閑話 幻獣の卵と歩き出した朝
私はミリス・レネータ。
地方の森に抱かれる古い屋敷で育ち、何代も森と家を守ってきた家柄の娘として、初夏の朝も、古い螺旋階段も、両親や兄の静かな言いつけも……すべては“当たり前”として過ぎていた。
けれど、この春、その“当たり前”が音もなく揺らいだ。
理由は、私の両手でいまも抱きしめている──小ぶりで冷たく、けれどほんの少し温かい不思議な卵。
それは、母屋に程近い森で、霧の日の朝に拾った。
長い家の歴史には、森に棲む幻獣の伝説が続く。けれど、それはずっと物語の世界だと思っていた。
なのに──あの日。朝の白い靄の中、苔むした岩陰で、私は歌声のような高い音に呼ばれた。
手にした卵は、淡い瑠璃色に虹の影がまたたき、抱きしめるたび、微かに鼓動する心臓のように感じた。
最初は本当に怖かったのだ。
「本物の命が……ここにある!」
だけど不思議と離せなかった。私はこの子が、なぜか私の呼吸に耳を澄ましている気がしたのだ。
そして数日が過ぎて、家族に見つかり、名家の守りとしてしまい込むべきだ……と大人たちが口々にする姿を、私は声が出ないまま見つめた。
私はこの卵が、だれにも名付けられず、暗い箱にしまわれる未来に耐えられなかった。
夜中にこっそり卵を膝に、部屋のカーテン越しに夜空を見上げた。こわごわ泣き出しそうな卵を、私は強く抱きしめた。
「きみを安全なところへ、ぎりぎりまで私が絶対に守る」
はじめて自分の意志で何かを決めたのだ。
翌朝、私は動いた。
家族にもまだきちんと告げぬまま、王都の研究所にこの卵を託すと決心し、そして冒険者ギルドに、安全な護送を依頼する手紙を書いた。
……これが、私の冒険の、はじまりだった。
*
護送当日、陽はまだ高かった。
屋敷の玄関に、噂にだけ聞いていた冒険者たちがやってきた。私はすぐには顔を上げられなかった。けれど、顔を上げると、みんなイメージとは随分違っていた。
赤い髪を高く結った女剣士のリタさんは、ぶっきらぼうそうだけど隠しきれない真っ直ぐさを感じた。カイルさんは聡明な湖みたいな瞳の青年で、青銀のマントがよく似合っている。
セリーヌさんは、まるで童話の女神さまみたいな美しい人。自分より大きな盾を易々と使うマグナさんは、寡黙だけど大きな背中が落ち着き、犬耳と弓矢のラースくんは、私よりもきっと若い、けれど、とても勇敢そうな男の子だった。
私は、うまく説明できない胸の内をぎゅっと押さえ、彼らを信じて卵を託したのだった。
*
旅立ちの馬車の中で、セリーヌさんが隣に座ってくれた。
「セリーヌさん、この卵、どう思いますか?」
小さな声で訊ねると、セリーヌさんは深い紫色のやさしい目で私を見て、あの時の言葉をくれた。
「神秘的ね……。小さな殻のなかに、目には見えないたくさんの奇跡と、命の希望が詰まっているわ。たったひとつの命が世界に生まれる、その瞬間を包んでいる……この卵は“未来そのもの”といってもいいわね」
私の胸に、温かいものが染みわたるのを感じた。
「……この卵も、私も、大丈夫ですよね?」
「えぇ、あなたも。卵の中の命が、あなたの優しさに応えてきっと強く生まれてくるわ。あなたたちの未来は私達が守る。絶対に大丈夫よ」
そう言うと、そっと手を握ってくれた。涙が零れそうになった。
*
護送の道は、私が想像したよりずっと厳しいものだった。
はじめての町外れを抜け、見知らぬ花咲く原野、暗い森を守られながら駆け抜ける。
最初の晩には、盗賊たちの叫びと剣の響きで心臓が凍りついた。
リタさんの叫びが馬車の外で響き、カイルさんの魔法の光がまるで昼間のように闇を照らした。ラースくんが案ずるように顔を覗かせ、セリーヌさんが「何も恐れることはないわ」と私と卵の背を撫でてくれる。グナさんは、いついかなる時も私と卵から目を離さなかった。
みんなから“大丈夫”と言われても、私は震えていた。けれど、そのたび卵は、私の腕の中で静かに鳴く。その小さな命を守れるのは、いま世界中で、自分だけだと思った。
*
二日目の山道で、私はもう一度、本気で自分を振り返ることになった。霧の中で卵が光り始め、誰もが息を呑む。魔法か、幻覚か、あたりがぼやけて足元も見えなかった。
セリーヌさんが私の手を、リタさんが剣を、カイルさんがふわりとした結界を貼る音が重なった。ラースくんがと警笛を鳴らし、マグナさんが低い声で「護れ」と……みんなが私たちの盾になってくれた。
三日目、大きな幻影が現れたときは卵が震え、また鳴いた。私は思わず叫んだ。
「私がそばにいるよ!」
すると、セリーヌさんが私ごと卵を抱きしめてくれた。
「もう、大丈夫……あなたは、独りじゃない」
彼女の優しい温かさが伝わり、まるで春の朝のように忍耐強く残る幻影を和らげていった。
それは、ただ撃退したというだけでなく──みんなで思いを合わせて、大切なものを守ろうとした──そんな瞬間だった。
卵の光はおさまり、私の心の震えも、すうっと静かに消えていった。
*
王都が夕焼けに溶けるころ、自分の役目を果たせたかもしれないと、私ははじめてそんなふうに思えた。
研究所の冷たい廊下、白衣を着た人々、“幻獣の卵”と見なされ驚かれつつも、誰もが慎重に扱ってくれた。
冒険者のみんなは最後まで見守ってくれ、リタさんは「もうお前、立派な護衛だぜ」と茶化してくれた。
カイルさんは「これからも変わらず強く――」 と静かに目を合わせ、セリーヌさんは「あなたの勇気が、命に未来をくれたのよ」とにっこりうなずいた。
マグナさんは無言で大きな手を肩においてくれたし、ラースくんは「きっと、また会えるよ!」と明るく笑った。
私は泣きながら何度も頭を下げた。
「みんな、ありがとう。本当に、ありがとう」
*
数ヵ月、季節は巡った。
私は王都に残って、研究所に通いながら、 “卵”と一緒に暮らす日々を送った。
やがて朝早く、卵に割れ目ができた。
恐ろしくて愛しくて両手をそっと添えると、薄く剥がれた殻の隙間から、ふわりと虹色に光る流線の毛。
ひどくやわらかな羽毛、小さく湿った鼻、そして碧く深い海のような瞳。
「生まれたの……! 」
虹紋獣は、私の手にぴたりと寄り添い、しばらく動こうとしなかったけれど、やがてぺろりと私の指を舐めた。
その目は穏やかで、悲しみも不安もすべて、もう過去のものになったと語っていた。
虹紋獣はネズミほどの小柄な姿から、やがて成長し、やや猫にも似た体つきで歩くようになった。生えたばかりの羽は透き通る七色にきらめき、光があたるたび毛並みの色が微妙に移ろう。額には淡く虹色の紋様が浮かび、春の香りを連れてくるようなやさしい息遣いだった。
虹紋獣は私について歩いた。まるで親子のように。静かなときには私の膝の上で丸まり、誰か新しい人に会うとしばらくは私の後ろに隠れる。
でも、窓の外をながめるときは、どこか遠くを見るように……どこか冒険者のみなさんを思っているような、そんな不思議な顔をすることもある。
なんとなく、最初に卵が鳴いた朝のことを思い出す。私が勇気を出したから、この子も生まれてくれたような、そんな気がした。
そして──
冒険者ギルドを通じて虹色の羽根と手紙を贈った。
「生まれた日、真っ先に光の中へ駆けていったのは、冒険者の皆さまにそっくりな赤毛の小さな獣。虹紋獣は今も、空を見上げてどこか遠く……皆さまのことを探しているようです。」
私は、もう昔ほど自分のことに自信をなくさない。
この子と一緒に強く歩いていく。
あの日の冒険を、私は一生、忘れない。




