第32話 元クラスメイトのギャル(後編)
倉橋の立ち位置は、御城ケ崎のすぐ背後。
手を軽く伸ばすだけで、おしりに触れることが出来る程度の近距離だ。
俺は御城ケ崎の斜め後ろ――倉橋とほぼ向かい合わせの位置に陣取る。
普通に考えればこの場所で倉橋の手を防ぐのは至難の業だろうが、ま、俺なら問題は無いな。
「えっと、じゃあ始めていいんだよね?」
「おーう」
「もー。そんな気のない返事してると、すぐさわっちゃうよ?」
「そいつはまずい。気合を入れないと」
などとぼんやり答える俺だが、別にやる気がないわけではない。
御城ケ崎との距離を測っていて、生返事になっただけだ。
例え事故でも、この場面で御城ケ崎の臀部に触れてしまえば「電車のときも柚子島のおしりに触っていたのでは?」なんて致命的な誤解を生み出しかねない。
そう、今回俺が注意を払うべきは倉橋の手ではなく、御城ケ崎のおしりなのだ。
まあそれに、セクハラ素人の倉橋相手なら特に警戒しなくても普通に対応できるだろうし……。
と――なんの前触れもなく倉橋の手がスッと伸びてきた。
意識の外からやってきたような錯覚に襲われたのは、極端に彼女のモーションが小さかったからだろう。
意外とやる。
『千手』を使うほどではないが、それでも甘く見ていると一気にやられそうだ。
ま、ここは小手調べとして、30パーセントくらいの力で対応を――。
「きゃっ……!」
「…………は?」
――目の前の光景が信じられなかった。
倉橋が伸ばした手は俺の防御をかいくぐり、御城ケ崎の身体へとたどり着いていたのだ。
確かに彼女の手の動きは素早かったが、それでもきちんと目で追えていたし、進むルートも予測できていた。
なのに掴んだと思った瞬間、彼女の手が勢いよく翻り、御城ケ崎のお尻に触れていて……。
あの一瞬でかわされただと……?
「やった、よくわからないけどあたしの勝ち!」
「ひ、ひかりさん、だめですよ……そんなに撫でまわしては……」
「えへへ、ごめんね? なんか触り心地がよかったから」
「もう……こまります……」
いちゃつくふたりを見て、俺は絶句していた。
……なにが……なにが小手調べだ……。
相手をみくびり、手を抜いてあっさり負けていれば世話はない。
100回相手を抑え込んでも、101回目に出し抜かれたらそれで終わり。
そういう世界で生きてきたはずなのに、なぜ俺はこうも露骨に慢心してしまったのか……。
「……これって」
呆然と立ち尽くす俺の耳に、ラビュのつぶやきが届く。
「結局なにも分かんないよね? たしかにコータローはユーラのおしりにタッチしてなかったけど、なんかそういうことじゃないっていうか……。負けちゃダメじゃない?」
「……!」
そのあまりに率直な感想が、俺の闘志に火を点けた。
メラメラと熱いものが、心に渦巻いていく。
「……まけてない……」
「え?」
倉橋の目をまっすぐ見つめる。
こちらのプライドをずたずたに切り裂いたことなど気付いてもいない、彼女の澄んだ瞳を。
「俺はまだ負けてない! 今のはちょっと、気合が入ってなかっただけだ。頼む倉橋、もう一回やらせてくれ!」
どれほど惨めだろうと、この敗北を素直に受け入れるわけにはいかなかった。
この街で孤独に戦う俺の心を今まで支えてくれたのは、変態封殺術が世の中の変態たちに通用するという『結果』だ。
なのにいま、その『結果』を信じられなくなっている。
変態パワーを感じないごく普通の少女。彼女に負けたことによって。
――雪辱を果たさないといけない……! それも、今すぐに!
この出来事を今後の戒めとするためには、とにかく倉橋から勝利を得る、それしかないのだ!
「うん、いいよー」
「……ありがとう!」
分かっていたことだが、倉橋は特に気にしていないようだ。
その無頓着さが、今はありがたい。
「じゃあ始めるね」
「ああ。今度は最初から本気でいく」
静かに息を吐き出し、全神経を両手に集中する。
ジリジリと脳が焼き付くような感覚のなか――スッと伸びてきた倉橋の右手。
「痴漢封殺術――千手ッ!!」
叫びと共に解き放たれた俺の両手は、超高速で突き進み、倉橋の右手を即座に捕捉した。
「ふっ……!」
倉橋は短い息吹を吐き出しながら右手を翻していたが――2度も同じ手にひっかかるわけがない!
ここからが『千手』の本領発揮だ!
「おおおおおおおお!」
「わわっ……!? 光太郎くんの手が大量に……!?」
倉橋は驚いた顔を見せている。
俺の両手のあまりの高速移動っぷりに、手の数自体が増えたかのような錯覚を覚えたのだろう。
彼女が動揺するその姿は、少なからず傷ついた俺のプライドを回復させてくれたが、しかし調子に乗っている場合ではない。
油断せず、確実に。
俺の両手は倉橋の右手の進行を阻み、そして跳ね返していく。
迫りくる悪意を優しく包み、押し返す。
すべてを防ぐ守護の技、それこそが『痴漢封殺術・千手』……!
「すっごーい……」
感嘆の声を上げる倉橋。
だが彼女が感心したようにこちらを見つめつつも、死角からしれっと左手を伸ばしてくるのを俺は見逃さなかった。
内心、そのしたたかさに舌を巻きながら再び『千手』で弾き返す。
と、さらに逆方向の死角から右手が伸びてきた。
「…………!」
こいつ……やるっ……!
彼女の動き、そのひとつひとつへの対処自体は、決して難しくない。
だがどれだけ行く手を阻んでも、即座に第3陣、第4陣と攻撃が続くのだ。
しかもその精度は鋭さを増すばかり。
……明らかに倉橋の能力を見誤っていた。
素早い状況判断と適切な身体操作。
彼女のセクハラスキルは基本に忠実で、だからこそ脅威だ。
こんな逸材が在野に存在していたとは、さすがは東京。
野生の変態にあふれた街である。
もし最初に柚子島のお尻を狙ったのが、あのおっさんではなく倉橋だったとしたら、俺は防ぎきれなかっただろう。
――だが!
俺だって、あのおっさんとの3年間を経て成長しているのだ!
「うおおおおおおおおおお!」
変態封殺術、それは連城村の秘伝の技!
だからこんなところで負けるわけにはいかないんだ!
――連城村の誇りにかけて!
「おおおおおぉぉぉぉっ!」
少しずつだが、倉橋の攻勢に翳りを感じた。
彼女の表情に焦りの色は見えないが、それでも分かるのだ。
――終わりの時は近い……!
「……こうしてみると、たしかに高速で印を結んでる感じするよね。その場から動かないで、手だけ猛スピードだからかな?」
「……」
「ういうい?」
「あ、えっと……なんか、タロタロ、ゆらちゃんのお尻に触ってない?」
「むむむ? ん~、さすがに触ってはないと思うけど」
「でもなんか、かなりきわどく見えるなって」
「……うぬう、たしかに……」
そんな会話が聞こえてはいたが、俺の集中を乱すことはない。
いや耳に入っている時点で意識は割いているわけだが、その上で俺が圧倒できるだけの力量差が倉橋とのあいだにはあった。
そう、油断さえしなければ、俺が負ける相手では決して無かったのだ。
「……っ!」
最後は倉橋の両手を力強く握りしめ、そして。
「――俺の勝ちだ!」
「あーあ、負けちゃったぁ」
がっくりと肩を落とす倉橋を見て、俺はふうと息を吐き出す。
こいつはまだまだ伸びるだろう。
うかうかしていると次は手も足も出なくてもおかしくないし、俺も研鑽をつまないとな。
そしてなにより、慢心に気付かせてくれた倉橋に感謝だ。
「…………」
「ユーラ、どうかした?」
決着がついてからもその場を動かない御城ケ崎が心配になったようで、ラビュが近づき声を掛ける。
たしかにちょっと不自然なくらい微動だにしていない。
もしかしたら背後で行われた俺たちの攻防に凄まじさに、度肝を抜かれたのかもしれないな。
「い……いえ……特には……」
「でも顔が赤いよ? もしかして、おしりを触られてるような気分だった?」
「……あの、気分というか……ずっと触られてました。……光太郎様に……」
「は!?」
「も、もちろんソフトタッチですが……明らかに撫でまわされていたというか……」
「無罪だ! 俺は指一本触れてない! そして倉橋にも触らせはしなかった!」
「ぬーん?」
悩まし気に腕を組むラビュ。
たしかに判断に困る気持ちも分かるが、俺は間違いなく無罪で……。
……でもどうしたら、そのことを信じてもらえるんだ……?
「あ、ウイカはゆらちゃんの味方だよ! 電車の時もソフトタッチされた感じだったし。タロタロの手が、ウイカのおしりを優しく包み込んだというか」
「た、たしかにそんな感じでした……。光太郎様の愛情に包まれた気分で……」
「そんなもんで包んだ記憶はないぞ」
「むう……」
「お、おい、ラビュ。信じてくれないのか……」
「コータローのことは信じてるけど、でも、ユーラとウイウイの証言も信ぴょう性があるし……」
「くっ……」
それは確かに否定できない。
当事者の俺だって一瞬、『あれ? もしかして触った?』なんて思ってしまったほどだし、他人ならなおさらだろう。
結局のところ、彼女たちを納得させるだけの証拠がないのだ。
「んーでも、あたしは違うと思うなー。たぶん」
「倉橋……」
俺に味方してくれるのは倉橋だけのようだ。
激闘をかわした直後なだけに、俺の熱い魂を感じ取ってくれたのだと思う。
「ですがこれでは、水掛け論といったところですね……」
「ま、まじかよ」
俺は痴漢という汚名と共に生きないといけないのか……?
心身ともによろめく俺に、御城ケ崎は優しく微笑む。
「ですが光太郎様。ご安心ください」
「……安心しろって言われても……」
「こんなこともあろうかとわたくし、ビデオ判定の準備をしておりました」
「ビデオ判定の準備!? なんだよそれ!? ……はっ!?」
意味が分からず驚愕してしまったが、すぐに思い出す。
そう、この部室はきわめて特殊な場所なのだ。
「隠しカメラか!」
「ええ、今回の攻防もきちんと撮影しておりました」
まさか彼女の盗撮趣味に助けられる日が来るとは。
人生は何が起きるか分からないな。
「さてそれでは、わたくしのお尻が光太郎様の手によっていやらしく撫でまわされる様を、みなさまと共に見学いたしましょう」
御城ケ崎は特に俺の無罪を信じているわけでもないようだが、しかし今はそれでいい。
映像を見れば、俺がやっていないことはすぐに分かるのだ。
「では、再生いたします」
御城ケ崎がカチカチとマウスを操作すると、長机の上に置かれた大きなディスプレイに映像が表示された。
「おっ」
ちょうど俺と倉橋の攻防が始まった瞬間から再生してくれたようだ。
画面の左端にアップで映っているこんもりとした膨らみは、御城ケ崎のおしりだろう。
そしてそのすぐ右側で、俺と倉橋の手が激しく交錯していたわけだが――。
「いや……これ……」
口には出さなかったが、みんな同じ気持ちだったと思う。
俺の手、御城ケ崎のおしりに触ってないか……?
いや、もちろんそんな感触は無かったから、そう見えるってだけだけど。
でもこの映像で見た限り、たしかに俺の指先が御城ケ崎のおしりに軽く触れているような……。
「コータロー」
ラビュは俺の肩にポンと手をのせ、にっこりと微笑む。
「どんな感触だった、ユーラのおしり?」
「い、いや、だから触ってないんだって。たしかにこの映像だと触ってるように見えるけど、それはあくまで角度の問題で――」
「光太郎様。ご安心ください」
御城ケ崎は、慌てて弁解する俺のもう一方の肩に手をポンと乗せ、ラビュと同じように優しく微笑んでいた。
「こんなこともあろうかと、ハイスピードカメラでも撮影しております。これからそちらの映像を再生いたしましょう」
「お、おう……」
ありがたいけど、なんか怖い。
なぜそんなものまで設置してるんだ。
この部活でハイスピードカメラが必要になる状況なんてあるか?
いやまあ、あったわけだけども……。
「では再生いたしますね」
御城ケ崎の声で現実に引き戻された俺は、再び映像を注視する。
先ほどと同じ画面構成で、違うのは再生スピードだけのようだ。
倉橋の右手の進行を阻もうと、俺の全身全霊をかけた『千手』がコマ送りで進んでいく。
――ここだ。
先ほど触れたように見えたのは、このタイミング……!
祈るような気持ちで画面を見つめる。
グングン突き進む俺の手。
いよいよ御城ケ崎のお尻に指先が触れてしまう、その寸前で――俺の手は後退していった。
「よっしゃ、セーフ!」
「んー、たしかにこれは触ってなさそうかにゃー」
その後もハイスピードカメラで検証を続けたが、俺の手は最後まで御城ケ崎のお尻に触れることはなかった。
無罪が確定し喜びを噛みしめる俺の隣で、ラビュは首を傾げている。
「でもそれならユーラとウイウイのおしりは誰に触られたんだろ? 感触はあったんだよね? もしかしておばけ?」
「おそらくですが、風圧だったのでしょう」
「風圧……?」
「ええ。電車内で凄まじい攻防が行われたという話を聞いたときに、実はわたくしピンと来ておりました。それほどの素早さで印を結んでいたのなら、きっと風圧もすごかっただろうと」
「結んでないけどな、印は」
などとツッコミを入れつつ、俺は御城ケ崎に感謝していた。
当時の状況を再現するよう提案したのも御城ケ崎だし、カメラで撮影してくれたのも彼女だった。
柚子島の話を聞いた時点で真犯人の目星がついていたのなら、俺にお尻を触られたと言い出したのも、この結論に導くためのブラフだったのだろう。
俺はただ動揺することしかできなかったのに、彼女はすべての段取りを組み、そして俺の無罪を見事に証明してみせたのだ。
「御城ケ崎。冤罪だって証明してくれて助かったよ。ありがとな」
俺がそう言うと、御城ケ崎は照れたようにフッと目をそらす。
「そ、そうですか……しかし、冤罪とはかぎりません……」
「は?」
「風圧を発生させたのは光太郎様の手であることには間違いが無いのですから……つまり広い意味で申し上げれば、光太郎様の手がわたくしや初夏さんのお尻を撫でまわしたと言っても過言ではないかと……」
「たしかに!」
「いや、たしかにじゃないだろ!? 実際に触ったのならともかく、風圧がしたことの責任までは持てないからな!」
「あっは! タロタロ、マジ焦りしてるじゃん。ウケる!」
またウケていた。
俺はガックリと肩を落としつつ――でも正直に言うと、そんなに悪い気分でもなかった。
だって小学生の頃、喧嘩別れのようになってしまった柚子島が、俺に笑顔を向けてくれているのだ。
それはまるで、胸に刺さり続けていたトゲが、ようやく抜けたような晴れやかな気持ち。
「ウイカのおしりの感触はどうだったの、タロタロ? うりうりぃ」
「やめろって」
だから俺は、再び腹を削りに来る柚子島を適当に追い払いつつ、思わず笑顔になってしまうのだった。




