第78話 私の特別な人(前編)(明星瑠理香視点)
部屋に戻ってからも指先が震えていた。
どうやら気が昂っていたらしい――そう考えてから、思わず苦笑する。
(『らしい』なんて言い繕っても仕方がありませんね。興奮していた。それは認めないと……)
つい先程まで参加していた、全裸の食事会。
そこには男性の姿もあって……などと表現するとなんだか犯罪的な香りが漂うが、実際の状況はその言葉から連想するものとは程遠い。
唯一の男性参加者である連城光太郎は、こちらが裸であることなどまるで気にも留めていなかったのだ。
ナギサちゃんが見繕ってくれたリラックス効果のある花で身体を隠し気味にしていたとはいえ、彼は驚くほど落ち着いていて、なんなら紳士的でさえあり……。
そういう意味で言えば、礼を失していたのは明らかに私のほうだった。
視線が彼の裸体を這い回ろうとするのを、必死に食い止めていたのだから。
(ああ駄目、また言い繕ってる。食い止めていた? 彼の身体を舐めまわすように見ておきながら、よくそんなことが言える……)
「ふう……」
ため息に混ざるものが自己嫌悪なのか、或いはもっと見ればよかったという後悔なのかは自分でもよく分からなかったが。
なんにせよすべては終わったことだ。
未だに震えが止まらない指で慎重に洋服をつかんだ私は、心を落ち着かせるためにあえてゆっくり身に着けていく。
と。
「相変わらず変なところで度胸があるな、瑠璃華は。まさか参加するとは思わなかった」
「やよいちゃんが意気地なしなんですよ」
背後から聞こえてきた声に、間髪入れず答える。
振り向かなかったのは、表情を見られたくなかったからだ。
「こんなのワンちゃんの前で裸になるのと同じです。気にするほうがおかしいじゃないですか」
「……言いたいことは分かるんだが、さすがに光太郎を犬として見ることはできんな」
「同じですよ。こんなの大したことじゃありません」
自分を説得している気分ではあったが、それでも会話を重ねるうちに気持ちが落ち着いてきたようで、指先の震えがようやく止まってくれた。
けれど内心の乱れは変わらない。
(すごかった……本当にすごかった……)
連城光太郎。
彼の裸体はそのまま美術館に飾れそうなほどに見事な造形美を有していた。
今も目を閉じるだけで、彼の全身を鮮明に思い出せる。
特に――彼の下半身は、はっきりくっきり思い出せてしまう。
「……はぁ」
再びため息。
変態。痴女。覗き魔。
そんな犯罪染みた言葉ばかりが思い浮かぶが、否定できる要素は特にない。
そもそもこうなることは分かり切っていたから、最初は参加を断るつもりだったくらいで。
それでも恥を忍んでみなもちゃんの提案に乗ったのは、それが私の目的を達成するうえで最も有効だと思ったから。
(あの人の力になりたい……)
彼が生まれ故郷である全裸村の復活を望んでいることは、ある人から聞かされて知っていた。
そうなると、私もできることはすべてやっておく必要があるだろう。
裸になることに抵抗感を持っていては駄目。
まして彼の裸体を見て興奮しているようでは話にならない。
つまりこれは訓練なのだ。
一糸まとわぬ姿の私が、全裸の彼と平常心で接するためには、この羞恥にまみれた状況に慣れ、恥知らずな欲望を乗り越える必要がある。
言うまでもなく苦しい道のりだが……でも仕方が無い。
だって私は、彼の理想に殉じると決めたのだから。
3年前の夏。
絶望の淵から救ってもらった、あの日あの瞬間に。
◆◆◆◆◆◆
「はあ……はあ……っはぁ……」
薄暗い街灯に照らされながら、汚れた路地裏を駆け抜ける。
息を切らし、迫りくる恐怖に怯えつつ、それでも背後を振り向くことはしない。
見るまでもなく、足音で分かっていた。
(……追ってきてる……!)
スカートを翻し、必死に夜道をひた走る。
数十分前に友人と笑顔で別れた時は、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。
友人宅での優雅なお茶会を楽しんだ私は、満足感に包まれながら、のんびりと自宅へと向かっていて。
ひとりで出歩くという滅多にない機会に密かにはしゃぎつつ、髪をもてあそぶ初夏の風に頬を緩め。
家路につく私の足取りは極めて軽かったのだ。
――ロングコートを着た不審な男と遭遇するまでは。
「はあっ……はあっ……」
その怪しい姿を見つけた瞬間、咄嗟に逃げ出したのは、我ながら賢明な判断だった。
見た目は露出魔のようだったが、結局は性犯罪者。
捕まってしまえば、いったいなにをされるか分かったものではない。
とはいえ――。
(どこまで逃げればいいの……!?)
まだ20時を過ぎたばかりだというのに、不思議なくらい周囲に人の気配が無かった。
もちろんあの薄気味悪い不審者が、魔法で人々を消したというわけでもあるまい。
ただ単に運が無いというだけ。
でもそのことが、さらに恐怖を煽る。
もしこのまま不運が続けば、私はいったいどうなってしまうのだろう……。
よぎる不安を振り払うように、必死に足を動かす。
倒れ込みそうになりながらも懸命に路地裏を走り抜け、とにかく人がいそうな大通りを目指した。
――それなのに。
(街灯が……減っていく……?)
路地を照らす街灯の間隔が、徐々に広がっていくのが分かった。
もしかして私……ひと気のない方向へ誘導されてるんじゃ……。
「た……たす……」
舌がもつれる。声がうまくでない。
涙目になりながら懸命に周囲を見回し……形の無い恐怖が全身を満たしていく。
周りに民家はあった。
玄関に駆け寄り必死にドアを叩けば、あるいはすぐに扉を開けて私を助けてくれるかもしれない。
でもその住人が味方である保証は……?
もし背後に迫る変態の目的地がそこだとしたら、それこそ致命的な結果を生みかねない。
(たすけて……だれか……)
退屈な毎日にうんざりしていたはずだった。
お嬢様扱いが、苦痛でしょうがないはずだった。
けれどこうしてみると、平凡に暮らすことのなんと有難かったことか。
あれほど邪険にしていた送り迎えの車が、どれほど私の安全を保障してくれていたことか。
(……お友達が車で家まで送ってくれるなんて嘘、つかなければよかった……)
そうすればいつもの通り、お父様が手配してくれた車に揺られて、優雅な帰路につくことができたのに。
けれど、後悔しても時すでに遅く……。
「あっ……!」
慌てていたせいだろうか、普段なら気にも留めないようなわずかな段差につまずき、転倒する。
すぐさま立ち上がろうとするが――。
「……っ!」
全身をつらぬくような激痛。
足をひねった……?
よりにもよってこんな時に……?
絶望が心に押し寄せてくる中――。
「……ひひひ……」
頭上から降り注ぐ、不気味な笑い声。
私はハッと顔を上げた。




