るのではないか…と。だが現実はそれを押し戻し火花は呆気なく消える。僕はその消え残りを見つめ、薬を飲み眠る。ルーティンが僕を日々の穴へと押し戻す――穴は深く、底は暗い。僕はそこに座して静かに息を数えるのだ。
布団を買った。いや、買ってしまったと言うべきか。僕はこれで眠れるかもしれないと、わざとらしい希望を抱いた。まるで壊れかけの玩具を買って貰った子供のように――壊れることを承知で、それでも欲してしまった。睡眠の質が上がるようにと自分に言い訳をして。もちろん実際には無理やり眠っているだけ。薬を飲んで、重力に引きずられるように気絶するだけだ。それでも新しい布団があるという事実はささやかな救いの真似事になった。全くもって救いではない、ただの真似事。しかし真似事でも縋りたい夜がある。むしろ真似事にしか縋れない夜がある。
床の上に広げられた布団は、まるで空白のノートのようだった。そこに横たわれば何か新しい章が始まるかもしれない、そんな錯覚を与えてきた。僕はその錯覚を受け入れ錯覚に縋り錯覚に騙されて、錯覚に裏切られるのだ。そうしてまた次の夜も布団に沈む。
いつか学校の先生は言った――睡眠薬は癖になるから辞められるなら辞めなさい、と。軽く、あまりに軽く。あたかも風邪薬をやめるような調子で。僕の夜を知らぬ口調で、僕の恐怖を知らぬ口調で。夜は、ただ眠れないだけではない。眠れないことによって何者かに侵食される夜だというのに!
夜は本当に恐ろしい。時計の針が静かに、だが確実に僕を追い詰める。窓の外に立つ街灯の光が布団の端にまで忍び込み、影をつくっていく。その影のゆらめきが脳裏に幻影を呼び起こして、過去の情景が次々と蘇る。まるで夜自体がタイムマシンのようだ。
――教室で孤立した日の弁当の味――口の中に広がる冷えきった白米のざらつき――誰とも言葉を交わさなかったあの日の昼食が舌の上に再現される――保健室に充満していた消毒液の匂い――金属のベッドの軋む音――僕に跨る女の湿った声――首筋に感じた重さと、やけに強い心拍――手首から流れ出した血液の鮮やかな赤――その赤がカーテンに映る街灯の光と混じり合って脳裏にこびりつくのだ――夜のファミリーレストランで聞いた笑い声――僕以外の誰かが楽しげに交わす声――僕だけが取り残されていた席の冷たさも――
それらすべてが蘇る。触覚も嗅覚も聴覚も、過去に連れ戻されるのだ。夜という時間に――鬱病という悪魔に手を引かれて。その悪魔の手は驚くほど強い。僕のまぶたを無理やりこじ開け、眠るなと命じる。悪魔の爪は鋭く瞼の皮膚を引き裂かんばかりだ。目を閉じれば閉じるほど、鮮明な過去を突きつけてくる。暗闇を求めれば求めるほど光景は鮮やかに、むしろ残酷に浮かび上がるのだ。僕は呼吸を荒く浅くし、息をするだけで胸を抉られるように苦しくなる。意識は溶け出し頭は白く霞み疲れきった身体は痺れ――それでも眠れない。それでも時間が経てば体力が削られ、半ば気絶するように布団に沈み込む。僕はそうやって朝を迎えるのだ、敗北としての朝を。
朝は毎度、処刑の後のように訪れる。寝たのか気絶したのか自分でも分からないまま。時計の針の進みと、窓から漏れ出る光。それだけでまた今日が始まるのかと理解させられる。その理解は残酷だ。これだから僕は人間関係が下手糞なのだろう。眠れぬ夜に過去を掘り返され続けた人間が、まともに他人と向き合えるわけがない。僕はいつも他者の言葉を疑い、他者の眼差しに怯え、他者の愛情を信じられない。全て夜のせいだ、全て鬱のせいだと、僕は責任を夜と鬱病に押し付けている。心の内を陰鬱にさせる鬱病が悪いのだ、眠らせない夜が悪いのだ。そう言い聞かせなければ僕は生き延びられない。
僕は新しく買った布団に入る――救いではない救いを信じながら。今日もまた眠れない夜の中で。
3
かつて僕の手には、幾つかの灯があった。
小さな音符の粒を拾い集めては、指先で転がすことに夢中になった日々。五線譜の白と黒が、僕を生かしていた。紙の上に鉛筆を走らせ、意味もなく言葉を連ねるだけで胸は熱を帯びた。夜更けに本を開けば、頁をめくるその音すら音楽のように聞こえ、眠気よりも物語が僕を支配していた。しかし今は違う。楽器に触れようと指を伸ばせば、途中で力が抜ける。弦の上で震えるはずの指は、空を掻くばかりで音を生まない。ノートにペンを置いても、文字はひとつも続かず、ただ黒い点が増えていくだけだ。活字を追ってもすぐに眼球の裏で意味が溶け、ただの黒い模様の群れとなって沈んでいく。僕は好きだったものに見放されたのか、それとも僕の方が見放したのか。どちらにせよ結果は同じだ。掌に残るのは、砂を零したあとのざらついた虚しさだけ。昨日まで胸を焦がした旋律も、今日には無音の壁となる。昨日まで夢中で書き連ねた言葉も、今では行き場を失った文字の死骸でしかないのだ。昨日まで慰めとなった物語も、ただ紙の匂いとインキの滲みとしてしか存在しない――僕は空洞の器なのだ。中身を注いでも、すぐ底から漏れて消える。だから「好き」は積もらないし、楽しみも根を張らない。何も手につかないのだ。これは怠惰か、はたまた病か、それとも単なる滑稽か。それは僕にはわからない。ただ確かなのは、手に取った瞬間から既に手放しているという事実だ。
夜明けに近い頃、僕は机に座る。何かを始めようとするのだが、始める前にはもう終わっている。机の上には無言の白紙が散乱し楽器の弦は張り詰めたまま眠っている上、積み重ねた本はただ重力に従い静かに横たわっているだけだった。部屋を見渡す。僕の手は何ひとつ触れられないまま空を泳ぎ――やがて膝の上へ落ちる。それでも僕は毎日空虚な掌を見下ろす。そこに何も掴めぬことを確かめるために。あたかもそれが僕の生きる作業であるかのように。
周囲の人間――殊に大人たち――その目は、僕をただの怠け者として映しているらしい。そう見えているのは、どうやら僕自身も例外ではない。布団に身を潜め、部屋の隅で動かずただ携帯を見つめ、本を見つめ、窓から差し込む光の筋を見つめ――僕の視線はいつも、ただ物理的な対象に絡め取られるだけで世界を掴む力などどこにもない。その間時間はひたすら溶け、一日は無為に消費され、知らぬ間に夜の暗闇がまたひとつ積み重なる。
その様を眺める大人たちの眼差しは無慈悲であった。彼らは病の存在など微塵も考えず、僕を怠惰の権化として評する。無気力に呑まれた怠け者。父も母も僕の顔を見ては溜息をつき、呆れの色を隠さない。学校の先生に至っては、書類の提出が滞るたびに眉をひそめ厳しい口調で詰め寄るだけだ。まるで僕の存在そのものが社会に対する冒涜であるかのように。
僕は大人が嫌いだ。そして、残酷なことに、僕自身もまた大人になってしまった。だが、その成熟は虚ろであり世間の型に嵌め込まれる柔軟さなど持ち合わせていない。僕の脳は秩序を享受する代わりに混沌を求め、型に従うことを拒む。だから大人たちは僕の不自由な姿に苛立ち、理解の手を差し伸べることなくただ目を逸らすか眉間に皺を寄せる。思うに、僕は一度もありのままの僕を心から認めてくれた大人に出会ったことがない――見たことのないものは信用出来ない、これが僕の性分である。だから、画面の向こう側で心の在り方とやらを説く人間の言葉に僕は冷笑するのだ。過去に鬱病だったと言う者、今鬱病だと言う者でさえ、すべてが僕に向けられた言葉でないのに僕の胸を掻き乱し苛むのだ――お前は僕じゃないのに、なぜそんなに簡単に僕の痛みに触れようとするのか?と。
他人に共感されることを、僕は本能的に拒む。僕が心から好感を抱く人からの共感だけは例外として立派な糧となるが、それ以外の心無い共感は全て憎悪へと変わる。胸の奥でひっそりと燃え上がるその憎悪は僕が生きている証拠であり、同時に死の影でもある。それが厭になり、また僕は布団に戻って天井を見つめた。天井の白い壁に描かれた陰影は過去の記憶の断片と混ざり合い、僕を孤独な海に陥れ沈める。大人たちの目、嘲笑、無理解、苛立ち――それらすべてが、夜の空気と共に僕の肺を満たしていくのだ。息をするたび痛みと怒りが交錯し、ただひとりでに鼓動が速まった。
僕は問いかける。どうしてありのままの僕を認める者は存在しないのか?どうして僕がここにいることそのものが罪であるかのように、周囲の視線は重く圧し掛かるのか?いくら問えども答えは返ってこない。ただ、静かに時計の秒針が進み夜は深くなり、そして僕は自らの心に囁く――僕を理解する者など、この世界にはいないのだと。
4
鬱病には、どうやら二つの種類があるらしい。一つは外的な損傷によって生じるもの。理不尽に叩きつけられた世界の鋭利な角に心が傷つき、体が追いつかぬまま沈んでいく――どれほど心が明るくあろうと、どれほど思考が希望を紡ごうと、身体は冷たく重くまるで自分の意志とは無関係に沈む船のように動かない。事故の後の痛み、裏切りの後の鈍い怠さ、拒絶の後の微かな震え。それは外部から押し付けられた傷の重みであり、世界が理不尽に振る舞うせいで生まれる鬱である。
僕の母がその形式の鬱病であった。彼女以外にも、窓の外の人々の表情やニュースの片隅でちらりと見かけたことがある。彼らの瞳には悲哀が宿るが、そこにはまだ光があった。心の中で「生きたい」という小さな炎が消えずただ体がついてこないだけの、どこか悲劇的でしかし理解可能な鬱病であった。彼らの痛みは世界の責任として認知できるもので、誰も非難することはできまい。だが僕のそれは違った――僕の鬱病は外的な損傷に始まったわけではない。自らの内側に刃を向け肉を挽き千切り自傷を重ねて広げ、挙句肉体と心を同時に蝕む果てしなき迷宮のような病である。小さな苛立ちが、思考の欠片が、痛みによってどんどん裂かれやがて骨の見えるところまで穴を広げていく――世界は僕をそこまで傷つけはしない。世界は淡々と存在しているだけで、僕に刃を振るう人間はそう多くない。すべては僕の内に生まれ僕の意思によって広がる穴であるのだ。
ふと鏡の中の僕を見る。それはかつての少年の面影が薄く残るだけであって、残りは空洞でできていた。皮膚の下で血管が青く光り骨の形が浮かぶ。けれどその空洞は恐怖の象徴ではなく、どこか安心できる場所であった。痛みを伴う空虚。それこそが僕の世界の中心なのだと無意識に僕は理解している。外的な損傷型の鬱は他者の存在を前提としているが、僕の鬱は孤独の中に完結している。誰も僕を救わず、誰も僕を傷つけず、ただ僕自身が存在の痛みを引き受ける。この病の恐ろしいところは、意志の矛盾を孕むことにあると思う。僕は生きたいのか、死にたいのか。痛みを知りたいのか、忘れたいのか――そのすべてが同時に存在し、互いに衝突し、結果として心を引き裂く。呼吸をするたびに、胸の奥で何かが裂けその血肉が溢れ出し、同時に縫い合わされる。生きるという行為は、ただ痛みを抱えたまま続く意味を成さない儀式であると僕は考えていた。
外的損傷型の鬱は、言わば世界に敗れた戦士のようだ。心はまだ矛盾なく機能し、世界の不条理に抗う意志を抱く。しかし僕の自傷型鬱といったら――己の手で戦場を作り上げ、そこに自らを投げ入れる狂戦士であるだろう。傷は終わらず穴は無限に広がり、どんな光も遮られ、ただ痛みだけが確かにあるのだ。
5
さて、夏の光は無遠慮に世界を照らし街路樹の影を長く引き伸ばしていく。平日の昼下がり、案の定人通りはほとんどなく、蝉の声が空に溶けて反響しているだけのこの日、僕は親に促されて車に乗り込み久しぶりに外界へ引きずり出された。
走り出すと共に父が窓を開けた。窓越しに入る風は少し涼しくて、それは僕の髪を優しく撫で額の汗を攫っていく。暗がりにいた僕にとって外の光は強烈すぎて、思わず目を細めた。そうするとじんわりと街路の輪郭は溶けていって、色彩は光の粒に分解される。車の座席に沈む体はやや重いものの、心は久しぶりに自由になったようで、子供の頃のように嬉しくて小さく震えた。
川に人影はなく、そこでは水面だけが静かに光を反射していた。太陽は水面に細かい粒をばらまき、まるで無数の金色の羽根が揺れているよう――僕は靴を脱ぎ、岸辺に歩みを進める。砂利の感触はひんやりと足裏に残って、指先が水に触れると冷たさが脳まで一目散に駆け上がった。チカチカと白い火花が散る――水面は微かに光を跳ね返し、川底の小石や流れに揺れる藻も一緒に、そんな僕の視界の中できらきらと揺れていた。
小さな波紋が足元から広がる度に、光の粒が散り胸の奥にほんの微かな喜びが生まれる。蝉の声は耳の奥で忙しく重なり、風が木々の葉を揺らしてかすかなざわめきとなる。水面のきらめき、波紋の連なり、蝉と木々の旋律――そのすべてが僕の感覚を刺激し、久しぶりの生の感覚として体の隅々まで染み渡った。僕は思わず両手を水に浸す。手首まで冷たさが染み、心地よい痺れが指先に残って――水面を揺らす度光の反射が小さな虹を作り、僕は一瞬子供に戻ったかのように目を輝かせた。膝まで水に浸かれば水の流れが肌に当たり、足首をかすかにつついていく感触にふと笑みがこぼれた。いつの間にか僕は自分が大人だということを忘れていた。暑さも、日常の重みも、忘れられていた。
あァ、なんて綺麗な――
岸辺の小石を拾っては水面に投げ、波紋が広がるたびに光が散る。光の粒が揺れる様子を見つめながら、無言で微笑む。水面の反射に揺れる自分の顔を見て、久しぶりに自分が生きていることを感じた。水の冷たさ、風の匂い、蝉の声、小石の手触り――あらゆる感覚が、忘れていた喜びを思い出させる。時間の流れも忘れ、僕は岸辺でただ夢中で遊んだ。水を手ですくい掌から零れ落ちる瞬間のきらめきに見とれる。川のせせらぎが耳に優しく流れ込み、光の粒が揺れるたびに心の奥で小さな震えが走る。子供の頃に川で遊んだ感覚が蘇り、心から自由で無垢な気持ちを取り戻した気がした。
そのうち親が帰ろうと促す。僕は名残惜しさに手を水に浸したまま、波紋の残像を目で追った。体の疲労はまだ表面化しておらず、ただただ心は満たされている。川の光景、せせらぎ、蝉の声、小石、冷たい水――すべてが胸の奥に小さな宝石のように残るのだ、そう思った。
そんな安寧も束の間。気付けば僕はもう部屋の前に居た。扉を開け、足を踏み入れる。部屋の空気は変わらず重く、粘つき、誰もいない。窓際の光は、昼の陽射しの残り香のように、ぼんやりと壁に落ちている。それでもどこか安心するのが、この僕の独房。僕はカバンを置き、立ち尽くす。心はまだ川のせせらぎの余韻を抱えているけれど、現実はすぐにその感覚を押し潰そうと手を伸ばしてくるのだ。机の上の散らかった本、開いたままのノート、床に転がるボールペンの替芯――それらが僕を責めるかのように静かに、そして疎らに整列していた。
僕は外に出た服のまま布団に身体を沈めた。あの川の水に触れた感触も、日光に反射した水面のきらめきも、セミの声の粒子までも、まだ鮮明に覚えている。指先に残る冷たさでさえ、まだ手のひらに温度の記憶として宿っているのに――現実の重みがすぐに覆いかぶさる。心は微かに光っているのに、身体は鉛のように重く、呼吸は浅く、思考は絡まった糸のように絡まり合うのだ。
ああ、また。頭の中であらゆる感情や思考が混ざり合い、渦巻き、暴れ回る。世界の彩度は落ちていき、輪郭はぼやけ、時間の感覚は消失の一途を辿ってゆく。僕は手にした記憶の断片を確かめるように握りしめるも――すべては指の間をすり抜けていくばかりであった。口角が引き攣りぎこちない笑みが浮かぶ。僕は布団から急いで這い出して、机の上にあった錠剤を一粒残らず口に押し込み、冷たい薬が喉を通る感触を足早に得ようとした。瞬く間に頭の中は雑音で満ち、思考と感覚が絡み合って何が現実で何が幻か区別がつかなくなる――それでも、川で触れた光と水のきらめきは、脳裏の片隅で微かに瞬き、あの日の自由を脳に刻んでいく。だけれどそれは手の届かない遠い場所にあり、吐き気と振戦に悶えながら僕はただ床にへたり込むのだ。
体と心が沈黙の中で揺れる。時間は薄い霧のように垂れて、現実と記憶、夢と意識が入り混じる。思考の断片は空中で互いにぶつかり破裂する。胸の奥では重苦しい虚無が膨らみ続け、喉の奥に固まり嗚咽を誘発させる。感覚は時折鋭く痛み――時折、虚ろに遠くへ消えていく。それでも、無意識に指先は自然と天井へ伸びていた。カーテンの隙間から差し込む光は、ぼんやりとした世界の中で、ひときわ鮮やかに手を包む。柔らかく、そして透き通るように暖かい。その光に触れた瞬間、僕はすべての混乱を忘れた。雑音も、痛みも、孤独も、すべて遠くへ溶けてしまった。手に触れた光は、まぎれもなく美しかった。僕の世界はまだ灰色で、混沌として、僕の心は揺れている。しかしその光だけは確かに在り、触れた指先に形を成して、静かに、確実に、美しかった。僕はその光を握ることも、留めることもできない。けれど触れた事実だけが、僕を今この瞬間に確かに存在させている。意識はふわふわと宙に浮かんだままだ。川の記憶と日常の重さ、薬の蹂躙と光の愛情が入り混じり、世界は抽象的な形へと変わり――僕はその中で小さく呼吸して、布団の中で少しだけ指先の光に心を預ける。混乱の中でその光だけが鮮やかに、ただ僕を慰めた。
目を閉じて、想像する。胸の奥の重さと、頭の中の雑音と、身体の鉛の感覚が絡まり合う中で、孤高に輝く光を。世界は依然として変わらず、僕はここに在るだけ。だが手を伸ばしたその瞬間、すべての混沌の中に美しさは確かに存在していた。




