第79話 私の特別な人(後編)(明星瑠理香視点)
ぼさぼさ頭に、無精髭。
不自然なほど長いコートを着たその男は、こちらを見下ろしてにたりと笑っている。
その嗜虐的な笑みを、きっとこれから何度も夢に見るのだろう。
それは絶望的な予感だったが……でもきっと当たる。
当たってしまう。
男はこちらの様子を見て、動けないと確信したらしい。
自身の服に手を掛けると、にたにたと笑ったまま、その薄汚れたコートのボタンを外していく。
見たくなんてないのに、恐怖のあまり視線をそらすことさえできない。
がくがく震える私の目の前で、変態はコートの前方をゆっくりと開いていき。
その男の裸体が今まさに私の視界に入る……。
――その寸前!
「瞬着!」
背後から飛来したなにかが、男のコートにべたりと張り付くのが見えた。
「なっ……ちいっ!」
コートを脱げなくなった男は、背後から迫る足音を聞き、あわてて路地を駆けだす。
そして入れ替わるようにひとりの少年が姿をあらわした。
真っ黒な学生服を身にまとう、やや幼さの残る少年。
季節外れの服装という意味では先ほどの不審者と大差ないはずだが、柔らかな表情のおかげだろうか、受けた印象はまるで違う。
街灯に明々と照らされるその姿は、まるで物語の主人公のように輝いていて、私はその場にへたり込んだまま思わず見とれてしまっていた。
そんな彼は不審者が逃げた方角に視線を向け、悔し気につぶやく。
「くそっ、逃げられたか……」
そしてこちらに視線を向けた。
「怪我はありませんか?」
「あ……はい……」
ぼんやり頷くと、彼はこちらに歩み寄りスッと手を差し伸べてきた。
私は何も考えられないまま反射的にその手を掴み、立ち上が――。
「きゃっ」
迂闊なことに、足を痛めていたことを忘れていた。
立ち上がろうとした私は、思いっきりバランスを崩し、少年の胸に勢いよく飛び込んでしまう。
「おっと」
けれど少年はそんな私の身体を軽く抱き留めると、心配そうな顔でこちらをのぞき込んできた。
「大丈夫ですか?」
「………………」
こちらをまっすぐ見つめてくるその瞳から、目が離せない。
声を出せずにいると、彼はこちらを安心させるためか、軽く頷いてみせる。
「もしかしたら、足を痛めたかもしれませんね。とりあえず通報しようと思うんですけど……ひとりで立てますか?」
「…………いえ」
彼の言葉がよく理解できないまま、無心で首を振る。
でもすぐに、それが正しい返答であることに気付いた。
だってこの足の痛みでは、ひとりで立つことなんてできそうもない。
誰かに支えてもらわないと無理。
例えば……通りすがりの男の子とか……。
「そうですか。じゃあちょっと失礼して……」
彼は私の身体を片手で抱き留めたまま、もう片方の手で器用にスマホを取り出し、どこかに連絡を取り始めていた。
そんな彼の横顔をじっと見つめる。
あどけない顔の少年。
でも、その横顔が凛々しくて。
そして私を支える腕が、とてもたくましい……。
「とりあえず通報は済ませました。救急車も来てくれるそうですよ」
「は、はい」
「えっと、とりあえずどこか座れる場所を探しましょうか。このままだとつらいでしょうし」
「い、いえ! このままで大丈夫です! ……あ」
ブンブン首を振りながら答えたが、その返答があまりにも厚かましすぎることに気付いた。
なので小声で付け加える。
「……あなたがおイヤでなければですけど」
「俺はもちろん嫌じゃないですよ」
彼は私の言葉をどう解釈したのか、楽しそうに笑っていた。
「じゃあ救急隊の人たちが来るまで、このまま待ってましょうか」
「は……はい」
夢見心地で頷く。
そして実際、彼と過ごすこの時間は夢のように素晴らしかった。
特別なものなんていらない、平凡でいいと考えたのはつい数分前なのに。
でも今は、この特別な時間がいつまでも続けばいいのにと、そんなことを思ってしまう。
そして――。
「あ、来たみたいですね」
「…………」
サイレンの音が徐々に近づいてくるのが分かった。
通報から数分しかたっていないのに、彼らの優秀さが今はなんだか恨めしい。
とはいえ、さすがにこれ以上この優しい少年に付き合ってもらうわけにはいかないのもたしか。
だからせめてこれだけは……。
「あの、お名前を聞いても……? 助けていただいたお礼をしたいんです」
すると彼は、こちらを見て軽く微笑んだ。
「名乗るほどの者ではないですよ。……今後は夜道を歩くときには気をつけてくださいね」
◆◆◆◆◆
洋服をきちんと着込んだ私は、布団の上にぼふんと倒れ込む。
やよいちゃんは、朝食を食べてすぐに眠りにつこうとする私に不思議そうな視線を向けてくるが、構いはしない。
目を閉じると、あの日感じた温もりや、胸のときめきを鮮明に思い出せる。
今はただ浸っていたかった。
連城光太郎。
私を助けてくれたあの少年の素性はすぐに分かった。
立ち去る彼と入れ違いでやってきた、変態管理官の男性から聞いたのだ。
その男性は、後ろで縛った長い髪とスカートを揺らしつつ――おとり捜査のために女装していたそうだ――連城光太郎という少年は、変態を追い払う活動を長年続けていると教えてくれた。
そしてその少年が密かに望む、全裸村復活の野望についても話してくれた。
なぜ管理官という立場の人間がそんなことを知っているのかは不思議だったが、どうやら管理局の中では公然の秘密という扱いらしい。
あれから3年。
風紀委員として再会した時、連城さんは私のことなんて欠片も憶えていなかったが……もちろんそれで構わない。
だって彼が助けた女性の数は、ひとりやふたりではないのだ。
憶えていろというほうが無茶というもの。
彼の野望の手助けをするのだって、結局のところは私の自己満足に過ぎない。
でも――それでいい。
だって彼は、私を絶望の淵から救い上げてくれたのだ。
今度は私が助けてあげないと。
そう考えてから、私はゆっくりと目を開く。
(……思い出に浸っている場合ではありませんでした。今はとにかく着実に動いていきましょう。まずは全裸食事会の次回開催日をいつにするか、みなもちゃんと相談しないと、ですね)




