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東園寺家とも引けを取らない立派な屋敷。九尾の屋敷では、狐耳の生えた使用人と少しばかりだが混血の使用人も混じっていた。妖の屋敷も基本的には人間の屋敷とは変わらない。
純血の人間と純血の妖は第二身分同士ではあるが、住んでいる場所は純血の人間は東、純血の妖は西に一里離れて設置されている。無駄な争いを起こさずに権力を誇示しつづける為の処置であった。九尾の屋敷は所々に朱塗りが施されているのが、東園寺家との違いの一つだった。屋敷の座敷にて燈子は自身の境遇を簡潔に九焔に話していた。
「――なるほど、それで東園寺の人間でありながら、苦しい生活を強いられたということに」
こくりと燈子は頷く。
「……でも、しょうがないとは思います。混血なんですから……わたし」
「混血だから――差別されても? 良いと?」と九焔は少しばかり眉をひそめる。
「い、いえ! そんなことは――」
九焔は立ち上がると、西洋の棚(白く塗られ、引き出しだけではなくガラスの開き戸がついている)から漆が塗られた容器を取り出す。蓋を開けると、はちみつのようにとろみのある飴色の液体だった。座っている燈子に近づき膝をつける。蓋を畳の上に置くと、九焔はとろみのある飴色の液体を白く長い指ですくい取り、燈子に言う。
「――手を」
「は、はい……」と声を出し、燈子は手を差し出した。
「つらかっただろう」
燈子の赤くなり、すり切れた手に九焔はとろみのある飴色の液体を塗った。両手で撫でるように、燈子の手に塗っていった。
最初は固さのある液体だったが、九焔の手の温度とともに徐々に柔らかくなり傷ついた手に馴染んだ。障子からのふんわりとした光が室内を照らすなか、二人の手には少々似つかわしくない艶がでていた。
「薬ですか?」と燈子。
「そう、少しは楽になる。けど、完全に治るまでは時間はかかるよ。無理なことはせず、毎日塗ってもらわないとね」
「……無理をせずに」燈子は反射的に呟く。
彼女の顔を九焔を少しばかり見た。しっかりと手に馴染み、薬を塗り終えると九焔は止まった時計のように固まった。頭で何かを思考しているようだった。
「九焔さま、どうかしましたか?」
「いや――君の足にも塗りたいのだけれど……」
そうでしたね、と燈子は言うと正座を崩して九焔の方に足を伸ばした。
「お手数をかけて、すみません」
九焔は顔をそらしていた――正確に言えば首が曲がっているようにそらしていた。燈子は問い掛ける。
「どうかしましたか?」
「燈子、君は僕が直接足に触れても……」と言葉が途切れた。
「はい、もしよろしければ、かかとを重点的に!」
ため息なのか、落ち着くための息なのか見分けがつかない息を吐き出して九焔は燈子の足に薬を塗り始めた。とろみのある薬は足には心地がよく、くすぐるような感覚もあり燈子は時々静かに声を上げた。九焔はその声が出る度に耳がぴょこぴょこと動いていた。
真剣な面持ちで薬を塗るがどこか別のことを考えているようにも燈子には見えた。九焔さまはこんな時にでも何か立派なことでも考えているのであろう、と燈子は思っていた。
冷たかった手足は熱を帯びる、暑さの熱ではなく優しさのある熱だった。燈子の心は葉の擦れた音が聞こえるぐらい落ち着いていた。思い出せないぐらい久しぶりの安楽に溶けきりそうになり、うとうととしていると――。
牛でも暴れているのかと思うぐらい、廊下を走る大きな音がドンドンとこちらへと近づいてきた。障子に人型の影が映ると、障子を開けた。
「見つけましたよ、九焔さま! お手洗いから帰ってこないと思えば――」大きな声を出したのは小柄――というより、十五にもいってないような子どもであった。
燈子の足に触れている九焔を見ると「な、な、何をしているんですかっーーー!」屋敷を響かせた。
その子どもは九焔のいとこであった。九尾としてはまだまだ幼く、一人前の九尾になる為にと現在は直属の執事として九焔の下で身の回りのことをしている。
頭には九焔のようにしっかりと耳が生えており、灰色の髪に両目の目元には赤い点が二つずつあった。子どもらしくさっぱりとした髪型は焦っていたせいか乱れていた。
燈子と九焔は隣に座り、九焔のいとこは二人の正面に座る。はたから見れば子どもから説教を受けているようにも見えた。
「――つまり、大切な会談を勝手に抜け出した挙げ句、東園寺家の長女まで連れ去り、いやらしいことをしていたと……」
「待て蒼九。最後だけは違う」
「ぼくがあの場をしのぐのにどれくらい苦労したと思ってるんですか。東園寺の屋敷を探し回ってもどこにもいなくて、まさかと思いこちらまで来てみれば……」
蒼九が燈子の目を見る「東園寺家の長女とはいえ、混血の娘に手を出すなんて」
「はい、九焔さまには上から下までとても優しく施され――」
蒼九が九焔を睨む。
「話をややこしくする言い方はやめてくれ……」と九焔。
「どちらにせよですよ。東園寺家には一度お戻りになり、謝罪をする必要があります。長女さまも返さなくてはいけませんし」
燈子はその言葉にうつむいた。また、あの家に戻らなくてはならないことを、この刺激的で伸びやかな時間のなかで忘れていたのだった。まだ、ほんのりと温かい自身の手に触れた。
九焔に合うまで固く擦れていた手は、いまでは柔らかくしっとりとしていた。寒い時期だというのに手足のぬくもりのある心地良さは不思議な気分でもあった。燈子の顔には優しさを感じる表情が現れたが同時に哀しさも居座っていた。
「ここに居たいか?」と九焔は声を掛ける。
燈子は言葉に引き寄せられるように顔を向けた。その勿忘草色の目がどこまで見通していたのか燈子にはわからなかった――ただ、自分のことを見てくれていることだけは確かにわかった。
「……わたしは――」
骨がのどに引っ掛かったように言葉が詰まる。飲み込むことも、吐き出すこともできずに突っかかって動けなかった。燈子は自分がどうしたいのか、途端にわからなくなってしまった。
家族から向けられる視線、周りからは存在しないような扱い、夏や冬の厳しさはどれも耐え難い。鏡や水面に映る自分の色の違う目を見るたびに、生まれた憎しみすら感じることもあった。ひとつ、またひとつ、記憶を呼び起こすが続きの言葉が言えなかった。
蒼九が言う「九焔さま勝手なことを言わないでください。さっさと東園寺家に向かいますよ」
「わかっているよ――とはいえ、何も持たずに戻るのは失礼に値するしね……前に西洋から取り寄せた葡萄酒と毛織物でも詫びに持っていこう。蒼九、馬車に積んで置いてくれ。積み終わる頃には向かう」
「――はあ。わかりましたすぐに取り掛かります」蒼九は立ち上がり障子を開ける「また、勝手に居なくならないでくださいよ」
九焔はにっこりと笑い、蒼九を見送った。黙ってしまった燈子に九焔は言う。
「燈子、『人間と妖の契り』を知っているかい?」
「いえ……知りません。契り……ですか?」
「混血が当たり前のようにいるいまや、その存在はほとんど知られることはなくなってしまったが、古来では人間と妖は契りを交わし主従関係を結んだりしたんだ。人間と妖はいまみたいにうわべだけの関係を保っていたわけじゃないからね。必要だったんだろう」
九焔は燈子の手に触れた。
「……九焔さま」
「このまま帰れば君はあの家に戻ることになる。僕たちの関係上、君をこの家に置いておきたいなんてことは僕の一存では言えない」九焔は燈子の目をしっかりと見る「だけど、契りを交わせば誰にも止めることはできない――」
燈子はその真剣な眼差しにどう答えれば良いかわからなかった。燈子に触れていた九焔の手に力が入る。
「――燈子ここからは君自身で答えを見つけてくれ。契りを交わし従者となれば主人の命令には逆らえない。まあ、命令する気はないけどね――」続けて言う、その面持ちは険しさを感じた「契りは三ヶ月続く、不平等な契りだと僕は思う――三ヶ月経つと従者は記憶を失うってしまうから――従者からの恨みを買わない為の処置さ」
「三ヶ月間の記憶を……ですか」
「いや、すべての記憶――いままで生きてきた記憶をすべて」
すべて……ですか、と燈子は言った。九焔から目を離して畳を見る、それは答えからの逃げでもあった。
つらい生活であっても記憶を失うのは怖かった。『ここに居たいか?』という言葉にすらまともに答えられなかった自分に、記憶を失う契りを交わせる勇気など持ち合わせていない。燈子は顔を向けることができなかった。
「あとは君次第だよ。燈子」
九焔はそう言うと燈子に触れていた手を離した。燈子はまるで大切な物を思い出したかのように九焔の手を目で追った。
彼は自身の人差し指の腹を歯で傷つけた。白く長い人差し指から、葉の先端を垂れる朝露のように鮮血が滴る。白糸の滝のような白髪から見える顔には勿忘草色の瞳が浮かんでいた。
「僕の血を君に与える。これを飲めば君は僕の従者になり――三ヶ月後に記憶を失う」
燈子は彼の指を見ながら唾を飲んだ。
「そして、記憶を失うということは本質的に――死ぬ。ということ」
彼の言葉に燈子は言う。
「――記憶を失っても、わたしの傍にいてくれますか……最後まで離さないでいてくれますか…………九焔さま」
「ああ、君が望むなら離さないよ燈子」
燈子は指先から垂れる血に顔を寄せていった。畳には赤い血が染み込んでいく、口を開け吐く息は白い。息をする感覚すら敏感に伝わる、意識しなければこのまま呼吸が止まってしまうのではないかと思うぐらい集中していた。
顔を上に向け降りしきる雨を口に入れたことがある、冷たくどれが雫なのすらわからなかったが、九焔の血は一滴々々が雫と捉えることできた。口を差し出し、燈子は血を口に含んだ――。