幕間 連城村が崩壊した日 その4(連城双龍視点)
「……こ、光太郎!? なぜここに……!」
広場の片隅で立ちすくんでいたのは、学校帰りらしき光太郎だった。
状況をまるで理解できていないらしく、血塗られたシグマの姿を呆然と見つめている。
「光太郎! 逃げろっ!」
全力で叫んだ。
けれど金縛りにでもあったように、光太郎はその場から動かない。
いや動けないのだろう。
そんな光太郎の姿を、シグマの濁った瞳が捉える。
背筋が凍った。
今の彼女は明らかに理性を失っている。
相手が息子だからといって躊躇するとは思えない。
……でも、もしかしたら……。
奇跡を祈る僕の視線の先で、シグマは軽く身をかがめると、一瞬で光太郎の眼前まで移動。
勢いよく腕を振り上げ、そして――。
「おおおおおおおおお!」
叩きつけるような強烈な一撃を受け止めたのは、横から飛び込んできた相談役だった。
すでに交戦していたのか額からは血がだらだらと流れていて、シグマの拳を受け止めた右腕も奇妙な方向に曲がってしまっている。
それは明らかに重症だったが、彼の目は今なお力強い。
「御屋形様が負傷された! 退避までの時間を稼げ!」
そう鋭く叫びながら光太郎の身体を掴んで背後に放り投げたあと、勢いそのままに左拳をシグマの腹に叩き込んでいる。
かつては武闘派で鳴らしたと聞く彼だけあって、その素早い行動には目を見張るものがあるが……寄る年波に勝てるはずもない。
まして相手がホタル最強と名高いシグマとなれば、勝てる可能性など万に一つも無いだろう。
「光太郎様を車へ! 村の入口だ、急げ!」
相談役の叫びが聞こえたのか、村人たちが集まってきた。
みな驚愕の表情を浮かべつつも、やるべきことを理解しているように俊敏に動き出していく。
相談役の援護に向かう者、気を失った様子の光太郎を抱きかかえ車へ急ぐ者……。
……僕だけが。
この村の人間で、僕だけが役立たずだった。
僕の身体が動けば。
彼らと共に戦うことができれば状況はまるで違うのに……。
「双龍、ここにいたのね!」
そんな時、息せき切ってこちらに駆けよってくるひとつの影。
ドレッドさんだ。
金色の髪は汗によって額に張り付き、口元にはわずかに血がにじんでいる。
「動ける?」
「いえ……無理みたいです」
力なく呟いてから、彼女にすがるような視線を向けた。
「ドレッドさん……あなたの催眠で、シグマを抑えられませんか……?」
それはこの追い詰められた状況での、唯一の希望。
けれど彼女は暗い表情で首を振る。
「暴走を抑える催眠は定期的にかけてたのに、こんな状況になってる。単に眠らせるだけなら今でも効くかもしれないけど……暴れまわる彼女に催眠を掛けるなんて物理的に不可能よ」
「……じゃあ……じゃあせめて、僕が動けるようになる催眠を……」
「悪いけれどそれも無理ね。私の催眠はそこまで万能じゃない。外傷によって身体が動かないのは、意志の力じゃどうにもならない」
「……そんな……」
「ごめんなさい、私はここで死ぬつもりは無いの。娘たちが待ってるから。そして双龍を死なせるつもりもない」
そう言って僕の身体を抱き起し、ずるずるとひきずっていく。
そんな僕らの盾になるかのように、村人たちがシグマとの間に立ちふさがった。
「ドレッドさん、双龍様と光太郎様のことは頼む!」
「ええ……ごめんなさい」
「なにを謝る。むしろあんたがこの場に居合わせてくれたことに感謝してるよ。俺たちじゃ、村の外にある病院まで双龍様を車で運ぶなんてできっこないもんな」
「光太郎様、乗せました!」
「よし、じゃああとは村長だ。悪いが急いでくれ。時間を稼ぐといっても、そう長くは持ちそうにない」
相談役は未だ健在とはいえ、それは互いの戦力差を思えば的確な分析としか言いようが無く。
……だからこそ僕は首を左右に振った。
「僕のことはいいから、みんなは逃げるんだ……みんなだけでも逃げてくれ……」
「なに言ってんだよ村長。あんたがいなけりゃ連城村が成り立たないだろ。生き延びてもらわないと、俺たちが困るんだよ」
「違う……逆だ……僕がいなくても君たちが居れば村は成り立つ……! 僕が命に代えてもシグマを止めるから……! だから君たちは逃げてくれ……!」
情けなく引きずられながら、僕は全力で叫んだ。
村の皆がこちらを振り返る。
その顔に浮かぶのは――笑顔だった。
死を覚悟したものだけが見せる、どこまでも優しい微笑み。
見る者の胸を締め付ける様な、そんな表情。
「本当に分かってねえなぁ。この村には連城双龍というまとめ役が必要なんだ。俺たちがいくら寄り添ってもそれは全裸の変態の群れに過ぎない。それじゃダメなんだよ」
「ああ、親からも変態犯罪者として見放された俺を、あんただけは見捨てなかった。今度は俺があの日の恩を返す番だ。あんたは生き延びることだけ考えてりゃあいい」
「そうです。村長さえ生きていれば、連城村は何度だって蘇ります。この村が再び楽園と呼ばれる日を、私たちは楽しみに待ってますから」
そう口々に言って、武器とは呼べないような各々の仕事用具を手に、シグマに立ち向かっていく。
その結果は火を見るより明らかだ。
まず最初に倒れたのは相談役。
……そこで均衡は完全に崩れた。
理性を失ったシグマの手によって、村人たちはぼろ雑巾のように薙ぎ払われていく。
血が舞い肉が飛び散り……そこには老若男女の関係なく……。
あんなにも平和を愛した村人たちが。
自然な暮らしを楽しんでいたみんなが無造作に地に伏せていく。
――それはまさに地獄のような光景。
僕はそんな地獄のような光景をジッと見ていた。
否、見ることしかできなかったのだ。
「やめろ……やめてくれ……それは僕の役目なんだ……僕の犯した過ちは僕がケリを付けないと……それは皆が払う代償じゃないんだ……」
「双龍! いいから早くこの車に――え?」
ドレッドさんの戸惑うような声。
その直後、甲高いブレーキ音と共に、目の前に一台の車がとまった。
見慣れない黒塗りの車は、明らかに高級車で。
そこから降りてきたのは――。
「……どうやら非常事態のようですね」
「貴方は……御城ケ崎家の……」
長い黒髪に上品な着物姿。
車から降りてきたそんな女性を見て、ドレッドさんがつぶやく。
その言葉で、僕も彼女の姿に見覚えがあることに気付いた。
「ええ、御城ケ崎知代と申します。こちらは娘のゆら。以前お送りした書状の件で来たのですが……今は呑気に自己紹介をしている場合ではなさそうですね。――助力いたします」
その言葉を残し、広場に突進していく彼女の力は――ひとことで言えばすさまじかった。
どう見ても動きやすい服装とは思えないのに、災厄のようなシグマと真っ向から打ち合い、そのうえで一歩も引いていない。
拳を放った次の瞬間には、シグマの大振りを華麗にかわし、そしてまた次の一撃を放つ。
彼女のよどみの無い動きは、演舞を思わせた。
そしてその間にも高級車が次々と到着し、黒スーツ姿の男たちが車から降りてきては、華麗に舞い踊る彼女に加勢していく。
多勢に無勢というべきか、シグマの狂気じみた勢いに陰りが見え始め――。
「……ぐっ!」
小さなうめき声と共に、シグマがその場に崩れ落ちた。
胸には鋭利な長刀が突き立っている。
御城ケ崎知代。
彼女が背後から突き立てたその刀は……明らかにシグマに致命傷を与えていた。
シグマの全身を覆っていた暗黒のオーラは消え、地に伏せた今はピクリとも動かない。
「申し訳ありません。力及ばず、命を奪うことになりました」
「…………」
こちらに歩み寄り頭を下げる御城ケ崎知代に、僕は返事をすることができなかった。
この事態を生み出したすべての元凶である僕に、彼女の判断を咎める権利などあるはずもなく……けれど失望の他にどんな反応ができただろう。
何も言うことができないままぼんやりとしていると……。
「なんだ……?」
その不審そうな声は、シグマの傍らに立つ男があげていた。
彼の視線はシグマに……いや、シグマの胸の輝きに向けられている。
不思議な淡い光。
そしてその光が消えると同時。
男はぷつんと糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。
「……!?」
次の瞬間、全員が目を見開いた。
それはあまりにも異常な光景。
――間違いなく胸をつらぬかれたはずのシグマが、平然と立ち上がったのだ。
彼女を覆う暗黒のオーラは、力強さを増している。
そして自身の胸から刀を抜き取ると、それを無造作に投げた。
それはなんの力も籠められていない、単なる手投げでしかなかったが。
「…………え?」
御城ケ崎知代は自身の身体を見下ろしていた。
……胸に深々と突き立てられた刀を。呆然と見ている。
――シグマの反撃が始まった。
正直に言って、その後のことはよく覚えていない。
ただ、あんな状態にもかかわらず御城ケ崎知代が奮戦していたことだけは記憶している。
仲間たちが次々と倒れ伏す中、彼女はシグマの一瞬の隙をついて接近すると、その首筋に長刀を叩きつけていた。
互いの胸に深々と刺さった、いわくつきの長刀を。
「このっ……化け物がっ……!」
「ぐ……ぅ……」
血にまみれ鬼のような形相の御城ケ崎知代は、膂力だけで長刀を押し込んでいく。
だが、彼女もそれで限界だったのだろう。
シグマの身体に刀がめり込んでいくにつれて、御城ケ崎知代の表情も歪んでいき……。
最終的にはふたりでもつれ込むようにして倒れた。
「ドレッド・ハラスメント! このバケモノを催眠で鎮めなさい!」
胸から溢れる血を必死でおさえながら、息も絶え絶えに叫ぶ。
だが、そもそもドレッドさんもタイミングを狙っていたらしい。
いつのまにか周囲には甘い香りが漂い、そして――。
「眠れ!」
その言葉と共に、シグマの動きが完全に止まった。
「……効いた……?」
「恐らく……」
ドレッドさん自身も半信半疑のようだが、無理もない。
催眠は相手の同意のもと、落ち着いた状態で行うのが基本だ。
興奮状態の相手に実行するなど彼女も初めての経験だったろう。
あるいは、シグマの意識レベルが低下していたからこんな状況でも効いたのかもしれないが……それはつまり催眠とは無関係に死に近いということで……。
「この化け物……私の力を……」
そして死に近いという意味では、御城ケ崎知代も似た状況だった。
彼女は、力なく地面に横たわっている。
胸の刺し傷の深さを思えば未だに命を保っていることが驚きですらあったが、実のところ僕の意識は別の所に割かれていた。
御城ケ崎知代の傍らに、彼女の娘――確かゆらといったか――が立っていたのだ。
彼女が母親に向ける視線は――氷のように冷たかった。
「……滑稽ですね」
「ゆ……ゆら……」
「策士策に溺れる……我が母ながらあまりにも滑稽です……」
御城ケ崎知代は、幼い娘の言葉に何を思ったのか薄く笑うとそのまま目を閉じ。
そして――彼女の意識が戻ることは二度と無かった。
夕焼け色に染まる中、辺りに静寂が戻る。
それが仮初の平穏に過ぎないことは、この場にいる全員が理解していただろう。
シグマは確かに意識を失っていた。
けれど全身に纏う暗黒のオーラが、未だに消えていないのだ。
と、突如背後から物音が響く。
視線を向けると、やってきたのは身体を重そうに引きずる秋海さんだった。
「双龍さん……!」
「秋海さん……ご無事でしたか……」
「無事でもないですがね。まあそれに関してはお互い様でしょう」
彼は脇腹を押さえながら苦笑し。
そしてシグマに目を向けた。
「……状況は?」
「ドレッドさんの催眠で……一時的に眠りにつけることに成功しました……」
「なるほど。一時的、ですか」
意味ありげにつぶやいてから、秋海さんは僕をまっすぐ見つめた。
「それで、どうされるおつもりです」
彼の質問の裏に、僕の言葉に従うという意味合いが込められていることには気づいていた。
そして……。
そんな彼の問い掛けに、僕がどう答えるべきかも分かりきっていた。
シグマの暴走はいまだにおさまっていないのだ。
彼女が再び目覚めれば、どれほどの被害を生み出すか分かったものではない。
そのうえもし彼女の暴走を無事に抑え込めたとしても、殺人の罪に問われることは避けられないだろう。
何十人もの大量殺人。
つまりは――死刑。
どんな選択をしてもシグマに明るい未来がないのなら。
催眠が効いているこのタイミングで速やかに命を絶つべきだ。
それが彼女にとっての救いになる。
ホタルがその身と引き換えに村長の暴走を止めるように、僕もそれをしなければならない。
……すべてが手遅れとなった今でも、それをしないといけない。
そんなことは分かっていた。
分かっていたけれど……。
どうしても思い浮かんでしまうのだ。
村人たちが最後に見せた、あの胸が締め付けられるような笑顔を。
そして彼らが遺していった言葉を。
皆は僕に、村の未来を託していったのだ。
いつの日か連城村を復興して欲しいと願い、その身を犠牲にしたのだ。
ホタルがいなくなっては、連城村の存続など望むべくもない。
そして。
僕自身シグマを殺して終わりなんて、そんな結末を認められるわけが無かった。
「……シグマはただ眠っているだけです。僕が彼女の暴走を治める方法を……すべてを丸くおさめる手段を必ず見つけ出します。だから今回の件の後始末は、すべて僕に任せてください」
痛みに耐えながらも、きっぱりと告げる。
皆がこちらに向ける不安そうな表情には気付いていたが。
それでも僕がやり遂げないといけない。
あの美しかった連城村を取り戻すために。
そしてなによりも――シグマの笑顔をこの手に取り戻すために。




