#16:Oath.
世間がゴールデンウィーク真っ只中の五月五日、休職が続いているボクには関係がない日曜祝日。
こどもの日だからと、前日に娘からケーキを買ってくるように仰せつかったボクは、清澄白河駅B2出口の近くにある、アットホームな雰囲気の洋菓子店を久し振りに訪れていた。
(なんで三つも買わなきゃいけないのか…一人で二つ?いや三つ食べる気なのだろうか)
「いらっしゃいませ〜」奥からパティシエのご主人のよく通る声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ」
(おぉ…このマダムも相変わらずお元気なんだな)
郷愁感を覚えると共に、変わらず仕事を続けておられるマダムに心の中で敬礼をする。
「えっと…ショートケーキとベイクドチーズケーキ、アマンドショコラを一つずつお願いします」
(そういえば彼女は、ここのモンブランが好きでよく食べていたっけ…)
「すみませんっ、あとモンブランも一つください」
(つい買ってしまった…ひまわりに持って帰って貰おうかな…)
「保冷剤はお入れいたしましょうか?」
「すぐそこですので…」
(相変わらず、本当に人柄の素晴らしいマダムとご主人だよな…癒された)
そもそも、こどもの日とは何をするものなのか。
誕生日やクリスマスは疎か、お小遣い制度すら無かった家庭で育ったボクは、こういうイベント事に関しては本当に無知だった。
誕生日を祝ってくれたのは、唯一彼女と娘だけだった。
(あの子も小さいなりに、手を叩いて喜んでいて可愛かったなぁ…今では執事とお姫様だけど)
「なんかまた増えてるよな…」
ケーキを冷蔵庫に入れ、いつからか娘が来るまでの間のルーティンになっていた『洗濯物を畳んでおく』という作業をしていると、つい愚痴をこぼしてしまった。
娘が我が家に来るようになって一か月以上が経ち、いつの間にかボクのではない洋服が増えていた。
ここに来ると当たり前のように部屋着に着替える姫様は、ここを自分のクローゼットだと思っているらしい。
いきなり目の前で着替えるし、はじめは置いて帰られることも拒んだ。洗うことも躊躇っていたけれど、慣れてしまえば不思議なもので、執事兼お洗濯係のボクは手際よく姫様の衣装を畳んでいた。
「ほんとは家から着て来てほしいんだよなあ…」
どうも我が主様…もとい、姫様は部屋着で外に出ることが嫌なんだそうだ。ここに来たらすぐに着替えて、帰る時にまた着替えるという謎ムーブを日々繰り返していた。
「だからって置いて帰らなくていいのにな…」
父親であるボクの着た服と、一緒に洗濯されることを何とも思わないと言ってくれていることだけは、悪い気はしなかった。
(寧ろありがたいことなのかな…)
いや、ここはボクの家で洗濯機もボクの物で、何なら洗濯をするときの水だって洗剤だって、ボクだけが生活する為に対価を払って使っているのだ。これで別々に洗ってくれなんてことを言われたら、さすがの執事も遺憾の意と辞意を表明するところだ。
『ピロリロリロリロリロ…』
姫様のご到着を告げる呼び鈴が鳴る。あちらからは見えないのに、襟元を正してモニターの前に立ち、通話ボタンを押下する。まさに執事の鏡である。
今日は『全画面顔だけ』モードの気分らしい。
「はしたないから止めなさい」
「合言葉を言いなさい」
「ケーキ三つ」
「よろしい!」
「ここはボクの家です」
「ねえ早く開けてよ〜!顔近づけてるの恥ずかしいんだからね!」
(だったらやめればいいのになあ…)
いっそのことお引取り願おうかと思ったけれど、解錠ボタンを押し、姫様を迎える準備に取り掛かる。
「家の鍵は開いてるから」
「はーい」
全画面顔だけモード、姿が見えないモード、後ろ姿から振り返るモード。ありとあらゆる姿で登場するのは、デザインを学ぶ芸術的な思考なのか。一介の執事には到底理解できない高貴な行動だった。
姫様御用達の御紅茶を入れるため、電気ケトルにペットボトルから天然水を注ぐ。これも姫様の拘りだった。いつか水道水にして、気付くのか試してやりたいと思っている。
「パパきたよー!」
「はーい」
「〝おじゃ…ます…〟」
別の声が聞こえたような気がしたけれど、ケトルのスイッチをオンにして、姫様をお迎えする。
(えっ……………)
今日の姫様には、いつもと違うところが一つだけあった。
姫様は、母上様を伴っていた。
「おじゃまします…。あの、急に来てしまって…ごめんなさい」
「ママも来たよ!」
「えっ…あっ…うん…そ、そう。い、いらっしゃい…」
(だからケーキが三つだったのか)
「はいパパ、これ冷蔵庫にしまっておいて」
スーパーに寄ってきたのか、何やら具材の入ったレジ袋を格納する職務を与えられた。これくらいの量なら余裕でスペースは確保できそうだった。昨日やたら冷蔵庫の中身を確認していたから、不足品でも買ってきてくれたのだろう。慈悲深い姫様で執事は感動しました。
「ママこっちこっち!」
「うん…」
十二年振り…いや、画面越しでは意識して、出来るだけ見ないようにしていたけれど、ふとした瞬間に姿は見ていた。それに、成長した娘と一緒に居る彼女を見るのは初めてだったので、つい見とれてしまった。
(全然変わらないな…)
女優:海としてではなく『佐々木 花』としての彼女は、あの日の姿ままタイムリープして来たかのように見えた。それ程までに、彼女の持つ独特なオーラは全く色褪せていなかった。
初めて出逢った時のことを思い出して、恥ずかしくなってしまったけれど、全身に黒を纏っている彼女は、ボクの知っている彼女とは別の何かを放っていた。
「パパー、はやくケーキが食べたい」
「あ、うん…いま用意するよ」
十二年振りに会う彼は、初めて出逢った時のように、少しだけ影を纏っているように感じた。娘が『本人の口から聞くべき』と言っていたある事と関係があるのだろうか?
「あのっ、ワタシも何か手伝おうか?」
「いや、大丈夫だよ。ありがとう。座って待ってて」
「うん…」
パパもママも、どこかよそよそしい雰囲気だったけれど、出だしは悪くないと思っていた。
(あとはパパから、どう話をしてもらうかだなぁ)
『はい、貴女のです』と、モンブランを彼女の前に出すのは気恥ずかしくて、買ったままの箱の中から、各自好きな物を選んでもらうことにした。
「あっ…このお店」
「えー、ママ知ってるの?」
「うん…ここのモンブランが大好きなの」
(開けないで欲しいな…)
「なによパパそんなにジロジロ見て」
「ジロジロなんて見てないよ!いいから早く選びなさいよ」
「てか、パパなんで四つ買ってきたの?」
「なんとなくだよ、なんとなく!」
「へえ〜」
(完全に悪役令嬢の顔じゃないか)
「仲が良いのね…」
「ママ…?」
「どうしたの?」
「んーん、なんでもない!早く選ぼう!」
(いま確かにママが笑ったように見えた…)
気のせいかもしれなかったけれど、やっぱりママの笑顔を取り戻せる鍵はパパだ。家で嬉しそうだった時もパパの話をしたからだった。その鍵が私じゃないことに改めて気付かされたのは、ちょっとだけ複雑だった。
「ママ!モンブランあるよ!」
「ほんとだ…」
穴があったら入りたい気持ちだった。まさか彼女が来るとは思ってもいなかった…でも来ると分かっていたら尚更モンブランを選んでいただろう。
「じゃあ…私はチョコのにする!ママはどれにする?」
「ワタシは…最後で良いよ。たいよ…パパに先に選んでもらって?」
「ボクは何でもいいから好きな物を選んで良いよ。こういうのはレディーファーストだから」
「懐かしいね…」
つい昔の癖で言ってしまった。実際、ボクはどのケーキでも良かった。元はと言えば姫様への献上品だったのだ。モンブランを買ったのは無意識だったけれど。
「パパがレディーファースト?!私にはガミガミ言うくせに」
「パパはガミガミなんて言ってません!」
「そうかなー、まあいいけどさー」
「じゃあ…ワタシはモンブランで…」
やっぱりママは、どこか嬉しそうで幸せそうな雰囲気を出していた。潔癖症というか、外では人を寄せ付けないようなママとは別人みたいだった。
私の前にはストレートの紅茶、ママの前にはストレートの紅茶と、お砂糖と牛乳が置かれていた。
「ママってミルクティーが好きなの?」
「えっ?うん…粉とかポーションのじゃなくて、牛乳で割るのが好きなの」
「知らなかったなー。パパは知ってるんだ〜」
「ま、まぁね…」
(指摘されると恥ずかしいからやめてほしい…)
ボクはショートケーキを選んで、チーズケーキは娘が夜に食べると言うので、冷蔵庫に戻しておいた。
「いただきまーす!」
「いただきます…あのっ、お金は?」
「そんなこと気にしてなくていいよ…」
「うん…ありがとう」
「んまいんまい、パパほれほいひーね」
「だから食べるか喋るかにしなさい!んまいんまい猫かよ」
「んまいんまい猫?」
「ひま、ママにも見せてあげなさいよ」
「えー、パパが見せたらいいじゃない」
「ウチのWi-Fi使ってるんだから、それくらいしなさい」
「仕方ないなぁ…」
(せっかくチャンスだったのに鈍いパパだな…)
「ママ、これが『んまいんまい猫』だよ!」
『ンマインマインマインマイ』
「なにこの子!可愛いっ」
「ママ…笑った…」
(え?ワタシが笑ってる?)
「ママ、こんなのもあるよ!」
キュウリにビックリする猫、カーテンに引っ掛かって取れなくなった猫、動いているお掃除ロボットの上に乗っている猫の動画をママに見せてみた。
「あはははっ!ちょっと待って!どの子も可愛いけど、笑ってケーキが食べられない」
娘が見せてくれた動画の猫たちは、ひょうきんで無声映画を観ているように楽しくて、つい笑いが止まらなくなってしまった。
「おー!ママも好きだねえ」
ママがこんなにも楽しそうに笑う姿を間近で見るのは、私の記憶の中では初めてだった。アルバムの写真の見たこともない顔をするママも、いまのママも『笑わない女優』なんかじゃなくて、普通に笑う普通の女の子に見えた。
「でもひま、食事中はお行儀が悪いからやめましょうね?」
「はーい…んまいんまいんまい…」
「ぷッ、だからやめてってば」
(ママを笑わせてやったぜ!ほら、パパもママを笑わせてみろっ!)
挑戦状を叩きつけようと思ったけれど、私達を見ていたパパは静かに泣いていた。まだうつ病の症状が寛解していないパパには、刺激が強すぎたのかもしれない…少しうるさくしてしまったことを反省した。
「パパごめんなさい、大丈夫?ちょっとうるさかったかな?」
「いや…そうじゃない。そうじゃないよ、ありがとう」
彼は泣いていた。私が楽しそうにしているのは、やっぱり良く映らないのだろうか。つい優しい彼に甘えてしまうのは悪い癖だ。でも、今のワタシがこんなにも笑うことができるなんて思ってもみなかった。
「ワタシも…その、騒がしくしてしまって…ごめんなさい」
「大丈夫だから、謝らないで。嬉しいだけだから」
昔のように彼女と娘とボクの三人一緒に居れることが、こんなにも幸せなことだったなんて思っていなかった。この一時だけでも、幸せを思い出せて良かった。
でも、ボクにはこれを見続ける資格はない。
ボクの手がふたつの光に届くことはない。
「ねえパパ」
「ん?」
「パパは嬉しくて泣いているの?それとも悲しくて泣いているの?」
核心をつかれた。この子の勘は本当に鋭いところがある。沖縄で再会したあの短い時間だけで、ボクの病気のことを何となく察知していたそうだし、生きていてと言ってくれた。もう隠すことは無いだろう。
「どっちも…かな…」
「どっちもって…なんで悲しいことがあるの?!」
「いや…」
「また資格がないなんて言ったら怒るよ!」
娘は急に彼に怒り始めていた…ワタシにも同じように言ってくれたけれど、いまのこの子はあの時のワタシを見ているようで、宥めてあげるのが精一杯たた。
「ひま、少し落ち着いて話そう?」
「大丈夫、私は落ち着いてるよ」
「ねえパパ?ママにもあのことを話してあげて」
「………」
「ほら、ひま、無理に聞き出さなくてもいいから」
「ママは黙ってて。パパ、絶対大丈夫だから話して」
「そうだね…」
このことを話したら、彼女は自分を責めてしまうんじゃないだろうか…。仕事に対するモチベーションがそうさせたのは間違いないけれど、彼女と離れることになるまでの惨状も、一つの要因であることは間違いではなかった。
「その…ボクはさ、うつ病なんだよ」
彼が言ってくれたことは、すぐに理解することができた。初めて出逢ったあの日も、妊娠が分かって挨拶に行った実家からの帰りも、最後の別れ際も、彼は同じ顔をしていた。原因は…やっぱりワタシとのことなのだろうか。
「これが二回目なんだ…もう、これが治るのかも、薬を飲んでいたって意味があるのかも分からない。仕事だって一生懸命にやってた、でも積み上げてきたものは何の価値もなかったんだよ…」
「パパ大丈夫だよ…私もママも逃げたりしない」
「うん…」
「太陽くん、大丈夫だよ」
彼女からそう呼ばれて、ボクの心の深淵に眠っていた感情が息を吹き返してしまった。
「ボクはもう、何も失いたくないんだよ…怖いんだよ何もかも」
「あのっ、太陽くん…ワタシの話も聞いてもらっても良いかな?」
「………」
「知っているかもしれないけれど、ワタシね『笑わない』って呼ばれてるの。信じられないでしょ?」
「………」
「でもね、笑わないんじゃなくて、ワタシ笑えないの」
「あの時…太陽くんがワタシの隣から居なくなって、ワタシのせいで太陽くんを傷つけて苦しめてしまって…そう思うと何にも楽しいって思えなくなっちゃって…女優を続けているのも、本当に正しいのか分からなくて…」
ママも泣いていた。ママが今まで抱いていた感情、笑わなくなってしまった理由を聞いてショックだったけれど、二人の信頼関係は今も強いんだなと思った。
「はじめは…ワタシがここに来ることは悪いことだと思ったけれど、今日こうして太陽くんが居て、ひまわりが居て、三人で一緒に居れることが本当に幸せだなって思ったの」
「うん…」
「だから、太陽くんにも幸せだなって思ってほしくて…」
「私、居ない方がいいかな?」
ここは二人だけにした方が良い気がして、席を立とうとしたけれど、パパから止められてしまった。
「いや、ひまわりも一緒に居て欲しい」
「うん」
「あの…花ちゃんが言ったことは違うと言うか…ボクは、花ちゃんに傷つけられたとか、苦しめられたなんて思ってないよ。それに女優は、花ちゃんのやりたいことなんだから…」
「うん…」
「ボクは花ちゃんと、ひまわりから逃げただけなんだよ…いまも仕事から逃げているし、ボクが二人と一緒に居る資格なんてないと思ってた」
「パパ…」
「うん、分かってる。大丈夫」
「でも、ひまわりに言われて分かったんだよ。辛いのはボクだけじゃない。花ちゃんが悲しい顔をしてるって聞いたし、それに何よりひまわりが一番辛かったんだって…。大人の勝手な事情で寂しい思いをさせてしまった」
「ひまわり…」
(もう絶対に、このふたつの光を手放したくない)
「だから…ボクは、もう一度、また三人で、一緒に暮らしたい…二人がボクの生きていたいと思える存在なんだ」
「太陽くん…ワタシだって、そう思ってるよ」
「でも…今はまだ仕事も休んでいるし、それに…ちゃんと、花ちゃんのご家族にも話はしなきゃいけない」
「うん…」
「大丈夫、ボクは絶対に逃げたりなんかしない」
「私もついてますからね!!」
「そうだな…心強いよ。ありがとう」
「ひま…いままで辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい」
「ママまたそれ言うのー?大丈夫だよ!だいたいパパもママも謝りすぎなんだよねー」
皆で笑って泣いているこの空間は、私の人生の中で一番嬉しくて幸せだと思えるものだった。
「花ちゃん、ひまわり、一生かけてボクが二人を幸せにします。だから…その…ボクと家族になってくれませんか?」
ワタシ達二人に断る理由なんて、ある訳がなかった。
「はい。ワタシ達を太陽くんの家族にして下さい」
「なに言ってるの?私達ずっと家族じゃない!」
「そうだな」 「そうね」
「変なのー、でも嬉しいなあ!」
「ひまわり、本当にありがとう」
「ワタシからも、ありがとう」
「どういたしまして!」
パパはママと私から生きる意味を思い出して、ママはパパと私から笑顔を思い出すことができた。
「ねぇ!パパとママが出逢った時の話を聞かせてよ!」
私は、特には変わらなかった。
二人の笑顔を、二人の間の特等席で見ることが出来る。それだけで幸せだった。
「あ!あと晩御飯はオムライスだから!パパよろしくね!」
「さっきのオムライスの材料だったんかい!」
「ワタシも手伝うね!」
「いや、レディーファーストですから。お任せ下さい」
そう言う彼の姿は、輝きを取り戻していて眩しくてキラキラしていた。両親のことは、不安だったけれど、今のワタシ達なら、絶対に乗り越えられると信じることができた。
★★作者からの御礼とお願い★★
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