7
桃色のつぼみから少しずつ花が開き、青色の勿忘草が顔を出し始める頃――昼と夜が同じ長さの春分に九焔は数台の馬車を用意していた。
九焔は二つ山を越えた地域に住んでいる第二身分の屋敷に招待されており、その準備であった。他の使用人も連れていくので、帰ってくるまでに数日掛かり、今日は途中の寺院で泊まる予定。門前で「早く準備を。荷物も忘れないように、いま一度確認して終わったらぼくのところに声を」と蒼九は使用人たちに指示をしていた。
「まあ、そう急ぐな蒼九」と九焔。
「用意はしっかりしないといけません。それに寺院に泊めてもらう以上、遅くなっては申し訳が立たないのですよ」
しっかり者だな蒼九は、と肩をすくめた九焔。ガサゴソとしている音を聞き、燈子は九焔の下まで来た。
「おはようございます九焔さま。昨日申し上げていましたけど、お早いのですね……ふわあ」燈子はあくびをした。
「おはよう、わざわざ起きてきたのかい」
「はい、お見送りをしようと思いまして」
「必要ないと言ったのだがな」九焔は続ける「あと昨日も言ったが、僕が帰ってくるまで外出はしないでほしい」
「……はあ」
前日、燈子は九焔から帰ってくるまで外出しないでほしい、と言いつけられていた。どうしてかはよくわからないが、それぐらいの約束は簡単なものだった。蒼九が「準備整いました。行きますよ」と九焔を呼んだ。
「それじゃあ、行ってくる燈子」
「はい、行ってらっしゃいませ九焔さま」
――九焔と蒼九と何人かの使用人は日の出前の朝早くに屋敷を出発した。日に暖かさを感じる時間に、狐のモチを膝に乗せながら茶を飲んでいた燈子の下にモンイチが飛んでやってきた。なんともいえない感じで悩んでいる様子だった。燈子に一枚の手紙が渡された。
「昨日の夜遅くに来たんだ、ひとりでね。トウコに渡して欲しいって」
燈子は読む。
この手紙を読み終えたら、火にくべて。
九焔さまが今日泊まる寺院は襲撃されます。この日のために準備も万全に行われており、九焔さまであっても助からないと考え、私としては出発の取り止めを致すことを願います。賢明なご判断を。
燈子は九尾の屋敷を出ない方がいいでしょう、人質として狙われています。
今までの私の行いから信用できないと思いますが、母を裏切る形になったとしても東園寺家としての誇りを私はやはり捨てきれなく、この手紙を綴りました。
東園寺芽々
「芽々さん……」
身勝手な手紙だと感じた――散々な目に合ったのに、東園寺家の誇りなんて何を今更、と燈子は複雑な気持ちだった。ただ嘘ではないことだけはわかった。
「いっくん! わたしをお寺まで連れてって」
モンイチは燈子を乗せ、空を飛び寺院に向かった。九焔からも芽々からも形は違えど屋敷からの外出を止められた燈子だが、狸昌の言葉を思い出していた。
「正しくても、正しくなくても――これは、わたし自身の選択だから」燈子は胸に手を当てる「わたしは九焔さまを助けたい――」
日が暮れようと太陽が落ちかかるなか、山中に佇む寺院に燈子とモンイチは着く。燈子はすぐに駆け込み、九焔がいる部屋に入った。
「――燈子! どうしてここに――」
「九焔さま聞いてくださいっ!」
芽々からの手紙を渡した。目を通すと九焔は蒼九と使用人たちに周りを見張るように言った。冷静な判断に燈子少し気になり聞く。
「九焔さまはこの手紙が本当かどうか疑わないのですか」
「今日襲撃されるとは知らなかった――ただ、東園寺ハナが僕の命を狙ってることは知っていたからね」
「ここ最近忙しくしていたのも……」
「ああ、体を張った証拠集めだよ」
「わたし……何も知らなかったのですね……」
「君を不安にさせたくなかった。東園寺から離れているとはいえ知れば苦しんでしまうのではないかと」
燈子は唇を噛みしめ「九焔さまわたしは……」
蒼九がせわしなく入ってきた。
「攻め入ってきました! かなりの数です」
そうか、と九焔は立ち上がり外へと向かった。燈子は声を掛けようとしたが、九焔が遮った。
「君を危険に巻き込みたくない。命令だ――中でじっとしていてくれ」
――ごめんよ、と言い扉を閉めて九焔は行ってしまった。程なくして、とてつもなく大きな音が響き渡る。物が崩れ落ちるような音や、悲鳴、強い衝撃――それをただ聞いていることしかできなかった。
契りを交わし、従者となった燈子は九焔の言葉に逆らえなかった。へたりと尻をつくことしかできず悔しかった。
「わたしの傍にいてくれるのではなかったのですか! 離さないでいてくれるのではなかったのですか!」
ぽろぽろと涙が落ちた。きれいに磨かれ鈍い光沢がある木の床からは、おうとつの歪みが手の感触でわかる。いま燈子にできることは、木の床に触れることぐらいだった。
涙を流していると扉が開いた。
「何やってんのさ、みっともない」
芽々が扉を開けて立っていた。
「め、芽々さん――どうして」
「聞きたいのは私の方だよ。出るなって書いておいたのに……」
芽々は腰が抜けたように座っている燈子まで近づき、背中を貸した。そして、扉に向かって声を上げた。
「久茅何を隠れているのさ、手伝いな」
芽々が入ってきた扉から久茅は不満そうな顔で覗き、しぶしぶと歩きながら動けない燈子を芽々の背中に乗せた。芽々は燈子を持ち上げ寺院の裏口に向かおうしたが燈子は二人に言う。
「芽々さん、久茅さん。わたしのわがままを聞いてください――」
山門(正門)を抜けて、周りの木々が倒れ、人が倒れているところを燈子を背負った芽々、久茅の三人は移動していた。その先からは、土煙が舞い、火が燃え、叫び声が聞こえる方向であった。
「ああもう! どうして久茅が混血の言うことなんか……」久茅はひとりでぼそぼそと言っていた。
「芽々さんはどうして、わたしのために……」と燈子は聞く。
「東園寺の者としての誇り、書いてあった通りさ――本当は私か久茅が九焔さまの屋敷に住み、九尾を貶める不都合な真実――もしなければ……毒殺する予定だったんだよ」
燈子は驚き、……何故、と言った。
「お母さまは第二身分でも下の位階だったんだよ。でもね、あんたの母親の事もあって意気消沈していたお父さまに上手く取り入ったのさ。小さい頃から地位や権力がどれくらい重要かよく教え込まれたね……東園寺に来る前は憂き目に遭ってたんだろうさ。それで、相手を貶めてでも絶対的に地位を勝ち取りたいんだよ――お母さまは」
そんなことが、と燈子は呟き、久茅の方に目を向けた。
「なによ」
「い、いえ。久茅さんもそんなこと考えてたんだなあって……」
「ふん、久茅はお姉さまについてくだけよ。お母さまに背きたくはないけど――お姉さまについていくって決めてる。そうじゃなきゃ、あんたなんて今すぐにでも山に捨てたいもの」
燈子は苦笑いするしかなかった。そして、この時に始めて芽々と久茅を理解できた気がした。燈子が嫌いなのは間違いはないが、二人にも信念がしっかりとあることを。
進んでいると残党百人近くが前にいた。今更最前線に戻る気もなく集まっている残党がこちらを見ると、生気を取り戻したかのように燈子たちに寄ってきた。
「どきなさい、誰だと思ってるの東園寺の人間よ。それ以上近づいたらただじゃすまないんだから」と久茅は言った。
「へえっ! ただじゃすまないってよ。こんな場所で女三人で何ができる? 東園寺の人間だろうが、埋めちまえばわからねえ」
ぞろぞろと残党たちは寄ってくる。燈子たちは後ずさりするしかなかった。残党のひとりが目の前の久茅に襲い掛かった瞬間だった――残党の頭上を押し潰すように、空からひとりの男がやってきた。髪を後ろに流し、茶色の尻尾が生え、鍛えられたたくましい体をした男。
「り、狸昌さま!」燈子は言う。
「よお、嬢ちゃんたち無事か?」
「どうしてここに――」
「なに、一反木綿の野郎がへとへとになりながらうちにやってきて事情を聞いたわけよ」
「いっくん……」
「なあ、嬢ちゃん。わざわざ争いの前線に行くってことは――嬢ちゃんの自身の選択か?」
その言葉に燈子ははっきりと言う。
「はい! わたしの選んだ道です。九焔さまの下に行きたいんです」
狸昌はニヤリとすると、巨大な狸の姿へと変わっていった。妖は人の姿に化けている間は力の半分も出すことができない――つまり、狸昌は本気であるということだった。
「たまには全力を出すのも悪くねえ。それに――嬢ちゃんに矛先を向けたんだ、覚悟はできてんだろうな……」
残党たちは対妖の装備をしているとはいえ、狸昌の気迫と並々ならぬ空気に僅かに震えていた。
「嬢ちゃんたち早く行きな」
狸昌の言葉を聞くと三人は前に進んでいった。燈子たちが離れると凄まじい轟音が後ろから響き渡っていた。音だけでも恐怖を感じるぐらいであった。
九焔の下に近づくと、焦げた臭いが周り漂っていた。赤い炎の中心には九本の尾を持つ白い大きな狐が数千人を相手していた。九焔の本当の姿を見たことのない燈子であったが、白い大きな狐が九焔だということはすぐにわかった。燈子は大きく息を吸った。
「九焔さまーーーーー!」
それは燈子の人生で最も大きな声だった。轟々のなかを燈子の声が切り裂いていった、まっすぐに――。九焔の耳が動くと、雄叫びを上げ周りの襲撃者たちをひるませ、燈子の下へと駆け寄った。近くから見るとその体はとても大きく感じた。九焔の足の半分よりも燈子たちは下だった。
「燈子どうして!」
「九焔さま、わたしは……わたしは、九焔さまのお傍にいたいのです」
「僕だっていてやりたい、だけど危ない目には――」
「お傍にいたいというのは、どんな時にでも――。つらくても、悲しくても、楽しくても、嬉しくても――離さずに最後までいたいのです。分かち合いたいのです。わたしが来たところで足手まといにしかならないということはわかってます。それでもお傍にいたい、離さないでいて欲しい、わたしの選択であり、わたしの覚悟なんです。だから最後まで一緒に……」
燈子は振り絞った声で気持ちを吐いた。伝えたいことを九焔に伝えた。九焔は芽々に背負われていた燈子を拾い上げ、自身の背中に乗せた。狐の姿をした九焔の背中は絨毯のように広く、長い毛先は葦のようだった。
「大切にするあまり、僕は結果的に君の自由を奪ってしまったのかもね。互いに共存するという意味を忘れていたよ――」
「九焔さま……」
「――燈子しっかりと僕に掴まっててくれ」
「はい。絶対に離しません、最後までお傍にいます――」
九焔は燈子を背中に乗せたまま戦った。戦いは数時間にも及び狸昌も途中で合流し、山が木々が禿るほどだった。戦いのさなか、燈子には土の匂いも、水の匂いも、木の匂いも、いろいろと飛んできていた、ただ愛する九焔の匂いだけは常に近くにあった。
戦いが終わり数日経った。首謀者である東園寺ハナは政府直属の警官隊に拘束された。本来であれば東園寺家には重い処罰が下されるが、この件を知らなかったお父さま、芽々と久茅の告発によって軽い処分で終わった(実際は同じ位階である起見宮家にいろいろ譲渡することで、助かった形ではあった)。
九焔と狸昌は三日寝込むぐらい体力を消耗し、燈子は九焔の屋敷と刑部狸の屋敷を三日間往復することになった。忙しい三日間であったが、つらいと感じることはなかった。
――記憶が消える最後の一日。燈子と九焔は縁側で二人座っていた。
「良いのか? 最後の日なのに庭の小さな桜を見ているだけなんて。満開の桜がたくさん咲いている所に見に行ったっていいんだよ」
「いいんです、二人でいたいのですから」
「――つらくはないか」
「つらくはないです。約束したじゃありませんか、記憶を失っても――」
「傍にいて、離さない……か」
「はい」
九焔は燈子の肩に手をやった。その手には少し力が入っていた。燈子は九焔に寄りかかり言う。
「わたしは何も心配していません。九焔さまが最後まで一緒にいてくれる、それだけで十分なんです。――それに、新しいわたしも九焔さまを愛しますよ」
「……何故そう思う」
「わかりますよ。だって――」
九焔の勿忘草色の瞳を燈子は見る。九焔もまた、燈子の茶色と金色に分かれた目を見た。
◇◇◇
女の子は漆塗りされ梅が描かれたべっ甲の櫛で髪を梳かされていた。
「おかあさま、おかあさま。おかあさまがおとうさまを好きになったのはいつなのですか」
「――どうして?」
「うんめいのであい――というのがあると本で読んだのです。だから、おかあさまのうんめいのであいを聞きたくて」
髪を梳かし終え、女の子に髪を結いリボンをつけながら言う。
「ふふっ、不思議に聞こえるかもしれないけれど、最初からだった――最初からそこにいて、最初から好きだった」
「それは、わたしがおかあさまとおとうさまのことを生まれた時から好きだったのと同じですか?」
「そう、あなたが生まれた時から好きだったみたいに、ずっと傍にいて、ずっと離さなかった」
女の子にリボンをつけ終えると立ち上がり、行きましょうか、と言って部屋を出た。外へ出ると紅梅色のリボンは風で揺れた。
門の前には馬車があり、女の子は走った。
「おとうさま見て、おかあさまとお揃い」
「そうかそうか。母と同じで美しいな」
そう言い、女の子を抱き上げると勿忘草色の瞳で茶色と金色に分かれた目を見た。
「さて、花見に行こうか燈子」
「はい、九焔さま」
暖かい陽気のなか三人は馬車に乗り、花見へと向かった。女の子はとても幸せだった。