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白く長い人差し指から、葉の先端を垂れる朝露のように鮮血が滴る。白糸の滝のような白髪から見える顔には勿忘草色の瞳が浮かんでいた。
「僕の血を君に与える。これを飲めば君は僕の従者になり――三ヶ月後に記憶を失う」
燈子は彼の指を見ながら唾を飲んだ。
「そして、記憶を失うということは本質的に――死ぬ。ということ」
彼の言葉に燈子は――。
◇◇◇
人間と妖が交わり始めて千年。人間と妖の混血など、もはや珍しくもなかった。
ほとんどの人が混血であることが当然で、いつから混血になったのかもわからないぐらい時と交わりを繰り返してきた時代――長年交わることのなかった、純血の人間と純血の妖は第二身分を与えられ、混血は第三身分に属した。
純血の人間の中でも高い位階に位置する『東園寺家』で生まれた東園寺燈子は、純血の人間の母と純血の妖の父から生まれた混血だった。
冷たい風が吹き、雪が積もる寒の入り。着物の袖をたすき掛けし、まがれいとの髪型を深紅色のリボンで結んだ燈子は縁側の床を木綿の雑巾で拭いていた。東園寺家の使用人が時々、近くを通るが使用人たちは燈子などそこには存在していないかのように振る舞い、自分たちの仕事をただこなしていた。
燈子は結桶に入った水に雑巾を入れ、雑巾の汚れを水に落とした。結桶の水は凍みるように冷たく手を針で刺されているようだった。そんな痛みにも燈子は慣れていた。
冷たい水に映る自身の顔を見る、右目は茶色だが左目は金色だった。冷たい水に手を入れても表情を動かさなかった燈子だが、左右はっきりと色の違う自身の瞳を見ると僅かに顔をしかめた。結桶から手を抜くと雑巾を絞った、ぽたぽたと落ちる水滴で結桶の水は多重の波紋がぶつかり合い、燈子の顔は水面では歪み見えなくなっていた。
「ちょっとどきな」
雑巾を絞っている燈子の背後から声が聞こえ、燈子は振り向き顔を上げると継母の娘である芽々と久茅の姉妹が立っていた。彼女たちの服装はいつもより派手だった。まだ、朝の八時だと言うのに。
「見てないで早くしなさいよ、お姉さまの声が聞こえなかったの? その目と同じで耳もお粗末になったのかしらね」と久茅が言った。
「――はい、いますぐに」
燈子は床の中央にあった結桶を庭側に押し、自分も道を譲るように端へといった。ぎゅっと冷えた雑巾を握りながら芽々と久茅が通るのを待った。芽々が先に通ると続くように久茅が歩き始めたが久茅はすっと足を動かし、結桶を蹴った。雪の積もった庭に落ちていった。
「ごめんなさいね、足が滑ってしまったみたい。拾ってあげたいけど人間には雪って冷たくて大変なのよ。あんたみたいな混血にはわからないと思うけど」
燈子は何も言わずに素足のまま、雪に覆われた白い庭へと足をつけて結桶を拾い上げた。久茅は笑みを浮かべこう言った。
「床の上より、地面の上の方が似合ってるわね」久茅は気づいたような顔をして言葉を続ける「でも、それじゃあ桶も雑巾も必要なくなっちゃうかしら。雑巾を握って床に手足をつけるあんたの姿も好きだから困っちゃうわね」
喋っている久茅に芽々が顔を向ける「何喋ってるのさ、行くよ」
「はーい、お姉さま」久茅は歩き出す。
「ええ、わたしもそう思います」と燈子が口を開くと、芽々と久茅は燈子を見た。
燈子は二人を見ると続けて言う。
「……芽々さんも久茅さんもお似合いだと思いますよ。苦労知らずに我が物顔で歩く姿はとても――お似合いです」
「っ、あんた――」
「構うんじゃないよ久茅。相手なんてしてたら腐っちまうよ」芽々はそう言うと燈子を睨み「あんたも口答えなんてやめな、誰の恩情でここに居られると思ってるのさ。お母さまを怒らせれば、追い出されるのはあんただよ」
お母さまに言いつけてやる、と久茅は騒ぎながら二人は去っていった。燈子は空になった結桶を庭にある、つるべ井戸まで素足のまま持っていき縄を動かし始める。
縄は荒れた畑のようにガサガサとしており、手の皮膚が傷だらけになった。ポンプ式の井戸はこの屋敷にはあるが燈子は使わせてもらえなかった。混血であることが使わせてもらえない理由だった。
東園寺家には使用人も含め燈子以外は純血の人間で、混血である燈子は忌避されていた。寝床は用意されるが、掃除も、洗濯も、食事も、すべて自分で行わなければいけなかった。そして屋敷を出ることすらも許されることはなかった。
ヒリヒリとした手のせいで感覚が鈍り、縄を滑らせてしまい縄に繋がったつるべ桶は日の光を浴びる前に井戸の底へと落ちた。痛む手を我慢しながら、もう一度引き上げようと縄に手を伸ばすと長い影がゆらりと現れた。燈子は上を向くと、ゆらゆらとした影の主に喋りかけた。
「いっくん!」
「おはよ、トウコ」
影の正体は一反木綿だった。純血の妖のなかでも人の姿に化けれない妖は低級に位置する。第二身分とは言え、その扱いは第三身分より少し良いぐらい。
本来であれば東園寺家と低級妖などは関わることなどはないが、一反木綿のモンイチ(燈子はいっくんと呼んでいる)は燈子に会いによく忍び込んでいた。
「おいおい、その手大丈夫か? またあの姉妹にいじめられたのかい」
「違うよ、手は寒くてちょっと切れちゃっただけ……それに、いじめられてるのはいつものことだから」燈子は自分の手を撫でた。
「まったく、姉妹も飽きないもんだ」
……そうだね、と言い燈子は縄に触れようとするとモンイチが燈子の目の前にきた。
「そんな手じゃ引き上げられないだろ。ボクが下に行って持ってくるから――」
モンイチは布の体で井戸の下まで飛んでいき、つるべ桶を体で巻き付け水を汲み上げてきた。空の結桶に水を入れると、また井戸の下に行き結桶の水を貯めていった。
「いっくん手伝わせちゃってごめんね……」
「やれやれ、そんな手でいる方が困るよ。あとは持ってく――」モンイチが雪の上に置かれている水が貯まった結桶に体を巻き付け持とうとした時に気づく。
「トウコ、草履を履いてないじゃないか!」
「……うん」
「はあ――ほら、とりあえず桶を持って」モンイチは結桶を燈子に渡すと、燈子の膝ぐらいの高さまで降りた「乗って、縁側まで運んでいくよ」
「ちょ、ちょっと! いっくんそんなことまでしなくていいよ、すぐそこだから!」
「足が真っ赤じゃないか。手だけじゃなくて、足だってボロボロになるよ。友達なんだから素直に乗ってくれよ」
燈子はごめんね、と言いモンイチに乗った。ゆらゆらと揺られながら縁側の床へと赤くなった足をつけると、燈子はあかぎれの手で床を拭き始めようとする。モンイチが止めようとしたがそんなことは聞かずに燈子は掃除をした。モンイチはやれやれと呆れていた。
燈子は聞く「そういえばいっくん、いつもより早くない? お昼過ぎ頃にいつも来るのに」
「ああ、それは今日トウコの家に九尾の長男がやってくると噂で聞いたもんだから、見てみたいと思って」
「九尾の長男?」
「やっぱり知らなかったか。トウコの家――もとい、東園寺家に招待されたらしい。表向きは高貴な純血同士の交流らしいが、これを手引きしたのは――あの姉妹の母、ハナらしい」
「ハナお母さまが? なんで?」
モンイチは体をくるっと回す「さあね。自分たちの立場を示すために第二身分同士の交流はよくあるけど、東園寺家と九尾なんて第二身分のなかでも高位で同格だ。普通は家に招くなんてことはせずに別の場所で両者の立場を保つものだけど……あのハナって人間は何を考えているのやら――」
道理で芽々と久茅が気合い入れた格好をしてるわけだと、燈子は納得がいった。お見合いでもするのかと思ってはいたが相手が妖なら違うのだろう。継母であるハナが何故、九尾を招いたのかは気にはなったが自分には関係のないことだと考え、床を拭いた。
縁側の角からこちらに向かってくるような足音が聞こえてくる。女性にしては歩幅が広い音だった(この屋敷の中で女性ではないのは、お父さまぐらい)。
「いっくん、お父さまかも! 隠れて!」
モンイチは縁の下に潜り、燈子は床を拭くのをやめて姿勢を整えた。音が大きくなり、足が見えると燈子は顔を上げた。
焦がしたような飴色の柱から顔を出したのは、日の光を美しく反射する白髪に勿忘草を彷彿とさせる青色の瞳、目元は流れるように赤く、切れ長の目が特徴的で背の高い知らない男性だった。
そして頭には狐のような耳が生えていた。燈子に気づき視線を向け、互いに顔を見つめ合った。燈子は知らない狐耳の男性に呆気を取られていると彼は言う。
「えっと、客間はどこでしょうか……」
「客間……ですか……」
「ええ、お恥ずかしながらお手洗いに行ったら迷ってしまって。というより、いつも迷ってばかりですが――」
「客間ならこの通りを――」
燈子が指を差すと、狐耳の男性が近寄り燈子の手を急に握った。
「――えっ!」と燈子は目を見開く。
「君の手ひどい状態じゃないないか……こんなになるまで使ってはいけない」
彼は、冷えて感覚が薄れた燈子の手を医者のように確かめ始める。目を細め、真剣な眼差しで――。
「何故こんなになるまで――」狐耳の男性が燈子の目を見て「君、もしかして――混血か」
燈子はすぐに目を背けた。両目の色が違うのは純血の人間と純血の妖が交わった証拠。そして、混血同士が交わると両目の色は同じになるが角度や光の強さで色が変わるようになる。
純血と混血はほとんどそれで見分けられる。燈子は自身の目が嫌いだった。自分が混血であるということをまじまじと伝え、だからといって第三身分のように混血同士から生まれた人間でもなく、純血と混血どちらにも属すことができないそんな目が嫌いだった。誰もが燈子の目を見て、不快な表情をするのが何よりもつらかった。
「どうして顔を背ける」と彼は言った。
「わたしの醜い目を見せるわけにはいかないので……」
「もし君の目が醜いのなら、傷ついたこの手はどう表せばいい?」
燈子はその言葉を聞き、手を引こうするが狐耳の男性は手をしっかりと掴み離そうとしなかった。しっかりと握られていたせいか、燈子の手は少しずつ温まり手の感覚が戻っていった。包まれるような温かさは、忘れていた亡き母の体温を思い出し僅かながらに涙がこぼれた。
「いいから、顔を向けてくれ。そしたら手を離そう」
ぐっとまぶたを閉じ、涙を切る。泣いた目など見せられない、そう燈子は強く思い、背けていた顔を彼に向けた。
「良い目をしている――誰にも負けない美しい目だ」彼は微笑んだ。
「そんなことないです……あと、手を……」
「いいや、離さないよ」
「で、でも、さっき離してくれるって――」
「傷ついた手をこのままにしてはおけない。それに僕は薬について学んでいてね、ちょうど試したい物が……あるからね」
狐耳の男性は手を引っ張り、燈子を立たせた。驚いた燈子はよろよろと彼に抱きついてしまった。彼は燈子を支え、すぐに彼女の足が赤くなってることに気づいた。
「――手間のかかる患者と言ったところかな」そう言うと燈子の体を抱きかかえた。
燈子はびっくりして目を閉じてしまった。恐るおそる目を開けると、彼の顔を見上げるような形になっていた。何故だかその顔は光に照らされ輝く雪のようにきれいだった。
思い出したかのように燈子は言う「あのー、客間は……いいのでしょうか?」
「ああ、忘れていた!」と彼は言うが、すぐに切り替え「けど――退屈していたんだ。傷ついた君と退屈な話なら、僕は君を選ぶかな――」微笑んでもいるが、同時に悪さでも企んでいるような表情で燈子の顔を見た。
燈子は目をそらし、自身の手を撫でながら聞く。
「……どこに行くきなんですか。薬ならこの場でも」
「ん? 僕の屋敷だが?」
「へっ?」思いもよらない言葉に燈子はまぬけな声を出した。
近所なんですか? と燈子が尋ねるとこう答えた。
「一里先に建っているよ」
「一里も抱えてなんて無理じゃ――」
「僕を誰だと思ってるんだい?」そう言うと九本の白い尻尾が生えた「しっかりと掴まって、四分もあれば着くからね――」
すぐに燈子は彼の首に両腕を回した。体が内側から押されるような感覚とともに燈子は狐耳の男性と飛んだ。塀など意味をなさないぐらい、壁なんてこの世にはないのではないかと思えるぐらい、高く飛び跳ねた。
鳥の羽のようにゆっくりと落ちていき地上に足を着けると、また高く飛んだ。いままでに感じたことない風が燈子に当たった。遠くから流れる風ではなく、自ら切り開いていくような塊のある風。そんな風が嬉しくなり、燈子からは笑みがこぼれた。
太陽だって手を伸ばせば届きそうだった。土の匂いも、水の匂いも、木の匂いも、どこかへ飛ばされ、匂うのは嗅いだことない匂いだけだった。とても速く移動しているのに、その匂いだけは常に近くにあった。
「風は気持ちいいかい?」
「とても!」
「ふふ、良かった。そういえば君の名前は? 聞いてなかったね」
「燈子、東園寺燈子――」
「僕は九尾の九焔。よろしく、東園寺燈子」なびく白髪は絹のように美しかった。
挨拶を済ますと九焔は、何かが引っ掛かったような顔をした。
「…………東園寺?」
「はい、東園寺燈子。東園寺家のいちおう長女」
「燈子、君は使用人じゃないのか……?」
「え?」と燈子は言った。
九焔の顔が徐々に青くなり「まさか、僕は東園寺家の長女を無断で――」
体が軽くなり空を飛んでいるような九焔が、穴に真っ逆さまに落ちるかのように落ち始めた。落ちていくことに燈子は大焦りし、彼の首に回していた腕を全力で動かした。
「九焔さま、落ちてる! 落ちてます!」
九焔は気絶でもしたかのように、口を開けたまま二人は地上へと落ちていった。