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それからひと月は慣れないことだらけだった。燈子が掃除をしようとすると九焔が止めにはいったり、使用人たちへの挨拶も慣れず言葉に詰まったり、皆で食事を取ったり、外へと出かけたり、呉服商で好きな着物を買ったり、自身の目を見ても憎たらしさを感じなくなったり、燈子の口元が自然と緩むぐらい慣れないことだらけだった。
立春、梅が咲き始める季節。淡い紅色が庭で咲いていた。朝食を少し前に食べたばかりなのに、梅でも見ながら共に昼食でも食べようと考え、九焔の部屋へと燈子は向かった。ふふ、と笑いをこぼしながら九焔の部屋に着く。
「九焔さま、梅が咲いております。もしよかったら昼食は――」
「ん? 誰だい嬢ちゃん」
まだ寒い時期だというのに薄い羽織りを纏い、鍛えられた肉体が露出したところどころから見え、頭の上には少しとがったカマボコのような耳が生えており黒髪で髪を後ろに流した男が座っていた。
燈子は数秒目をぱちぱちとすると、障子を閉じてもう一度開けた。やはり変わらずそこに体格のいい男はいた。燈子はゆっくりと閉じようとすると、体格のいい男は待て待て、と言い閉じようする障子を止めた。
「だ、誰ですか。九焔さまの部屋に勝手に入って!」
燈子は必死に閉めようと力を入れた。
「そっちこそ誰だ! ていうか閉めるな、危ないだろ!」
「あなたが開けようとす、するから――あっ……」
足が滑り燈子は体勢を崩した。片手が障子から離れて体が片側に大きく体重が乗り、足を戻そうとするが回り終えるコマのようにぐらりとなり床から足が離れ、庭に頭から落ちかけた。
「ばかやろう! だから――」
湿った土が音を立てる。燈子は瞬間的につぶっていた目を開けた。体に痛みはなく、自分を下からがっちりとした腕で支えられていた。仰向けになり、空に顔を向ける燈子の目にはさっきの男の顔が見えていた。
「……ったく、ひやひやするぜ。だから、危ねえって言っただろ」
「ご、ごめんなさい……」
「ん、その目は――混血か、それに純血同士の――」
燈子は目をそらす。混血という言葉もここ最近はどこか忘れており、その言葉を聞くと身構えてしまった。
「おっと、悪かったな。他意はないぜ。マジでさっきのは謝る、許してくれ。もし、許してくれるなら嬢ちゃんの名前は? 良かったら教えてくれ」
「……燈子です」
「燈子、いい名前だな。俺は刑部狸の狸昌だ、怪しいもんじゃねえ九焔の友人で会いに来ただけだ」
「九焔さまの……お友達なのですか?」
「おう、昔からのな」
燈子は、ほっと安心する。悪い事をしてしまったと燈子は思った。
「それで――何をしてるんです。二人とも」と九焔は呆れたような顔で見ていた。
九焔の部屋の障子は壊され、泥と砂をまき散らした燈子と狸昌を見ながら口を歪めていた。燈子と狸昌は顔を合わせ、苦笑いをするしかなかった。
刑部狸の狸昌は九焔との古くからの友であった。刑部狸と九尾は同格の妖であり、いがみ合うこともあるが狸昌と九焔は仲が良かった。
狸昌は九焔に用があり、今日ここに寄ったのだと言う。蒼九は出かけておりいなかったので、燈子は二人が話をしているのを邪魔しないように茶菓子を取りに行っていた。
九焔の部屋に行く最中に梅の花を見て、今日は無理そうかな、と燈子は思いながらお盆に載せた茶菓子を持っていった。燈子が部屋に着くのと同時に九焔が部屋から出てきた。
「九焔さま、茶と菓子をちょうど持って――」
「すまない燈子。用事ができた、狸昌に振る舞ってやっておいてくれ。夕方には帰ってくる」
九焔の顔はこわばっていた。
「はい、お気をつけて……」
梅の花を見ようとも言えない空気だった。燈子はそーっと九焔の部屋を覗く。燈子の視線に狸昌が気づくと、一緒に茶菓子を食べようと提案をした。カステラを食べながら、狸昌は九焔の昔話を少しだけしてくれた。
昔から傷ついた者を見過ごすことができず、それで医術を磨いていること。純血も混血も彼にとっては平等であること。よく、二人は遊んでいたこと。小さい頃に九焔がおねしょをしたことを、狸昌がからかったら尻尾を燃やされたこと(軽い火傷で済んだらしい)。ひと月しか過ごしていない、燈子にとってはどれも新鮮な話だった。
茶菓子を食べ終え、話が終わると燈子はため息を漏らした。そのため息が気になった狸昌が燈子に問うと、梅の花でも見ながら昼食を食べたいことを狸昌に話した。それを聞いた狸昌は言う。
「それなら、庭の梅よりもっといい所があるぜ。嬢ちゃん庭に出な」
「庭に……ですか?」
庭に出ると、失礼するぜ、と狸昌が言い燈子を担ぎ上げた――米俵でも担ぐように。そして茶色の尻尾が生えた。この状況がどこかで見た光景だと、燈子は思った。
「……狸昌さま、もしかして飛ぶのですか……」
「おうよ、察しが良いね。わかってるじゃねえか。心配するな、落としても地上に着く前にしっかりと掴むからよ」
「落とす前提なのはやめてください!」
燈子の頭には地上へ落ちたトラウマがよみがえる。そして、狸昌は足に力を入れ飛び出した。九焔の時は空に顔を向ける形だったが、狸昌の場合は顔を地上に向ける形で余計に怖かった。
山の麓に着くと緊張で燈子はへとへとになっていた。ひと息吸い周りを見ると、たくさんの人が梅の花を見に来ていてわいわいとやっていた。赤い梅や白い梅が咲き、まるで飴細工のようにきれいに枝について、梅の葯(先端の黄色のおしべ)は小さな花火が上がっているようだった。
風がびゅうびゅうと吹くと、枝が揺れ動き、人々の感情も揺れ動いた。燈子の心も周りの人たちと一緒に揺れていた。疲れなど風に乗せられ遠くに飛んだ。
「どうだい嬢ちゃん。いい所だろ?」
「はい! 梅も人もこんなに楽しそうにしてるなんて」
「毎年ここはこんな感じさ。誰も身分なんか見ちゃいねえ、花を見て笑い合ってる。いい場所だ――」
第三身分が大勢いたが、第二身分もよく見れば視界に捉えられるぐらいはいた。だが、みんな気にしてはいなかった。枝に咲く、梅の花に心を奪われたからだ。燈子はそれを見て言う。
「……わたしもみんなと同じ」
燈子は自分の顔を触った。肌を確かめるように。
「ああ、俺も嬢ちゃんもここにいる連中と同じ。目の色なんて誰も気にしちゃいねえよ」
満面の笑みで狸昌は燈子を見た。梅の香りがほのかに通り抜ける。燈子は、ここに来てよかったと心の底から思えた。
梅の花を見ていると、後ろ足に何かが当たった。振り返るが誰もいなく、下に目線を動かすと小さな男の子がいて泣きそう顔で燈子を見た。
「ど、どうしたの?」と燈子は言った。
「ま、ママが……」
「泣くな坊主。迷子か?」
狸昌がそう言うと、小さな男の子はこくりと頷く。狸昌は小さな男の子を抱き上げて肩に乗せ、腰に巻いてある巾着袋からキャンディを取り出すと男の子の口に入れた。
「甘いだろ。すぐ見つけてやるからな――嬢ちゃんも探すの手伝ってくれ」
「もちろんです」
燈子と狸昌は声を上げながら、男の子の両親を探し始めた。人が多いせいで声がかき消され、声の届く範囲が小さくてなかなかに見つけられずにいた。背の高い狸昌に子どもを乗せているが、もう少し目立つ物が欲しかった。人を押しのけつつ、少しずつ進む。
「――人が多くて……なかなか見つかりませんね」燈子は続けて「その子の親、見つかりますかね……狸昌さま」
「何言ってんだ嬢ちゃん、見つけてやるんだよ。せっかく楽しみに来てるんだ、悲しみにでなんて終わらせたくないだろ」
男の子は近くにあった梅の枝に手を伸ばし触れる。
「坊主あんまり触るな、梅がかわいそうだ。代わりに俺の耳にでも触っててくれ」
狸昌の耳をぎゅっと握った。右へと引っ張ったり、左へと引っ張ったりして、狸昌も引っ張られた方向によたよたと動いた。燈子は男の子が梅の枝に触れていたことで、梅の枝のように目立つ物……と考えていると自分の後ろ髪に触れた。ひらひらとした深紅色のリボンが手につく。
「狸昌さま、これを!」
燈子はリボン取り、まがれいとの髪を解いた。深紅色のリボンを狸昌に渡し、そのまま子どもに渡した。燈子の髪は風でなびく。
「よし坊主、俺はここだぞとそのリボンを振り回せ」
男の子は元気よくリボンを回す、梅の花以外の赤い動く布は人々の目に留まった。回し始めて一分も経たずに男の子の両親が寄ってきた。
ありがとうございます、ありがとうございます、と何度も頭を下げた。当たり前のことをやったまでよ、と狸昌は高らかに言い、燈子と狸昌は男の子と別れた。それから少し歩くと団子屋があり、二人は腰掛けに座り団子を食べていた。
「んー。おいしい、何個でも食べれます」
「はっはっ、良かった。いくらでも食べてくれ」
「本当ですかっ!」
「遠慮することはねえ。今日は存分に働いたからな」
燈子はもくもくと団子を口に入れた。狸昌はそんな燈子を見ていると、あることに気づく。
「嬢ちゃん――そういえばリボンはどうした?」
「リボン……あ、あれ!」
片手で団子を口に入れながら、もう片方で後頭部を触った。男の子にリボンを渡したまま、返してもらうのを忘れていたことに気づいた。団子がおいしく、食べるのをやめられないまま考え込んだ。
「無くして困る物か? あのリボンは」と狸昌。
「――いえ――無くても――困りは、しません」団子を食べる手が止まらない「本当ですよ――前の家に――合った物を、使ってただけですので――」
「そうかそうか。まあ、満足するまで食べてくれ」
燈子は満足するまで(店から団子がなくなるまで)食べた。他にも客が居たとはいえ、普段より二時間早く在庫が切れたと店主は呟いていた。
食べ終えると、二人は九尾の屋敷へと戻った。まだ、日は暮れておらず、九焔は帰ってきてはいなかった。
「どうだった、今日は楽しかったかい?」
「はい! とても。また来年も……」
燈子は笑顔から曇った顔をつきになった。あと二ヶ月で記憶を失ってしまうことを思い出したのだった。狸昌は自分の首裏を触れながら燈子のその表情を見る。
「――少しだが九焔から聞いたぜ。契りを交わしたんだろ。嬢ちゃんも根性がすわってるな」
「わたしなんて、ただ逃げただけです……けど、いまになってそれが少し怖くなって……正しかったのかなって……」
狸昌はぐっと顔を近づける。
「正しい、正しくないなんて誰にもわからねえ。けどよ、その選択をしたのは嬢ちゃんだ。良かれと思った行為だって百年後には極悪人呼ばわりされることだってある、結局は先なんて見通せる奴なんざどこにもいねえんだ。嬢ちゃん自身が自分で選んだ道なら――最後までわがまま通そうぜ」
「わたし自身の選択……」
「ここに来て良かったと思うか?」
はい、燈子は頷いた。偽りのない答えだった。狸昌は僅か微笑むと背中を向けた。
「――それじゃあ、俺はもう帰るぜ」
「あっ、お帰りになるのですか狸昌さま?」
「ああ、帰りに寄りたい所があるんでね。九焔にはよろしく言っておいてくれ」
狸昌はさっそうと去り、心のわだかまりが少し取れた気がした。狸昌の姿が見えなくなると、燈子はあくびが出てきた。団子をいっぱいに食べたせいで眠気に襲われていたのだった。自室へ入り、少し横になるだけと畳の上で仰向けになるとそのまま眠ってしまった。
障子の向こうから声がした。
「燈子、この小包はいったいなんだ?」
よだれを垂らしながら寝ていた燈子は、はっと目が覚める。すぐに口元を拭き障子を開けた。九焔が立っており、燈子の部屋の前には小包が置かれていた。
「お戻りになったのですね、九焔さま。この小包は……なんですか?」
「それは僕も気になっているのだが……」
二人は顔を合わせて唾を飲んだ。九焔は恐るおそる紐を解き、中を見た。小包の中には、紅梅色(濃い桃色)のリボンが入っていた。小さな紙も入っており燈子は読んだ。
嬢ちゃんへ
無くなったリボンの代わりに良かったら使ってくれ。
今日付き合ってくれた礼だ。
刑部狸の狸昌
狸昌から紅梅色のリボンと手紙が送られていたのだった。燈子がリボンに触れると滑らかで上質なリボンであることがわかった。
「それでいったい誰からなんだ?」と九焔は聞く。
「狸昌さまからです。恥ずかしながら今日リボンを無くしてしまって、代わりにこのリボンをわたしにと」
「ふふっ。彼は、ああ見えて気が利くからね。気に入ったか?」
「はい、とても」
燈子は嬉しそうな顔をした。君が喜ぶならこれほど良いこともないな、と薄暮の空を見て九焔は言った。
「僕も今日は疲れた。夕食はいつもより豪華にしようか」
「えっ!」と燈子は言った。
「どうかしたか?」
燈子は腹を抑えながら「――い、いえ、何でもありません。た、楽しみにしておきます……」
団子を腹いっぱい食べたのが、いまになって襲ってきた。食べ物の話を聞くと腹が痛くなった、燈子は数週間、団子を見るのが嫌になった。